「最期」の記憶
唐突にサクラギは目が覚めた。そして起きた事を後悔した。
──ああ、今日の症状は結構、重いかも。
目覚めて早々に頭痛と吐き気が襲って来ている。身体を動かそうにも力が入らずサクラギはぼんやりと天井を眺める事しかできないでいた。
「⋯⋯うぅ⋯⋯」
水が飲みたい。
乾いて張り付く喉からは呻きが漏れるだけだ。
目だけで時計を見れば朝7時少し前。後少し我慢すれば検温の看護師が回ってくる。その時に水を飲ませてもらおう。
我慢は慣れている。ナースコールを押せばすぐに誰かが気付いてくれるだろうが残念な事にそのナースコールを押す余力が今のサクラギには無かった。
──まずいな⋯⋯熱が出てる気がする。
気持ち悪さと喉の渇きから荒くなる息を静めようとサクラギは目を閉じた。
苦しい、気持ち悪い。
いっそ気を失えたのなら、いっそこのまま⋯⋯死を迎える事が出来れば楽になるのだろうか。
グンジとマナには「馬鹿な事を考えるな」と言われるだろう弱音が頭に浮かんだサクラギは吐き気の波をやり過ごし、息が落ち着くのを待つ。
何度目かの波を越えた頃、胸の前できつく握り締めている手がふわりと暖かいものに包まれ、その温かさにサクラギは安心を覚えた。
「お姉さん大丈夫よ。今看護師さん呼んだから直ぐ来てくれるわ。大丈夫」
「マ⋯⋯ナ」
吸い飲みから水を与えられてサクラギは漸く落ち着いて来る。
あぶら汗が浮かぶサクラギの額をタオルで拭きながら微笑むマナは天使か聖母か⋯⋯母はない、それなら聖女だ。
──マナは聖女だな。
グンジが今作っている「聖女育成ゲーム」。プレイヤーは「聖女候補者」となり、ストーリーを進める。「聖女」にならず恋愛しても良し、「聖女」となり理想の国作りをするも良し。マルチエンディング形式だそうだ。
その主人公はマナがモデルだとグンジは言っていたが、まさにマナは聖女だ。
「完全なゲーム脳」だとサクラギが苦笑するのを見たマナは頷き、何度も「大丈夫」と繰り返した。
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「そんな顔をしなさんな」
「誰がっ、こんな顔にさせてるんですか! マナちゃん、ありがとうっ本当にありがとう」
「や、やめてください⋯⋯当たり前の事をしただけです」
午前中は発作で寝込む事になってしまったが午後には起き上がれる程度に体調が回復した。
昼過ぎ、見舞いに来たグンジは今朝の話を看護師に聞いたのだろう、入室一番にサクラギの手を取り泣き出したのだった。
「やっぱり俺、ここに泊まれませんか?」
「それは出来ないよ。グンジは身内⋯⋯家族じゃ無いんだから。それにこの病院は完全看護だ」
今の会社の支店がサクラギの住む地方にあると知ったグンジは是非にと移動願いを出し、辞令が出ると病院の近くへと早々に引っ越して来た。
「俺の職種はリモートで何処でも出来ますから」と、最近の働き方は多様化しているらしい。
「今より病院に近い物件探さなくちゃ⋯⋯」
「住宅情報誌買ってきます」と病室を出るグンジの背中を申し訳ない気持ちで見送ったサクラギは苦笑混じりに小さな溜息を零した。
サクラギには身内と呼べる者が居ない。親の顔も知らない。物心がつく頃には同じような子供達と生活していた。
グンジは「家族になりましょう」とプロポーズをしてくれたがそれに対してサクラギは返事をしていなかった。自分の時間が後どの位か分からないのに答えられるわけがなかった。
今でも十分に支えになっている。これ以上グンジに無理をさせたくはないのに。
「グンジお兄さんが居てくれるなら私も安心出来るんだけどな」
「⋯⋯そう、だったね」
「お見舞いに来るね。本当は一緒に退院したいのよ」
マナの「私、お姉さんが好きだもの。私のお姉さんだと思ってる」との言葉に泣きそうになったサクラギは「嬉しいよ」と呟くのが精一杯だ。
サクラギは照れ隠しにお茶を一口飲んで三日前を振り返る。サクラギと違ってマナは「何処かが悪い」から入院しているわけでは無いと知ったのは三日前。
マナが退院すると聞いてサクラギは心から喜んだ。
「手術の為の血液ストックが達したの」
「手術って、また入院するの?」
「私じゃないの⋯⋯アイミよ」
マナとアイミの姉妹は特殊な血液をしているらしい。アイミにはいつ発症するか分からない病があると言う。発症を遅らせるその手術には血液が大量に必要となる。
マナが定期的に入退院を繰り返して来たのはマナの体調に支障が出ないよう、血液を採取する量が決まっているからだそうだ。
マナは長い間、それこそ自分の時間を犠牲にしてアイミの為に血液を溜め続けて来た。
マナも両親もアイミに甘かったのはマナはこれから先、自由になれるが、アイミはその手術が成功しても失敗してもこの先ずっとその病と付き合う事になるからだと言う。
