シリル・ソレント
──悪いがテラード、彼女はお前達が付き合うような身分では無いと思うが?──
──っ、アレクスは王族だ。テラードとレトニスは次期侯爵、レイヤー嬢は王族の血筋の公爵家。君の方から離れるべきだ。悪影響にしかならない──
この言葉はシリルと初めて出会った時のもの。今思えばよくもまぁ、手厳しい言葉を投げられていたものだ。
しかし、キャラスティは傷付きはしなかった。シリルの言う事は貴族社会では当たり前の事なのだから。
「あの日の事。やり直しが出来ないからこそ、ずっと心に刺さっている。違う言いようがあったのに。俺は俺達と関わる事で悪意を向けられて欲しくなかったのだともっと優しく言えば良かったのに。キャラスティを傷付けたのだと」
キャラスティの隣に銀灰色を揺らしながらシリルが立つ。
シリルは悲しそうな苦しそうな⋯⋯悔しさを滲ませた表情でこの中庭で起きた過去を眺めていた。
──ここは、シリル様の夢の中。
シリル達に植えられた「記憶の種」を取り除いてくれとカレンに願われ、導かれたこの「いつもの中庭」。
キャラスティにとって大切な場所だが、シリルにとっても忘れたくない場所なのだと嬉しく感じながらもその記憶は彼には苦いものでもあるとキャラスティは言葉を探す。
そう、シリルは冷たく見られるその容姿と言葉足らずで誤解されがちなのだ。それでも内面はとても優しくとても熱い気持ちを持っている。
彼の自信に溢れ、傲慢にも思える厳しい口調と態度に「優しさ」が隠れてしまっているのだ。キャラスティはこれまでの交流で本来のシリルは何よりも友人達、守るべきものを大切にする人物なのだと知っている。
「私はシリル様が心配してくれたのだと分かっています」
その言葉にシリルが薄く笑うと次々と場面が切り替わって行く。
マッツとリズの店「ノース」の帰り道でキャラスティが拐われ必死に探すシリルの姿。ベヨネッタの実家「ムードン」での休暇。試験対策のダンス指導とおかしな雰囲気の馬車。
そして…… 寮でのダンスレッスン。
懐かしい景色が流れる。
それは一年にも満たない短い時間に起きた出来事。けれど、かけがえのない宝物のような日々の記憶。
思い出せば幸せになれる大事な記憶。それらがまるでアルバムのページが捲られるように流れて行く。
これらは夢幻回廊が見せるものだとしてもシリルがキャラスティとのほんの小さな記憶を忘れたくないと思っていてくれているのだと感慨深く眺めた。
それにしても…… シリルの記憶の中に出てくるキャラスティが少々美形化されていることに苦笑が浮かぶが。
「あの時、作ってくれたクッキー」
ポツリとシリルが呟く。
「これまで少なくはない令嬢からのプレゼントを受けて来た。中にはおかしな薬を混ぜたものもあったから貰うもの、手作りのものは警戒するよう教え込まれ、その癖が付いていたのに。キャラスティのものは⋯⋯何故か信用できた」
「失礼でなかったのなら⋯⋯光栄です」
お世辞でも嬉しい。シリルの言葉にキャラスティの頬が緩む。
シリルも先程までの切なげな顔ではなく穏やかな優しい笑顔でそっと藍色の瞳を閉じ言葉を紡ぐ。
「嬉しかったんだ」
広がる記憶の景色がまさにシリルへクッキーを渡した場面に変わる。
「そして、寂しいと、思った」
あの時、キャラスティは何気なく「お礼」だとクッキーの包みを手渡した。親しい間ならば何ら問題はない行為なのだろうが、彼らは「特別」な立場故に手作りの品を口にするなど普段ならしない。
キャラスティはつい、レトニスに対しての行動と同じ事をしてしまったと恥ずかしくなりその時のシリルの表情を気に止めることはしなかったのだ。
