「変わらない」ものと「変える」もの
その庭は思い描いていたままにそこにあった。
キャラスティは緊張に小さく深呼吸する背中を支えられて一歩、また一歩。ゆっくりと進んだ。
賑やかな声が近くなるにつれて鼓動が早くなった。
「あっ! 今、みんなの話をしていたのよ」
この声はレイヤーだ。
「此度の遠征、ご無事で何よりです」
これはベヨネッタ。
「ごめんテッド兄。先に話しちゃった」
テラード達が帰って来たのを夜の内に知る事ができたブラントはせがまれて話してしまったのだろう。
「ご苦労様。ここに来れば会えると思って⋯⋯待っていられなくてね」
珍しく照れた声色のエミール。明日、キャラスティの家族との晩餐会に同席する予定なのに待っていられないと言う。意外とせっかちだ。
でも。
もう一人の声が聞こえない。
アレクスとレトニス達の後ろに付いているキャラスティは不安に目を閉じた。
「⋯⋯おかえり、なさい」
掠れ気味の声に呼ばれて目を開ける。
その声に道を開ける様に彼らの影が晴れると茶色の瞳を見開いた彼女の姿があった。
「キャラ、おかえり」
「リリー⋯⋯っ」
両手を広げたリリックにキャラスティは飛び付いた。しっかりと抱き留められたその温かさに涙が溢れる。
「ほら、ちゃんと言いなさい。皆んなに聞こえるように」
「うん。ただいま⋯⋯ただいまっ!」
「おかえりキャラスティ」
温かい「おかえり」に「ただいま」を繰り返す。
リリックとベヨネッタ。レイヤーとブラント。エミールとアレクス。テラードとユルゲン。シリルとレトニス。
彼らが居るこの場所が特別になっていた。
いつもと変わらない中庭。その「いつもの中庭」にキャラスティは帰って来た。
・
・
・
「何かございましたら、お声をおかけ下さい」
案内してくれた女官が退出し、扉が閉まるとキャラスティはそのままバルコニーへ出て夜風に当たりながら星を探して空を見上げた。
リリック達と再会し「帰って来た」実感を改めて感じたが、目を閉じ思い出すのは「島」の風景だ。あんなに王都に帰りたかったのに、帰ってきた今、瞼に思い描くのは「島」の風景。
キャラスティが「島」で出会ったセトとハカセ、ミリアとイライザの事、アメリアとフレイとの再会。小さな家で覚えた料理。一つの希望を託した「ステラ瓶」。それが届いていた喜び⋯⋯「島」の話をリリック達に語れば彼らは楽しそうに聞いてくれていた。
チクリ。チクリ。
「島」を一つ一つ語れば胸に小さな痛みが走った。
キャラスティの為に彼らがどれだけ頑張ってくれたのかを島からの帰路中にレトニス達から教えてもらったのに。
リリック達は「王都」でキャラスティの行方を探る為にランゼの「ブローチ」をすり替え、「悪役」と「攻略対象者」として「ゲーム」を再現していたのだ。
リリック達が辛い目に会っていた。それなのにキャラスティは島での生活を楽しんでいた。
この痛みは罪悪感だろうか。
勿論、こんな気持ちを持ってしまっているとリリックが知れば怒られるのだろう。「馬鹿ね」と笑うリリックが簡単に想像出来てキャラスティは深呼吸して背伸びする。
──ランゼさんの事も⋯⋯まだ。
中庭の帰り際、エミールからセプター男爵とランゼが姿を眩まし、まだ捕まっていないと聞かされた。
キャラスティは誘拐されてランゼの憎しみの深さを痛感したのだ。ランゼは「ゲーム」の通りにならない苛立ちを持ち、その原因がキャラスティだと憎んでいる。その彼女がこのまま大人しく姿を消すとは思えない。
「ゲーム」とは大分筋書きが変わったこの世界はレトニス達攻略対象者もキャラスティ達悪役令嬢も「ゲーム」とは大きく違っている。「ヒロイン」であるランゼもサクラギが作り上げた「ランゼ」とは全く違う。
