待っているだけじゃない⋯島
アイランドには島の人々がその場所を知りながらも立ち入る事を禁じられた区域がある。
「聖域」と呼ばれるそこには限られた者しか足を踏み入れる事は許されていない。
聖域の奥、厳粛な空気と温和な風に守られた教会でキャラスティは右手で太陽を象った杖を高く掲げ、月を象った盾に左手を添えた「聖女」像を見上げていた。
ステンドグラスから差し込む色取り取りの光を浴びた「聖女」は何処かで会ったことがあるような懐かしさを覚える優しい表情で微笑んでいる。
キャラスティは両手を胸前で組み、「聖女」へと祈りを捧げた。
何を祈るのか、考えるまでもない。込み上がる島への愛おしさを祈りの形で「聖女」へ宣する。
それはとても心地よい感情だった。
例えるなら地平線の先まで続く緑の絨毯に寝転がったような幸福感。
例えるなら水平線の先まで続く青のシーツに浮かぶような浮遊感。
例えるなら地平線も水平線も見えるのに辿り着くことが出来ない寂寥感。
何一つ忘れてはいないのに。何かを忘れている。
そんな不思議な感情が胸にあるが、それを疑問に思う余地なく島への愛おしさがキャラスティの心を支配する。
アイランドは素晴らしい島だ。
山の恵み、海の恵み、畑の恵み、生命の恵み。人々はもたらされる恩恵に深謝して其々の役割を担い互いを助け合う。
──私はこの島を守る「聖女」。
何をすれば島を守れるのか。己は何をすべきなのか。
キャラスティは「ふふ」と笑う。
そんな事は考える必要はない。「親方様」が導いてくれるのだから。
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キャラスティが聖域の教会に閉じ込められて半月ほど経った。
その間に島の様相は目まぐるしく変化していた。
島を訪れたバルドは島民たちに島の海岸全てを鉄柵で囲うように指示を出し警備隊を結成させた。
次に砲台と投石器の配置。仰々しい兵器を何台も作らせ、島のあちこちに設置させるとその使い方を学ばせた。
島民達は何一つ疑問に思わず「親方様」の指示に従って楽しそうに、嬉しそうに何の為にやっているのかも考える事なく動いた。
そうして、アイランドは鉄柵で囲まれ、砲台と投石器で武装した島要塞と姿を変えたのだった。
「セト、ステラの様子はどうだ」
グラスを傾けながらバルド・ディクスは問いかける。
向かい側に座り、俯いたセトは「順調、です」と一言だけ答えた。
「ステラは我々の盾だ」
そろそろ王都から姿を消したバルドを捕らえに王子達がアイランドに来る頃だと笑う姿からは貴族の気品は一切消え失せている。
バルドがハリアードに見切りをつけたのはランゼがアレクス達に近付き騒動を起こし始めた時期。
その頃からバルドの周りを嗅ぎ回る輩が増え、トレイルの老人が頻繁に社交の場に顔を出すようになり、衰えを知らぬ深緑のその目に監視された。
「潮時」かと身の回りを片付けてみると邸内に王家からの間者が入り込んでいる痕跡が見られ「サイミン草」で扱い易くしていた使用人達に一言「手を煩わせる使用人がいる」と憂いただけで彼らは自分たちの中から「異物」を探し出し、主人の憂いを勝手に晴らしてくれたのを期にバルドは王都を出た。
ハリアードでは公爵位まで上り詰めたが元々バルドには爵位への執着は皆無だ。稼げる時に稼いで引く時は引く。商売をする上で爵位が必要なら手に入れるし、見切りをつけたらそれはもう要らないものだった。
「ハリアードの王子達がこの島へ乗り込んで来る。その前にステラを盾にして俺達は島を出るぞ。その為にも作らせていたものは完成しているだろうな?」
「⋯⋯はい。地下の、格納庫に」
バルドがアイランドに来たのは逃げるまでの時間を稼ぐ為。
王国と一戦交えようとも、勝とうとも思っていない。
当初バルドはランゼが王子達の寵愛を受けていると思っていたが、実際はランゼではなく、キャラスティが王子達の「特別」だった。それに気付いたバルドはランゼの勝手で予定外に攫うことになったキャラスティの最適な使い道を「聖女」にする事で見出した。
彼らの「特別」なキャラスティが「聖女」として立ちはだかれば王子達は実力行使での島の制圧を躊躇する。
更に「サイミン草」で操る島民達が島とキャラスティを守ろうとすれば高尚で「お優しい王子様達」は手荒な真似は出来ない。
王子達の注意を島に留めさせている間にバルドは身分を変え名前を変えて予め資金を移動させておいた国へ移動する算段だ。
「エルトラの娘が余計な事をしてくれたと思ったが、最強の盾だ。ステラは俺にとってまさに「聖女」だな」