それにしても自分の為に我慢を受け入れている姉に対してアイミの態度は酷いものだとサクラギがやんわりとマナに言ってみたのだがマナは「知らないからよ」と笑うだけだった。
アイミには動ける内に好きな事を好きなだけやらせてあげたい。そんな両親の考えが正しいのか間違いなのかはサクラギが口を出す事では無いと言葉を飲み込めば「私の頑張りを知ってくれてる人がいれば良いの」と達観しているマナは繰り返された入退院のせいか大人びて見えた。
しばらくして、住宅情報誌を抱えたグンジが帰って来るとマナは「二人だけでお話したいでしょ?」とおませな事を言って同室の人を誘い談話室へ行き、サクラギとグンジはベッドテーブルに置かれた情報誌を捲りながら良さげな物件を二人でチェックする。ここは良い、ここはダメ。こうだったら良かった。グンジと意見を交換する作業は懐かしくて楽しい。
昔はこうして原稿に片っ端から赤丸や付け足しを書き込んで行った。
小さく笑うサクラギを満足そうに見てグンジは目を細めた。
「マナちゃん退院するんですね」
「ああ、そうらしいよ」
「先輩は⋯⋯退院したら何がしたいですか?」
付き合っているのに「先輩」なのはどうかと思うが「名前は照れ臭い」とグンジが言うのだから好きに呼ばせている。
「そうだね。ビールが飲みたい」
「ビール⋯⋯ですか?」
「前の仕事場近くの、いつもの居酒屋でビールが飲みたい。大ジョッキで」
「ビール」が飲めれば思い残す事は無い。
「グンジと「いつもの一杯」をしたい」
サクラギがそんな事を言うとグンジは「じゃあ、行きましょう。絶対に」と笑ってくれたのだった。
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サクラギとグンジは面会時間ギリギリまでたわいも無い話をする。今日と言う日が大切な思い出になり、明日も明後日も穏やかに時間が過ぎると思っていた。
事件は面会時間が過ぎた夜に起きてしまった。
サクラギが雑誌を捲りながら過ごしていると病院特有の静かな騒めきに布の擦れる音が加わった。マナは入浴の為にベッドを空けているはずなのにカーテンの先に人の気配を感じる。
カタカタとベッドサイドの棚の引き出しを開けているようだ。家の人が来たのかと様子を窺うサクラギの耳に「あった!」と少女の声が届いた。
咄嗟にカーテンを開けたサクラギに驚いた声の主は「ヒィッ」と息を飲んで後ずさる。
「あ、こんばんは」
「⋯⋯面会時間は過ぎてるよ。何をしているの? アイミちゃん?」
可愛らしい顔立ちなのに歪んだ笑みを浮かべているアイミからは何も返事がない。
溜息を吐きながらサクラギはアイミの手に握られた「ある物」をどうするつもりなのか。盗みに来たのは分かっているが、あえて問いただした。
「それ、マナのブローチよ? 勝手に持ち出したらいけないでしょう?」
「姉妹のことに口を出さないでください」
「いつもなら出さないけれど、それはグンジがマナにあげた物だから──」
「姉にあげたのなら姉の物ですよね。私が貰っても問題ないじゃないですか」
「では、おやすみなさい」
アイミがそそくさと病室を出て行くのを我慢できなくなったサクラギはベッドを飛び出してアイミを追いかけた。
いくら体調が安定したとは言っても急な運動は負担になる。若干クラクラするがそれでもブローチは取り返さなければ。グンジがマナの為に作った物だ。妹の為に我慢して来たマナの物だ。
「待ちなさい!」
「しつこいです! 姉はこれを着けて外出が出来ないんですから私が使ってあげるんですよ」
「そんな事ない。誰の為にマナが──⋯⋯」
この先は言ってはならない。
マナと両親が話していないのだからサクラギが言う事ではない。
言葉を止めたサクラギを振り解くように暴れたアイミの腕が大きく振られるとバランスを崩したサクラギとアイミは縺れ合いながら階段を踏み外し、落ちて行った。
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「ごめんなさい⋯⋯お姉さん、ごめんなさい」
「先輩、起きてくださいよ⋯⋯ねえ、起きてるんでしょう?」
マナが部屋に帰って来るとサクラギの姿がなく、談話室、ナースセンターと探した。
看護師の「妹さん来ていたわよ」との言葉に嫌な予感がしたマナが非常階段に出ると、認めたくない光景が目に飛び込んで来た。
サクラギとアイミが倒れていたのは非常階段の踊り場。
アイミはサクラギが抱き抱えていたお陰で捻挫程度で済んだがサクラギは頭から落ちてしまった。
サクラギの病は出血が中々止まらない症状もある。打ち所も良くなかったが出血が酷く三日間意識が戻らなかった。
四日目の朝。薄らと目を開けたサクラギは小さく笑い、グンジとマナに「ありがとう」と一言だけ告げ、再び閉ざされた目は二度と開かなかった。
