「彼女」の記憶
薄らと空が白んできた時間帯。ランプの油が残り少なくなり灯が小さく、薄暗い部屋でキャラスティは混乱していた。
ついさっきまで仕事帰りにビールを飲んでいた。同僚と別れた後は真っ直ぐ帰りいつもの様に眠りについたのだ。
仕事に行かなくてはと起きた場所は自宅マンションでは無く、見回しても見覚えのない物ばかり。
照明のリモコンを探すがはたとそんな物は無いと考え直して、マンションでは無く普段は寮で生活し、今日はトレイル邸に泊まっているのだと頭の中を整理した。
──キツイのが来た。
今回は短い間に強烈な記憶が流れ込んだ。
おかげで漸くこの世界の仕組み、基礎である「ゲーム」を理解した。「前世」の「彼女」が作ったシナリオやイベント、システム。「ゲーム」の内容が頭の中に入っている。
それから、新しい感覚。自己肯定感が低く、生き辛さを持ちながらこの世界で17年間生きてきた「キャラスティ」と、もう一つの「人格」、不自由な世界を自由に自分の力で生きた「彼女」の一部が重なった感覚がする。
「夢」を見る直前、眠気に耐えられなくなったのはテラードとレイヤーが「ゲーム」の話を始めた辺りから。
思えばその前にテラードがビールを見せつけて来ていた。
──余程「彼女」はビールが飲みたいのね。
「ビール」と「ゲーム」が「彼女」のスイッチなのかとクスっと笑みが溢れた。
笑みを浮かべると同時に咳き込み、水差しを取ろうと手を伸ばしたが、思ったより距離があったようでキャラスティはバランスを崩し、手を付いたサイドテーブルを倒しながらベッドから落ちてしまった。
ゴトっ。カチャンっ。
静まり返った室内では思った以上の大きな音が響く。
幸い絨毯のお陰で水差しが割れる事はなかったが質の良い絨毯に水をこぼしてしまったと慌てていると扉がノックされ、返事をする前に入り口に控えていたのか侍女が飛び込んで来た。
「お嬢様っ!? お目覚めになられたのですね。ああ、お触りになりませんよう、今片付けます」
「あ、え、倒してしまってごめんなさい」
「お気になさらず、片付けましたら坊ちゃんをお呼びしますね。冷えますからベッドにお入りください」
「でも、倒したのはわた──」
「お入りください」とベッドに戻され手際よく片付けた侍女はパタパタと部屋を出て行ってしまった。
時計を見ると五時前。レトニス達を起こすには早い時間で申し訳なくなった。
──明るくなったらテラード様とレイにノートを見せてもらおう。
思い出した事が多すぎて実の所まだ混乱している。確かにキャラスティは「彼女」なのに、おかしな話だが「彼女」はキャラスティに過度な干渉をして来ないのだ。人格のズレとでも言うのだろうか。キャラスティと「彼女」の人格が重なっていない。
──なんだか不思議な感じだわ。
「前世」を思い出しても何も変わらない。自分は平凡なキャラスティ・ラサーク。
キャラスティは両手を見つめ小さく息を吐いた。
「おはようキャラ、気分はどう?」
いつの間にか目の前で不安の表情を浮かべたレトニスに覗き込まれていたキャラスティは驚きに目を瞬かせた。
額に手の平が当てられその冷んやりとした体温とは反対にキャラスティの体温がほんの少し上がる。
「えっと、おはようございます」
何故だか恥ずかしい。それを誤魔化すようにキャラスティが挨拶をすれば、レイヤーはまだ眠そうに笑い、ブラントはやや遠慮がちに笑みを浮かべ、レトニスは安心した表情で微笑んだ。
「え⋯⋯グンジ?」
寝惚けたまま遅れて来たテラードの姿を見たキャラスティの口から無意識にその名前が溢れると、テラードの目が見開かれ「うそだろ⋯⋯」と驚愕した呟きが漏れた。
──「彼女」の同僚グンジ──
テラードの「前世」の名前をキャラスティが呼んだ。
「サクラギ、先輩⋯⋯?」
何故テラードを「グンジ」と呼んだのか、テラードが何故「彼女」の名前を知っているのか。今度はキャラスティが驚いた。
「マジか⋯⋯」「マジですか⋯⋯」
二人は同時に呟き、頭を抱えた。
テラードが「グンジ」ならブラントの可愛がり方に合点が行く。最終調整まで「グンジ」が一人で行なった可愛い「子供」だから。
キャラスティが「先輩」ならビールに拘っている事に合点が行く⋯⋯様な気がする。いや、「先輩」とキャラスティは似ている所はほぼ無い。記憶が穴だらけだったからか。
両者が考え込み、沈黙が続いた。
「キャラ、テラード、今の事、後でゆっくり聞かせてもらおうかな?」
異様な雰囲気を笑顔のレトニスが打ち壊した。
「れ、レトニス様? 冷静に、ね?」
「冷静だよ。でもほら、取り敢えずテラードとは離さないとね。急いで、早急に、迅速に」
「冷静じゃありませんね」
「冷静、冷静、問題ない。さあ朝の準備をしようか」
目が覚めたレイヤーが慌てて宥めてみるがレトニスは笑顔のままテラードを引きずって部屋を出て行き、ブラントが「後でね」とそれに続いた。
残ったのはガウンを羽織ってはいるが早朝の寒さに肩を竦めたレイヤーだけ。
「まあた拗れそうね」
「ですね。でも「そう言う」設定をしたのは「私」ですから」
「何それ? 面白そうな事を思い出したみたいね」
愉快そうに笑うレイヤーが「ゲームのレイヤー」と重なり、傲慢で高飛車な「ゲームのレイヤー」が消えた。
目の前にいるのは美人で自信家で、寂しがりやで陽気な友人のレイヤー・セレイス。
──この世界は「ゲーム」だけれど「ゲーム」ではないわ。
「もうすぐヒロインが来るのよね。ゲームが始まるのかも始まらないのかも知れない。けれど、私もライバル令嬢の端くれ。断罪も流刑も回避するわ。もちろん、リリーとベネ、他の子も一緒に」
「そうこなくっちゃ⋯⋯続編の事は?」
「思い出した。続編で死ぬなんて酷い話ね」
「本当よ。絶対回避してやらないとね」
「後でね」とレイヤーも部屋を出て行き、キャラスティがベッドを出てカーテンを開けるとすっかり明るくなっていた。
「彼女」は記憶を持ったままこの世界に来た理由を隠している。いや、隠しているのではなく、言えない。そんな気がする。
「まだその時ではないの」
目が覚める前に聞こえた「彼女」の声。
それは優しくもあり冷たくもある透明な声だった。




