【閑話1】 体育祭のチケット(前編)
瀬原公子は、仕事から帰宅すると、すぐに風呂の湯を沸かした。
今日はシャワーではなく、湯船に浸かりたい気分だった。
バスタブにお湯が溜まるまでの間、公子はソファにもたれかかり、焦点の合わない目でテレビから流れるニュースを見ていた。
――本日正午過ぎ、特区つきまとい禁止条例違反の現行犯で、飲食店の従業員山根蘭容疑者が逮捕されました。東京特区に住む男性からの相談で、私服の警察官が警戒する中、山根容疑者は……
「……ああ、疲れた」
天井を仰いだ途端、ここ数ヶ月の疲れがドッと押し寄せてきた。
もうこのまま寝てしまいたいが、そういうわけにもいかない。
眠気を飛ばすため、テレビのニュースに集中する。
――山根容疑者は、大学時代に知り合った男性に一目惚れし、たびたび付きまとうようになり、男性のあとをつける行為を繰り返し……
「あるよねー、それ」
つい、テレビに向かって突っ込んでしまった。
向上心のある男性は、大学に進学する。
そして大学には『男子大』は存在しない。共学か女子大のみである。
それゆえ、特区内の共学大学ならば、たいていどこでも男子学生が通っている。
そこへ進学することは、男性と知り合えるチャンスなのだ。
だが、現実はそれほど甘くない。
大学にまで進学する男性にはすでに鉄壁のガード、つまり女子による壁ができており、おいそれと近づけない。
それでも男性と同じ大学に通う、同じ講義を受ける、同じ空間にいるというだけで幸せになれる女性も多い。
それだけならばいいのだが、本気で惚れてしまうケースがある。
恋は盲目とはよく言ったもので、相手のことを考える余裕もなく、ついつい近づき過ぎてしまうのである。
もちろん、女性は男性に近づく権利はある。
どれほどガードが堅くても、接近禁止にできるわけではない。通常ならば。
結果、ギリギリを攻める女性が増えてくる。
一人がやり出すと、自分も、自分もと、どこからともなく湧き出てくるのだ。
道路交通法によると、何人たりとも公道での通行を妨げてはならないとある。
往来を占有してはならないし、人の通行を邪魔してはいけない。
それをいいことに、男性に近寄ろうとして、ガードする女性ともみ合いになったりする。
たしかに女性の通行を妨げることはできないが、この時点でもう、手段と目的をはき違えている。
そういった傍若無人な女性のために、特区には『つきまとい禁止条例』というものがある。
直接声かけをしなくても、男性の近くをうろつく、あとをつける、家の前で待ち伏せをするなどを禁止する条令だ。
男性からの相談があれば、道路交通法を犯すことがなくても、一度目は警告。
二度目は一時的に拘束されるが、被害者の男性に処罰感情がなければ釈放。不起訴処分となる。
普通は書類送検されて、裁判がはじまるかどうかは検察次第となる。
そして三度目になると、ほぼ間違いなく逮捕。起訴される。
ニュースでは現行犯逮捕とあったので、二度目か三度目だろう。
起訴されれば間違いなく、特区外へ強制退去されるので、普通は一度目でつきまといを止める者がほとんどだ。
逮捕された女性も、「分かっているのに止められない」状態だったのだろう。
――ピー、ピー、ピー
風呂のお湯が沸いた。
公子は、一日の疲れを癒やすため、風呂に入ることにした。
「……ふう」
湯船に浸かり、先ほどのニュースを思い出す。
捕まってもいいと思えるほど恋い焦がれる対象がいるのは、正直羨ましい。
公子は27歳。連れ合いはいないが、そろそろ子供が欲しい年頃である。
ただ、いまは仕事がおもしろく、重要なことを任されるようになって、張り合いも出てきた。
忙しさも相まって、国の機関に登録できないでいる。
お金のかかる趣味はないため、妊娠・出産費用はすでに貯まっている。
準備はできているのだが、いまひとつ踏ん切れないでいた。
――ぴろろ、ぴろろ
「ん? 電話?」
洗面台においたスマートフォンが鳴っている。
公子は浴室から身体が出ないように腕を伸ばし、スマートフォンを掴んだ。
「……もしもし、あみちゃん? どうしたの?」
電話の相手は、同僚の阿美だった。
同期入社で、ともにキツイ新人研修を乗り切った仲間。
働く部署こそ違うが、同じビル内で働いているため、会おうと思えば、いつでも会える。
わざわざ電話をかけてきたことに不安を覚え、公子の声は探るものになった。
「公子、いま家?」
「そうだけど、なに?」
「この前、公子が言っていた……動画の『武人の部屋』だけど、最近見てる?」
「そんな体力ないわよ。三日ぶりに終電前に帰れたんだから。週末にまとめて見るつもりだけど、武人くんがどうしたの?」
「見てないのね? 最新の動画で、体育祭の練習風景がアップされたの。女子と一緒に! つまり彼、共学校に通っていたのよ」
「ほんとに!?」
「驚きでしょ? それで東京特区の共学校はたった二校。そのうち体育祭がもうすぐ行われるのは伊月高校しかないわけ」
「……じゃ、じゃあ、武人くんって、伊月高校生だったんだ。共学校の……男子高校生」
動画から高校生くらいだとは思っていたし、そのように発言もしていた。
制服姿も見たことある。
何度見返しても、夏服の上半身しか映ってなかったため、高校名までは特定できなかった。
男子校だと思っていたのだが、まさか共学校だったとは。
「今度の日曜日にその体育祭があるんだけど、入場チケットがXBayで売られているのよ」
「ええっ!?」
XBayというのは、売れるものなら何でも売るのをコンセプトにしたフリマサイトである。
ややアンダーグラウンドな取り引きもあって、公子は一度も使ったことはない。
何度かサイトを覗いたことはあるが、新品、中古品、ジャンク品、自作品のみならず、自身の労働力すら売っている人もいる。
かなり玉石混淆なサイトだ。
「そのチケットはオークション式になっていて、値段が今まさにモリモリ上がってるの」
だから一応、念のため、もしかしたらと思って電話したと、阿美は言った。
「ありがとう。確認してみるね」
通話を終えて、公子は素早く思考を巡らせる。
今度の日曜日、めずらしく仕事は休みだ。希望すれば土曜日も休めるだろう。
前日、東京のホテルに宿泊して、翌日曜日は、全力で『彼』を応援できる。
仕事で使うカメラは手元にある。写真も動画も取り放題の高級品だ。
「問題はお金ね」
入場チケットはオークションにかけられていると阿美は言っていた。
どのくらいの値が付いているのか分からないが、出産育児のために貯めたお金はある。
どうすればいいか?
どうすべきか?
スマートフォンを握りしめたまま、公子は立ち上がった。
「どうすればいいかなんて、答えは初めから出てるわよ!」
使うに決まっているでしょ! と公子は握りこぶしを掲げた。
もちろん全裸で。
7月に入ったら急に忙しくなり、猛暑もあいまって更新できませんでした。
とりあえず、少しずつ閑話を投稿していきます。
今回は、体育祭のチケット販売を見つけた女性のお話です。前後編に分かれています。
後編は明日、投稿します。