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流れ込むサクラギの気持ちが切なく広がる。
孤独を抱えたサクラギはマナとグンジと出会い幸せな時間を過ごして来たのだ。
苦しい時に握られたマナの手の温もり。
純粋な愛情を向けてくれたグンジの温かさ。
その全てがキャラスティに流れ込んだ。
「好きになってくれてありがとう」
サクラギは最後にそう、マナとグンジに伝えていた。
彼女は誰も恨んではいない。命を縮める原因となったであろうアイミを恨む気持ちは何処にも無い。
広がる気持ちは切なくも幸せに満ちていた。
キャラスティは漸く納得する事が出来た。
何故サクラギは「キャラスティ」に生まれ変わったのか不思議だった。
サクラギは「家族」が欲しかったのだ。
両親と兄弟姉妹。温かく包んでくれるラサークの家族はサクラギの理想だ。
納得したのはそれだけでは無い。
キャラスティが募らせているビールへの憧れはサクラギがグンジと約束した「いつもの一杯」を果たしたいと願う想いの表れだ。
今の自分は幸せだと。欲しかった幸せに囲まれているのだと幸福感に浸っていたキャラスティの意識は突然暗闇に落とされた。
真っ暗闇の中に放り出されたキャラスティの前に片翼を模った「ブローチ」が光る。
手を伸ばして触れようとすれば、するりと逃げられた。
真っ黒な世界でブローチが輝く。
物質の「ブローチ」は言葉を発する事はないのに何かをキャラスティに伝えようとしていると感じた。
サクラギが取り戻したいと願うこの「ブローチ」にはグンジのマナへの想いが込められている。
それを奪われるのはサクラギにはどうしても許せない事だ。
あの世界でブローチを奪ったのは誰か。最後にブローチを持っていたのは誰か。この世界でブローチを持っているのは誰か。「ブローチ」がそう問い掛けている気がする。
キャラスティの「まさか」が到達した先。
一人の少女が振り向いた。
──ランゼは「アイミ」だ。
「そんなっ!」
突然理解した「まさか」の事実にキャラスティは飛び起きた。
ランゼが転生者である事は今までの事で明らかだ。
ならば、アイミも事件から遠からず命を失ったのだろう。そしてアイミはこの世界に「ランゼ」として転生した。
グンジ⋯⋯テラードがどこまで思い出しているか分からないが中庭で話をした時点ではブローチの行方は知らないようだった。マナがグンジに話さなかったのだろう。
アイミがマナからブローチを奪い、サクラギの命を奪ったと知れば何をするか⋯⋯。テラードは次期西の侯爵として多少の無理を通せる身分にある。嫌な考えに焦りが浮かぶ。
──テラード様に早く相談しないと。
キャラスティがやっと辺りを見まわすと、パチリと知らない少年と目が合った。
驚いた顔から笑顔に変わった少年はニコニコとベッドサイドに近付いてキャラスティを覗き込んだ。
「やっぱり、君、綺麗だね」
「えっ、あの⋯⋯」
誰だろうか。ここは何処だろうか。
「夢」に夢中で忘れていたが、自分は攫われていたのではなかったか。いつの間にか目隠しと猿轡は外され拘束が解かれている。
「君を受け取りに来たんだ。けど、君はずっと寝ていてね。起きるのを待っていたんだ」
「あの⋯⋯」
「凄いね君。何をしても起きないんだもの。襲っちゃおうかと思った」
可愛い顔をしながら恐ろしい事をさらりと言う少年。
「⋯⋯ここは何処ですか?」
「うん? ここはアイランド。船に乗ったのも覚えてないの?」
「アイランド⋯⋯船」
「まあ、荷物としてだから寝ていて正解だったね」と少年の軽い返事に唖然とした。
少年が言うにはキャラスティが寮から連れ出されてから五日経ち、その間に船に乗りアイランドと言う場所に連れて来られたらしい。
「君は綺麗なだけじゃなく冷静だね。普通攫われてきたら恐怖で泣く人が多いけど」
人攫いを知っている少年に寒気が走った。
見た目は同じくらいか少し年下なのに人攫いの仲間だ。
さらりと髪に触れて来る少年の手の平に嫌悪が浮かぶ。
この手がレトニスのものであったなら。ふとキャラスティに恋しさが浮かぶ。
離れると決めていたのに、実際に離れるとこんなにも恋しく思うのか。
恥ずかしさと幸福感をくれるレトニスの手が恋しい。
髪に触れていた少年の手が頬に触れ始めるとキャラスティは気持ちの悪さに目を伏せた。
「本当に君、綺麗だよ。これからよろしくね。ああ、僕の名前はセトだよ」
「⋯⋯私」
「ああ、知ってるよ。けど、外の世界の名前はもう要らないでしょ? 君はそうだな⋯⋯「ステラ」。うん。これから君はステラだよ。分かったね?」
有無を言わさない圧力でセトが念を押してくる。ニコニコと笑顔を絶やさないままセトは絶望の言葉を紡いだ。
「逃げようとか思ったらダメだよ。まあ、無理だけど。アイランドは海の真ん中にある島だから逃げられないからね」




