雨の夜
不規則に弾く雨音と規則的な馬蹄の音がぼんやりとした頭に響く。
水溜りを車輪が踏むと幌を軋ませて車体が大きく揺れた。
気がついたのは、ほんの少し前。
自分の状況に戦慄したのはつい、さっき。
目元を覆われ、動かない唇は何かを噛まされ、近くを探ろうとした両腕両足は動かない。
埃っぽい匂いと微かに焦げた匂いが雨に濡れた「犯人」達の生臭い匂いと混ざり、気持ち悪さに身動ぎすると薬品の匂いがする何かを顔に押し付けられた。
「丁寧に扱えよ。特別な「玉」なんだからな」
微かな甘い匂いに脳が考える事を手放し、暗闇が浸食を広げる頭に知らない男の声が雨音に混じって響いた。
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湿気を帯びた風が通り抜け、窓の外を見ると青かった空は灰色に染まっていた。
曇りも雨も嫌いではないが今日の空模様はキャラスティの楽しみでもあり憂鬱でもある気分を表しているようだった。
「さて、帰ろうかしら」
ぼんやりと窓の外を眺めていたキャラスティはランゼの言葉に身構えた。
「今日は予定がある」と断るのだと、朝から何度もシミュレーションしたのだ。
「あのっ、今日は予定があって──」
「結構楽しめたわ。じゃあね? キャラスティ」
「へんな挨拶」だと肩透かしを食らい、呆気にとられながらも相変わらず言いたい事だけを言って教室を出て行くランゼを見送り、遠巻きに窺っていたリリックとベヨネッタにキャラスティは苦笑を見せた。
ランゼの一方的な「お友達」宣言を受けたその日から万一「シナリオ」が発生した場合、「悪役」のキャラスティ達が徒党を組んで嫌がらせをしたとならない様にリリックとベヨネッタとは距離を置くようにしている。
当然、二人はキャラスティが一人でランゼと関わる事を反対したが、万一の際は共倒れが一番の悪手だと説得すると渋々受け入れ、それでも心配だからと離れ過ぎない位置でリリックとベヨネッタは見守ってくれていた。
そうして始めた「お友達」。
付き合い始めの頃はただ「ゲーム」を攻略したいだけのように見えたランゼと仲良くなれるかもとキャラスティは軽く考えていた部分もあったが、ランゼから向けられる言葉や態度の端々から悪意を含んだ矢が何本も放たれればキャラスティを嫌っていると分かった。
嫌いなのに「お友達」。
ランゼは他人を貶して自分を上げるタイプだった。レイヤーには身分と迫力がある容姿に勝てない。リリックは物事をはっきり言う。ベヨネッタは大人しいのはキャラスティと同じであってもアレクス達とのパイプが細い。
アレクス達との関わりがそれなりにあり、地味で一見大人しく見えるキャラスティは引き立て役に都合が良いのだろうと、嫌いなのに「お友達」になった理由をキャラスティは自覚している。
大変な「お友達」。
キャラスティは毎日アレクス達を誘って街に連れ出されると、ランゼは隠す事なく「瞳」と「ブローチ」を使い、そこにキャラスティが居ないかのように睦合われ、「魔法」にかかったアレクス達もランゼに芝居がかった甘い台詞を囁きキャラスティを居ないものとするか、蔑んだ視線で見て来た。
彼らは「攻略対象者」なのだから、ランゼに影響されるのは「仕方ない事」だとキャラスティは割り切っているが「魔法」が切れたアレクス達の落ち込みは謝られるキャラスティが申し訳なくなるほど深く、浮上させるのに手がかかり、寧ろそちらの方が一苦労だった。
キャラスティは普段とは違う彼らの一面は舞台劇のようだと楽しんでいる、度が過ぎれば国王陛下のお墨付きを貰った「悪役令嬢」モードでアレクス達を窘めているのだからお互い様で、全然平気だと、何とか大丈夫だアピールを絞り出してもアレクス達は「情け無い所を見られた」と余計に落ち込み、フォローのフォローをするややこしい事態に陥った時は全てを放り出したくなった。