ランゼは不思議な力があるようだったが、その力を賢く使えば良かったものを自分のその時の欲でしか使わないのだから当てにならないし、ランゼの不思議な力で自分まで良いように使われては癪だと早々にランゼを使う考えを捨てていた。
「セト、明後日には島を出るぞ。お前も支度しておけ」
「そんな急に⋯⋯っは、い」
バルドは「ステラの元に行く」と席を立つ。
その後に続こうとしたセトをバルドは制し、島民達を果実水の差し入れと共に見回るよう指示を出して部屋を出て行った。
セトはバルドが聖域へ向かうのを二階から見下ろして溜息を吐いた。
その両手は強く握りしめられ、その目には悔しさに細められている。「嫌だ」と叫びたい衝動があっても何も出来ない。キャラスティを守りたい。ハカセを守りたい。ミリアを守りたい。島を守りたい。このままではキャラスティが全ての罪を被らされてしまう。ハカセとミリアも無事では済まない。
どうして良いのか分からなくなったセトは嗚咽を漏らしながら窓辺に膝をついた。
「やれやれ、セト。泣いている場合じゃないよ」
不意に声を掛けられ恐る恐る振り向くと腰に手を当て仁王立ちしたイライザが睨んでいた。その強気な視線にセトは身体を強張らせた。
イライザは温泉担当。持ち場を離れる事は滅多にない。そのイライザが何故居るのかと呆然としたセトに彼女はニカリと笑顔を見せた。
「セト、一人は怖いよね。けどさ、あんたは一人じゃないだろ?」
「なんで、イライザが⋯⋯えっ、あっちょっと!」
「時間がないんだ。さっさと来なさい」
強引に手を引きイライザは温泉施設へとセトを連れ出した。
引き摺られる様に押し込められた温泉施設にはハカセとミリア、アメリアとフレイが集まりセトを待っていた。
「セト、時間がないから単刀直入に言うわ。私達で戦いにならないようにするの」
「な、にを言っているんだ⋯⋯そんなの出来るわけ⋯⋯」
もうすぐハリアードの王子様が島にやって来る。
人を攫い、偽物を作る自分達を捕まえに。
「ステラは⋯⋯島の皆んなは⋯⋯戦わなくては⋯⋯王子様達が捕まえに来る⋯⋯皆んな操られているだけなのに」
「大丈夫よ。私達の王子様は非情な方ではないの。優しすぎる方達だから国民として心配なくらいよ」
「ええ、だからハリアードは女が強いのかもね。それに、私達だって何もしていないわけじゃないのよ?」
フレイとアメリアはクスクスと笑う。
「即効性のあるものではないけれど」そう言いながらフレイが葉の先が五つに分かれた薬草とステラ瓶を並べた。
「これはサイミン草じゃないか」
「ええ、同じ薬草が解毒にもなるの」
ハカセが興味津々で二人と薬草を交互に見る。
「不思議に思ったのが始まり。いつも葉の方を果実水として私達に飲ませていたでしょう? 葉に催眠の効果があるなら根っこの方は? って」
「それで試したの。水に浸してみたり煮てみたり乾燥させたり。結果、根をすり潰して出た液を煮詰めたものがサイミン草を解毒する効果が出たの」
アメリアがステラ瓶から琥珀色の液体をグラスに注ぐと三人は目を丸くした。
サイミン草は葉の部分に麻薬成分が含まれている。そうバルドから教えられた三人は「そう言うもの」だと受け入れ、言われるがままに薬草を育てていた。
好奇心の塊のハカセが「葉」のみに意識が向き「根」の部分にまで考えを及ばせられなかったと悔し気に息を飲んだ。
「ハカセ、ミリア⋯⋯ごめん。二人にもサイミン草は使われていたんだ。恐らく僕にも⋯⋯」
「だからか⋯⋯ボクはいつも何か足りない気がしていたんだ。その何かは、ボクの「好奇心」だったんだ⋯⋯」
葉は麻薬となり根が自身の毒を解毒する。同じ薬草なのに異なる性質をもつサイミン草。
フレイとアメリアが作り出した琥珀色の解毒液、これは「原液」だと言う。これだけでは苦すぎて飲めるものでは無いとお茶を混ぜようとした手からハカセはそれを奪い、そのまま一気に飲み干した。
ハカセに続いてミリアもぎゅっと目を瞑り同じように飲み干すと二人は苦い顔のままセトに琥珀色のグラスをずいっと押し付けて笑う。
「さあ! 飲みなさいセト。私は覚悟を決めているわ。もう、逃げない。私はセトと同じ罪を背負う」
「ミリア⋯⋯」
「ボクも覚悟を決めている。セトとずっと一緒だ。ボク達は⋯⋯家族だろ?」
「ハカセ⋯⋯」
二人に見守られながらセトもグラスを煽り、その苦さに思わず「不味い」と零す。涙目になったセトに笑いが起き、溢れた雫を揶揄った。
セトはただ苦さに涙が出るのではなく、温かい気持ちに泣きそうになったのだ。恥ずかしさに目を擦りながら小さくもそれでもはっきりと「ありがとう」と呟いた声に全員が優しく頷いた。