だが、記憶が見せるクッキーを手渡されたシリルは何故か泣きそうに眉を寄せ微かに唇を噛んでいた。
「俺はキャラスティを傷つけた。なのに君は何も変わらなかった。俺を避ける事も、俺に媚びる事もしなかった。嬉しさと同時に芽生えた感情⋯⋯この気持ちが何なのか⋯⋯分からない。だから、アレクスの側室になれば君と、友人で居られる。そう、思って⋯⋯」
キャラスティはシリルがそんな事を考えていたのかと驚いた。確かにシリルは事ある毎にアレクスの側室を推していたのだから。
「シリル様が私なんかを友人だと言ってくれて嬉しいですよ。でもそれは何かをしてもらえるから友人なのではありません。それに、私はシリル様に傷付けられてはいませんよ。傷付いたらちゃんと伝えます。それが友人なのかなって」
シリルはその言葉に小さく微笑みを浮かべるとようやくキャラスティに向き合った。
「許して、くれるのか」
「許すも何も心当たりがありませんから」
「友人で、居てくれるのか」
「シリル様がそう思ってくださる間は」
「なら⋯⋯ずっと友人、だ」
シリルは北の侯爵になる。いつか、この友人関係が終わる日が来るのかも知れない。その日が来るまで。
本来は知り合う事すら無かったはずだから。
シリルは安堵の表情を見せゆっくりと口を開く。
「テラードから聞いた。君は⋯⋯誰よりも俺達を知っていると⋯⋯君の知る「俺」と「俺」が違っていても君は受け入れてくれるだろうか。俺を「ゲームのキャラクター」ではなく「シリル」として」
「当たり前です。シリル様はシリル様ですよ? 厳しくて言葉足らずで思い込みが激しいのもシリル様です。でも、本当は優しいです。冷たくて優しい。それは「ゲーム」の設定にはありません。シリル様だけの優しさです」
「⋯⋯ありがとう」
その言葉にシリルは少し驚いた表情を見せたがすぐに穏やかに笑い、手を差し出した。キャラスティはその手を握り返す。
温かい手の平にキャラスティはシリルを見上げて頷いた。
ずっと気にかけてくれていたシリル達を「悪夢」から解放するにはどうしたら良いのか。「記憶の種」を取り除くにはどうすれば良いのか分からなかったが、たった今、握った手に力を込めた瞬間、分かった気がする。
「シリル様、ここはシリル様が望む事が起きる場所です。シリル様の望みはなんですか?」
「望み⋯⋯」
「あ、でも破廉恥なのはダメですよ」
「破廉恥⋯⋯」
苦笑したシリルに向けてキャラスティは優しく微笑む。
「俺の、望み⋯⋯」
『惑わされないで! シリル様!』
シリルが口を開きかけたその時、突然、聞き覚えのある声が響いた。それは鈴が転がるように可愛らしく、砂糖菓子の甘さを含んだ声。
『あなたが欲しいものは何? 私が祝福してあげる。あなたは私じゃないと幸せになれないの。幸せが欲しいでしょう? あなたは私が欲しいのよ』
「俺が欲しいのはお前じゃない! 俺の望みは──」
『悪役の言葉に惑わされないで。これは悪役が乗っ取った悪夢。この記憶の相手は私』
「違う! お前じゃない! 悪夢なんかではない!」
「シリル様、落ち着いてください。大丈夫、大丈夫です」
「俺は、俺はっ──」
シリルの藍色が揺れる。
キャラスティは取り乱し蹲るシリルの背中を撫でながらそっと抱きしめた。
「これは夢幻回廊だ。現実のものではない。いくら望んでも⋯⋯夢なんだ⋯⋯」
「そうですよ。夢です。だから、夢でくらい願い事が叶っても良いと思いませんか?」
微かに震えていたシリルはキャラスティの腕の中で目を閉じるとゆっくりと息を吐き出した。
「⋯⋯ここは夢の中。でも、「悪夢」なんかじゃない⋯⋯」
「悪夢を終わらせられるのはシリル様次第です」