そもそもの話。
ランゼに誘われても纏わり付かれても断れば良いのではないかとテラードに聞いたことがある。嫌ならばわざわざ近付く必要はないと。
返ってきたのは気持ちは拒んでいても身体が「拒めない」との事だった。
ランゼは「ヒロイン」自分達は「攻略対象者」なのだからその辺りは「シナリオ」が「ゲーム」の通りに動かせようとしているからだろうとテラードが溜息混じりに言っていた。
ランゼは「魔法」が切れれば姿を消すし、アレクス達は落ち込む。そしてフォローに継ぐフォロー。キャラスティはただひたすら面倒を被った。
それでも近くで「魔法」を見られたおかげで仕組みが分かったのだから面倒が無駄にならなくて良かったとも思う。
ランゼの「力」は必ず瞳を合わせ、ランゼ自身が相手を意識しないと発揮されなかった。
また、「力」は攻略対象者以外には効果が薄いらしい。値引きやお強請り程度の簡単なお願いはすんなりと通るようだが、「人格」が変わる事は無く意識が残されていた。
「ブローチ」は攻略対象者にだけ、影響を及ぼすアイテム。
ランゼの「力」と「ブローチ」を一緒に使って攻略対象者の「好感度」を完全にコントロール出来るようになる。
「魔法」の持続時間は一人であれば三時間程度。二人の時は大体二時間。五人同時の時は一時間もたなかったのを見ると、同時にかける人数が増えれば持続時間は短くなるようだ。
それから、同じ対象者に連続で「力」と「ブローチ」を使う事は出来ないようだった。
そんなこんなでランゼとアレクス達のお世話をしながら一週間、あっという間に二週間が過ぎ、キャラスティが抱えるもう一つの「問題」が王都に到着する日が今日だ。
肩透かしを食らいはしたが「問題」の前にランゼに付き合わなくて良くなったのは肩の荷が一つ軽くなった。
予定では夕方に「それ」は到着するのだ。
「えー! 私も行きたいっ。私も招待して!」
二週間ぶりに訪れた「いつもの中庭」に着くなりレイヤーの駄々が響いた。「みんなが来ないから暇だった」と頬を膨らませ、上目遣いでいじける姿は歳上なのに可愛らしい。
「今日がダメでもお茶会とか夜会開いてっ」
「ラサーク家は王都に家がないのよ」
「だったらトレイル家で開催して?」
「それは、無茶で──」
「そうだね、大叔母様にレイヤー嬢達を紹介する良い機会になる」
「でしょ? レトニス様は話が分かるわね」
どうして自分は発言を被せられる事が多いのか。
迎えに来たレトニスの一言に「余計な事を」と恨みがましく見るがまた何処となく嬉しそうに見返されてキャラスティは色々と複雑な心境になる。日を重ねるごとに何をしてもレトニスに悦ばれている気がしてならない。
「確かにそれが手っ取り早いわね。大叔母様はキャラが「問題」を起こしているって思っているんだから」
「リリー、他人事だと思ってるでしょ⋯⋯リリーにもお祖母様は容赦しないと思うけど」
ラサーク家とスラー家。互いの家はキャラスティとリリック二人が常に一緒だと認識している。
当然キャラスティが「問題」を起こしているとすればリリックも一緒だと判断されるのだ。
それに気付き大袈裟に「そうだったー!」と頭を抱えて座り込むリリックを笑いながら慰めるベヨネッタの後ろからも笑い声が聞こえて顔を上げた先、中庭の入り口にアレクス達の姿を確認し、「いつもの中庭」に居るんだと改めてキャラスティは嬉しく思う。
最初は一人。貴族社会の息苦しさと窮屈さから逃げ、レトニスからも逃げてビールに思いを馳せていた。
テラードに連れられたこの場所でレイヤーと出会い「ゲーム」を知った。
リリックとベヨネッタをこの庭に連れて来てお茶をする様になった。
いつしかアレクス、シリル、ユルゲン、ブラントが通う様になり賑やかになった。