「さあ、サイミン草の代わりにこれを果実水に混ぜて島の皆んなに配るのよ」
「時間がないわ急ぎましょう」
アメリアとフレイの音頭で各自が動き出す。
「まって! ステラは⋯⋯彼女は⋯⋯」
「ステラは急激な摂取で急性中毒になっている可能性があるわ」
「強すぎる解毒は危険なの。少しずつ解毒しなければ」
フレイとアメリアは目を伏せた。
サイミン草は記憶を無くさせるものではなく、記憶を持ちながら思考力を失わせ、操る。
キャラスティは親方様、バルドの言いなりだった。皮肉にもそれが身を守る事になっているのだ。
ならば今は安全だ。
それに彼女とアレクスやレトニス達との絆は羨ましく思うほどに深く結ばれている。彼らならキャラスティが催眠に掛かりどんな事を言おうとも彼女の言葉が本心ではない事を必ず見抜いてくれる。
キャラスティを助けてくれる。
「ステラは王子様達がいつものステラに戻してくれるわ。それに、今は親方様の言う通りに動いている方が安全よ」
「私達は島の皆んなを戦わせないようにするの。それが今できる事」
どことなく寂し気に。それでも強い意志で。アメリアとフレイはセトに笑顔を見せ、ミリア達を追う。
「さあっ行ってらっしゃい!」
「イライザ、君は⋯⋯」
「そんなのは後だよ。全て終わったら、話してあげるから」
「ありがとう、イライザ」
片目を瞑ったイライザに背中を押され、温泉を追い出されたセトは手の平で強く両頬を叩きミリア達を追って駆け出した。
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聖域の教会周りは穏やかで温かく、学園の中庭に似ている。違っているのはこの場にはキャラスティ只一人だと言う事。
──ううん。あの中庭でも私は一人だった。
バルドは言っていた。キャラスティは「ずっと一人だった」と。
キャラスティの記憶にはアレクスとテラード、シリルとユルゲンの姿と、レイヤーがリリックとブラントを取り合い、ベヨネッタが呆れた表情でそれを宥める賑やかな中庭の風景があるのに。
家族の事もだ。キャラスティは家族に虐げられては無くともそこに居ないものとされた孤独な少女だったと聞かされている。
両親、姉弟、祖父母、叔父。厳しくも温かい家族に囲まれている幸せな記憶があるのに。
幸せな記憶。それは全てキャラスティの願望だとバルドは言った。
何か引っかかる。本当に一人だったのか。本当に孤独だったのか。
「ステラ、祈りは終わったか」
「親方様!」
開けられた扉から光が届き、逆光を背負った影がキャラスティを包んだ。
会いたかった人だとキャラスティは影に向かって駆け寄った。
──本当に?──
深い霧を纏った誰かが問いかける。
キャラスティはたった一人を待ち望んでいる。優しくて、穏やかで、泣き虫で、大好きな人。
それは親方様なのだとキャラスティは生まれたての雛のようにバルドを唯一と信じて抱き付いた。
「ステラ、いい子にしていたか?」
髪を撫でる手に違和感。
「はい。今日は会えないかと思っていました」
抱き上げられる腕に少しの嫌悪感。
「それは悪かった。今日は大切な話がある」
見つめられる黒い瞳に蟻走感。
違う。
咄嗟にキャラスティは身体を強張らせた。待ち望む人はこの人では無い。いや、この人だ。否定と肯定がせめぎ合う。
霞を纏う影が撫でてくれる手と抱きしめてくれる腕、霞が晴れて甦る見つめられる瞳。
熱が籠ったその瞳の色は──深緑だった。
「ステラの好きな葡萄ジュースを持ってきた。飲みながら話そう」
青ざめたキャラスティをベンチへと下ろしたバルドが差し出すグラスに添えられた一枚の小さな薬草が揺れる。
「私は明後日、島を出る。ステラは島の「聖女」としてこれからは「守」るだけではなく「護」って貰う」
「聖女」「守」「護」。バルドの声が響く。
「出来るねステラ。ステラは島の外では一人だった。孤独だった。ステラは捨てられたんだ。そんな世界は要らないだろう?」
一人だった。彼らはいつもそこに居た。
孤独だった。温かく見守られていた。
捨てられた。それなら何故、あの時あんな事を言ったのか。「彼」は来る。必ず来てくれる。
バルドが紡ぐ言葉に記憶が反発する。
忘れていなかったのに。どうしてその存在を想わなかったのか。
「あ⋯⋯おや、かた、様⋯⋯、兄⋯⋯様⋯⋯」
世界が揺れる。頭が締め付けられるように痛い。キャラスティはそのままふらりと倒れ込んだ。
──必ず迎えに来るから──
意識を手放す瞬間、記憶の中の幼馴染。深緑を持つ「彼」が微笑んだ。