「キャラスティ、俺は君と──」
『また邪魔すんのかよ! あんた邪魔なんだよ! いつもいつもアタシの邪魔しやがって! あんたは悪役なんだ! 悪役は消えろ! 消えろ! お前なんか死ねばいい!』
濁った悪意が「記憶」を黒く染めようとする。シリルは忌々しげに顔を上げ姿の見えない何かを睨んだ。
罵倒をやめない声。心の中に侵入しようとする悪意。
それらを拒絶するかのようにシリルの瞳に強い光が灯った。
「君と、キャラスティと⋯⋯踊りたい」
「えぇぇ⋯⋯? おど、る」
キャラスティはその言葉を聞き、思わずシリルの顔を覗き込んだ。
まさか踊りたいとは。しかも自分と。そんな望みで良いのか。シリルの望みはそんな事で良いのか。動揺するキャラスティに真っ直ぐに向けられた藍色の瞳。よく見ればシリルの瞳は角度によって微かに紫が入る。この色はもう一つのシリルの色、優しさの色なのだろう。
「特訓ではなく、君にダンスを申し込みたい」
「ご存知の通り私、下手ですよ? 運動神経ボロボロですから」
「ダンスの上手い下手でその為人は決まらない。一緒に踊って楽しめるかだ──俺は楽しかった」
「俺の望みはキャラスティと踊る事」
シリルがはっきりと宣言した望み。その瞬間、パキンと何かが割れる音が響き、辺りに菫色の花弁が舞った。
同時に声も聞こえなくなり花弁がキャラスティに纏わり付きフワリと裾を広げて行く。
シリルは指揮者のように両腕を揺らして描き出す。あの日を、苦い記憶である「聖夜祭」の夜を。
そうして景色は煌くシャンデリアと揺れるドレスへと変わり優雅な音楽が流れ始めるとシリルは目を細め懐かしむようにキャラスティの手を取りダンスの姿勢を促した。
「あ! ボディコンタクトですね」
「正解だ」
二人はクスッと笑うとステップを踏み始める。相変わらずキャラスティの足元は危なげながらもシリルのリードに合わせて身体を動かす。最初はぎこちなかった動きだが、次第に滑らかになり軽やかな足取りに変わる。
くるりと回る度にふわっと広がるドレスの波とシャンデリアの光。その光が強くなり景色を白く染める。
曲が終わる頃、ふと足を止めたシリルの姿が光に溶け込み始めた。
「⋯⋯夢が覚めたら、また踊ってくれるだろうか。クッキーを⋯⋯作って貰えるだろうか」
前にシリルを番犬のようだと思った事がある。尻尾を振る大型犬のようなシリルにキャラスティは驚きながらも「勿論です」と答えた。
「楽しみにしている──」
ほっとしたような、嬉しそうな笑顔を最後に見せたシリルは完全に光へと溶け込み、その後には小さな「種」がキャラスティの掌に転がった。
カラカラに干涸びたその種をキャラスティがぎゅっと強く握り締めると掌の上で粉々に崩れ落ちた。
・
・
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「あ!」
祈りの手を緩めてカレンは声を上げた。
眠るシリルの額に浮かんでいた「種」がパキリと割れ、そこから吹き出した黒い霧が窓から外へと逃げるように消えて行ったのだ。
種があった時より頬に血色が戻り、静かな寝息を立てるシリルは日が上れば目覚めるだろう。大切な「記憶」と共に。
ふぅっとカレンは安堵の息を吐く。
「キャラスティ様⋯⋯貴女なら出来ると思っていました」
カレンはソファーへと横たわらせたキャラスティにそっと毛布をかけ直してその額に触れた。
「今度は、今度こそ⋯⋯私が「お姉さん」あの子から守る」
カレンから無意識に溢れた言葉。自身が発した言葉なのに「お姉さん」とは誰の事なのか。
はっとしたカレンが鏡を見る。
そこには普段の自分とは違う黒髪の少女の姿が映っていた。