だからこそ今回のように何が起きるか分からないのだ。
──まだ終わっていないもの。しっかりしないと。
バルド・ディクスの裁定、セト達の処遇。そしてランゼとの決着。
キャラスティとして、この世界を作ったサクラギとしてその全てを見届けなくてはならない。
強めの風が吹き星空に薄雲を広げさせた。
キャラスティが冷えた空気に肩を窄め室内へ戻ろうとした時、ふと視線を感じ騒めく木の枝の間に何かがあるように思えて目を凝らせば、そこにあるあり得ない驚きに息を飲んだ。
「な、何をしているの⋯⋯?」
なんとか絞り出した声が震える。
おかしい行動は常だ。そんなおかしい所が好きなのだとも感じている。
けれど、「おかしい」にも限度があるはずだ。
「何って、お姫様が心配だったから」
この部屋は二階。背の高い木は丁度部屋の高さまで枝を伸ばしている。そのひと枝にいつからいたのか照れ笑いするレトニスの姿があった。
黒髪を風に靡かせ、月明かりを深緑の瞳に反射させた綺麗な人。神秘的で冷たく、憂いを帯びたその微笑みにキャラスティが硬直していると、レトニスはギシリと枝を蹴った。
軽やかにバルコニーへ降り立ったレトニスは後退りするキャラスティの腕を捕らえ「しーっ」と人差し指を口先に付けて悪びれもなく笑う。
「危ない事しないで!」
「大丈夫。これでも運動神経は良いんだよ」
飄々と答えるレトニスにキャラスティは諦めと呆れに視線をその捕らえられた腕に落とした。
キャラスティを掴むレトニスの指先は冷んやりとしていて、いつからそこに居たのか、一体何故木に登っていたのか。普通に訪れれば良いものを。それに、キャラスティが気付かなかったらどうしたのだろうか。そんな事より、こんな簡単に入り込まれて王宮の警備は大丈夫なのだろうか。
「そんな顔しないで。ちゃんと正面から入って来たよ。散歩するって庭に回り込んだ。木に登ったのはキャラが読んでいた小説の少年がそうしていたからやってみたくなってね。それから、キャラが気付かなかったら寝るのを見届けて帰るつもりだったよ」
「⋯⋯本当にレトは心を読むのが上手くなったわね」
「キャラ限定だけどね」
「それはそれで複雑ね⋯⋯ねえ、冷えて来たから中に入らない? 何か温かいもの用意してもらうから」
島とは違い王都の風は冬の気配を運んでいる。キャラスティが部屋の中へと促してもレトニスは首を横に振った。
「いや、「あの時」は我慢できたけど、同じ状況になったら我慢出来そうもないし、無理矢理にはしたくないからやめておく。このまま帰るよ。
──でも、キャラが良いなら⋯⋯だけど?」
最初から断られる事を前提としていれば実際に拒絶されても受ける傷は浅くて済むのだと笑い、レトニスは戯ける。
そんなレトニスに苦笑しながら恥ずかし気にむくれるのがいつものキャラスティだったはずだ。
「⋯⋯良いよ、って言ったら、どうするの?」
キャラスティの言葉にレトニスの笑顔が凍り付いた。
レトニスの頬に手を伸ばしたキャラスティの瞳が揺れ、その読めない表情に喉がコクリと小さく鳴る。
「⋯⋯悪い冗談はやめなよ」
「冗談なんかじゃない、と言ったら?」
「キャラには似合わないよ⋯⋯」
「私は似合わない事ばかりね」
「そんな、こと⋯⋯けど⋯⋯だって、止められないから⋯⋯だけど、キャラがもし本当に良いと思ってくれているのなら嬉しい⋯⋯いや、でも⋯⋯くっぅ⋯⋯やっぱりダメだ!」
形勢逆転。いつもなら恥ずかしがるのはキャラスティの方だ。
普段はやたらと距離が近く、隙あらば何処かしらに触れたがり、恥ずかしい事を言ったりと好意を隠しもしないレトニスが反対に距離を詰められ、触れられ、煽られて赤くなり、行き場のない腕を上げたり下げたりと慌てるさまにキャラスティがクスクスと笑い出してそこで漸くレトニスは揶揄われたのだと苦笑した。