本来、上位の彼らは接点もなく認識さえもされずに通り過ぎるだけの遠い人達。
そんな彼らが集まり同じ時間を過ごす「いつもの中庭」が特別な場所になるのは当然の事だ。
「リリックが恐れるとはキャラの祖母は余程厳しいと見えるな」
「厳しいってものじゃ無いですよっ。鬼です! 貴族の鬼! アレクス様の比じゃないくらい怖いです!」
「⋯⋯まて、リリック。俺は、怖い⋯⋯のか」
肩を落とすアレクスと「あー確かに怖いよね」と頷き同意するユルゲンとシリル。
人の祖母を鬼呼ばわりしながらブラントに縋るリリックを引き剥がすレイヤーにキャラスティの頬が自然に緩み声を上げて笑っていた。
「キャラが声を上げて⋯⋯笑うなんてレアよ! レアスチル! テラード様! 携帯! スマホ! 写メ!」
「いや、落ち着けレイヤー嬢そんな物は無いだろ! 迂闊すぎるっが⋯⋯確かに貴重だな」
「ふふっ、あははっ、だって、リリーがおかしくって、それに、ふふっ、なんだか嬉しく、なっちゃって」
「ちょっと、笑い過ぎ!」
むくれるリリックと驚いた表情のアレクス達に構う余裕なくキャラスティの笑いは止まらない。
ランゼの事、ブローチの事。大切になった友人達。彼らを守りたい気持ちは大きくなるばかりなのにキャラスティがやれる事は小さく少ない。それでも守れるなら自己犠牲も厭わないと思える。
身分の違い、立場の違い、様々な事情でいつまでもこの時間が続かないと分かっているからこそ、「別れ」の想像に泣きそうになりながらも「いつもの中庭」で過ごした時間をずっと忘れないでいようとキャラスティは笑い涙で誤魔化した。
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「じゃあ、後で迎えに来るから。リリーは逃げないように」
「逃げないわよっ」
雨が降りそうだと「いつもの中庭」を解散して帰寮したキャラスティは迎えを待つ間にランゼの「力」と「ブローチ」についてメモをまとめた。
ランゼと共に過ごして彼女の目的は何となく「ゲーム」の攻略ではない気がしていた。
初対面時、キャラスティを「悪役」だと言ったランゼは「前世」で「恋ラプ」をプレイしている。
プレイ済みならば「ブローチ」がクリア後の「おまけ」である事を知っているはず。攻略ではなく「ゲーム」の見たい場面だけを再現しようとしているのだろうと。
──「断罪」シーンを再現しようとしているとも言えるのよね。
もし「断罪」に持ち込まれても、一人だけが影響されたのなら三時間、全員が影響を受けたのなら一時間持ち耐えれば回避できる。
書き終えたメモを四つ折りにして手帳に挟みながら窓を叩く音にとうとう降り出したと窓に近付いてキャラスティは息を飲んだ。
窓に映るキャラスティの姿は別人だった。
そこに映るのはストレートの髪を流したあどけない少女。
「マナ、さん?」
「サクラギ」にとって懐かしい少女マナ。
ガラスに映るマナの表情は悲しそうに眉を寄せ、窓を伝う雨粒が涙のようだ。
──ゴメンナサイ──
マナの口元が動くと同時に目の前が橙色に染まった。
いきなり窓が開かれ、熱風に襲われた途端、部屋に充満して行く煙の息苦しさにキャラスティは咽せた。
「オジョウサマコチラデス」
平常であれば他国鈍りの発音に違和感を感じたはず。窓からかけられた言葉を信用したキャラスティは助けに来たと思われる二人組に抱えられると橙色の中へと飛び込んだ。
着地した芝生の上で二人組の男に身体の自由を奪われたキャラスティは何が起きたのか混乱する頭の遠くで悲鳴を上げる寮友達の声を聞いた。
雨の勢いが強くなる中、消火活動の混乱に紛れて一台の荷車が慌ただしく走り抜けて行く。
その日、部屋に常に持ち歩いていた藤の花が描かれた深緑の手帳を残し、キャラスティ・ラサークは姿を消した。