「酷いな、揶揄ったね?」
「半分は。どう? 恥ずかしいでしょう」
降参だと手を挙げたレトニスが寂しそうに目を細めた。
「逞しくなったね。なんだか少しだけ、寂しいかな」
「島」の生活。それがキャラスティにとって楽しかった経験になっているのは中庭での話しぶりから察せられた。
「島」には自分の知らないキャラスティがある。レトニスは胸に仄暗い嫉妬を灯しながらも平静を装う。
キャラスティの事ならなんでも知っていたはずだったのに。
「前世」の事、「島」の事。一つまた一つと知らない事が増えて行くと不安までもが増えて行く。不安になれば思考はどんどん悪い方へと向かうものだ。
「あのね、レト⋯⋯ディクス様とセト達の裁定が落ち着いたら、話したい事があるの」
決意を込めたかのような真剣な眼差しを向けたキャラスティの言葉にレトニスの血の気が引いた。
知らない事に不安になっているのに、もし、話したい事が良くない事だったら。例えば「島」に戻る⋯⋯とかだ。
だとしたら、抑えが効かなくなる。
「それって⋯⋯期待してもいい、こと?⋯⋯」
震えながらレトニスの口をついて出たのはいつかと同じ質問だった。
あの頃は「知らない事」がある事を「知らなかった」。期待が出来た。
今は「知らない事」がある事を「知っている」。
「うん⋯⋯私はちゃんとレトに話さないとならないの」
返って来たのはいつかとは違った答え。もう我慢は無理だった。
「今! 今じゃダメ?」
「い、今はまだ──」
「勢いって必要だと俺は思うんだ。ほら、時間が経ったら気持ちが変わっちゃうかも知れないだろ? 今聞きたい!」
時間が経てば経つほど執心を深めたレトニスが言うには説得力がない気もするが、さっきまでどんよりとした悲愴感を背負っていたのに花が咲き誇り、花火が打ち上がっている幻覚すら見える。
「今は無理! 朝にはお父様達が到着するし、セト達の事があるの! だから、待っていて⋯⋯欲しい」
「だったら、何か約束の証をくれない? 女々しいだろうけど、これが俺だから⋯⋯」
「⋯⋯分かった⋯⋯少し、屈んで」
期待に目を輝かせるレトニスに一瞬だけ怯みながらもキャラスティは「閉じて」とその目を閉じさせ、そっと近付く。
──コツン──
軽く額と額を合わせ、至近距離で瞬きを繰り返すレトニスをしっかり見つめてキャラスティは「これが、精一杯なの」と真っ赤になりながら囁いた。
それがとてつもなく愛らしい。だけではなく、恐らく無意識のその行動はレトニスにはそれ以上の破壊力だった。
頭の中でプチンと何かが切れる音がして理性の限界をレトニスは感じた。
「──っ!」
「えっ、あっ、ちょっと! ここ二階っ、あーっ!」
ガバリとキャラスティから離れたレトニスは勢いが必要だと言う有言実行、勢いのままヒラリとバルコニーを飛び降りた。
流石、運動神経が良いだけあって難なく着地したレトニスはキャラスティを見上げて「おやすみ」と手を振りそのまま走り去って行ってしまった。心なしか走ると言うより飛び跳ねているように見えた。
キャラスティは大胆な事をしてしまったとまだドキドキする胸を押さえて座り込んだ。
幾度となくレトニスから受けた愛情表現を真似してみただけなのにこんなにも、心が温かくなるものなのか。
「やっぱり、私は⋯⋯好きなんだ」
受ける時より表す方が断然、幸せだ。
キャラスティはレトニスが消えた方向を覗き、決心する。
互いが想い合っていてもレトニスは四大侯爵家を継ぐ特別な立場でキャラスティはただ貴族に生まれただけ。想いが成就する事はないのかも知れない。けれど、許される間は好きな気持ちをちゃんとレトニスに伝えよう。
その為には苦しませてしまった「前世」を全てレトニスに話さなくてはならないと。
いつしか風は止み、広がっていた薄雲も何処かへ行ってしまった。
穏やかに降り注ぐ月明かりの下、キャラスティは少しづつ変わろうとしていた。
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浴室から陽気な鼻歌が聞こえて来る。
「王宮へ行って来る」と出かけた主は締まりのない顔で帰宅すると上機嫌で家の者達へ挨拶をして回っていた。
「お祖父様! ただ今戻りましたっ」
目を丸くしたラドルフに挨拶をするとレトニスは踊っているかのような足取りで浴室へ向かい、聞こえ始めたのがこの陽気な鼻歌だ。
「何だアイツは」
「お帰りになってからずっとですよ」
帰宅を待っていたラドルフが訝し気な表情でエガルに問うが、首を振られて「気味が悪い」と苦笑する。
それでもラドルフは「気持ちは分かる」とレトニスの浮かれ具合に理解を示す。
レトニスのキャラスティへの執心はこのトレイル家では公然の事実。四大侯爵家の制約上表向き否認も容認も行わない姿勢を維持しているが、好意的に捉えている。
キャラスティが拘る制約の一つ、四大侯爵家と縁が繋げるのは伯爵以上の家の者という爵位による区別は、今代のハリアード王国では侯爵家にも王家にも大した制約ではなくなっている。
口煩い大老院が騒ぐ為のものだけでこのハリアード王国の貴族は元を辿れば全てハリアードの血筋に繋がるのだし、血が濃くなりすぎた時代にはお得意の養子縁組によって血の入れ替えを行って来たのだから既に形骸化された制約なのだ。
だから要は当主が直系であれば良い。それこそ「物は言いよう」だ。いくらでも抜け道はある。それはトレイル家だけではなく他の四大侯爵家とも共通の認識だった。
上級貴族達の思惑を抜きにした場合、侯爵家と王族の一員になる為に求められる条件は身分ではなく為人、その姿勢だと時代は変わっているのだ。
「キャラスティを無事に取り戻したのだからな。それも、自分達の力で」
「はい。一つの成功は坊ちゃんにとって自信にもなりましょう」
「をう。キャラスティの為に行った事がアイツの功績にもなったのだからな。これで小煩い大老院も黙らせられるだろう。いい気味だ」
ラドルフは豪快に声を上げて笑う。
今代は自分達の時代に比べ平和な世の中だ。争いを待ち望んではいないし、平和である事は国にとっては良い事だが目に見える功績を作るのは難しい。それが安寧と言うもの。
そんな平和な今代、レトニス達がバルド・ディクスを捕らえ、「島」を掌握したのは喜ばしい事だ。
「明日はラサーク家とウィズリ家と一緒に俺も王宮へ上がる」
「畏まりました。それと、王家よりこのような請求書が届いております」
レトニスの帰りを待ってのタイミングを計っていたエガルは神妙な顔を作り仰々しくラドルフに一通の書簡を差し出した。
王家の封蝋が剥がされた書簡。ラドルフがカサリと広げ、目を通す間にみるみる眉間に彫りが刻まれた。
「なんだ、これは!」
エガルはすっと目を閉じてそっと耳に両手を添えた。
「レトニス! 貴様ーっ!」
「え、あっ! じいさん!?」
請求書を投げ出したラドルフは浴室へと突入した。
バキリだとか、バシャリだとかの音がした後、レトニスの悲鳴がトレイル邸内に響いた。
「あーっ!」
バタバタと使用人たちが浴室へ駆け込む中、エガルは落ちた請求書を拾い上げ溜息を吐く。
──クローゼットの修理代(トレイル御子息の閉じ籠りにより破損)──
請求書にはそう書かれてあった。




