優しさの裏側
仲間たちの目に宿った光を受け止めるように、レトニスはゆっくりと手を組んだ。肩の力を抜いたその姿は明らかに芯に熱を帯びていた。
その空気を読み取ったのは、アレクスだけではなく、シリルが静かに腕を組み直し、ユルゲンが椅子に腰掛けたまま軽く足を組み直す。
レイヤー、リリック、ベヨネッタの三人は顔を見合わせた後、テラードに不安げな視線を向けた。
それを受けたテラードはレトニスが言おうとしている「イベント」を既に理解しているのだろう、目を細め小さく頷いた。
誰もがこれから始まる何かを察していた。
「断罪劇を用意するんだ」
レトニスの声は穏やかだが、その一言に込められた意味は重い。
「断罪⋯⋯劇」
レイヤーが思わず溢したその言葉にレトニスは頷きながら、仲間たちの顔を一人ひとり見渡した。
「俺たちはこれまで、キャラに『思い出してもらう』ことを優先してきた。けれど無意識の記憶に訴えるだけじゃ、キャラは確信に辿り着けない。だから次は、『選ばせる』んだ。キャラ自身に」
選ばせる──それはキャラスティの自由意志に託すということ。
守られるだけの存在ではなく、己で世界の真実に手を伸ばし、掴み取らせるために。
「キャラが恐れている『ゲームの中の断罪』という出来事を、あえて用意する。だけど、それはキャラを傷つけるためじゃない」
言葉を区切ったレトニスの表情に、誰もが視線を集中させた。
「キャラに『この世界が偽物である』と自分で確信してもらうための舞台。それが断罪劇の役割だ」
「そっか。つまり、偽物の『ゲーム的イベント』を利用して、この世界は作り物だよってキャラちゃんに教えてあげるんだね」
ユルゲンが口を開く。いつもの調子の口ぶりでもその目は真剣だった。
「そう。キャラは『断罪』を何よりも恐れていたから」
この世界──ここはランゼが創り出したものだ。キャラスティを偽りの幸福に閉じ込める為に組み上げられた箱庭。
整いすぎた環境。都合のよい人間関係。誰もキャラスティを責めず、ただ優しさだけが繰り返される優しい牢獄。
彼女の周囲には常に答えを選ばなくて済むように計算された親切が置かれている。
けれど、それはレトニスたちから見れば、あまりにも表面的で、上辺だけの安寧。
「ランゼは、この世界でキャラが『みんなに愛される側』であれば、出ていきたいなんて思わないだろうって思い込んでる。けれどキャラは心のどこかで『違和感』を感じてる。その違和感をはっきりと形にしてやるんだ。そして、選ばせる。偽物のこの世界を受け入れるのか、本物の自分を取り戻すのか」
その言葉に、部屋の空気が張り詰めた。
テラードが腕を組み、少し眉をひそめながら口を開いた。
「レトニスの言う通りだな⋯⋯キャラ嬢の中にある『違和感』が、きっと鍵になる」
テラードは静かに言い、指を組んだまま視線を伏せる。
「今はまだ、それが何なのか言葉にできていないんだ。でも、キャラ嬢の中に確かにあるんだ。『この世界はどこかおかしい』っていう、感覚が」
「ああ、だからテラード、お前の知識が必要になる」
レトニスの言葉に、テラードはしばらく沈黙したまま目を伏せていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。だがな、レトニス⋯⋯失敗すればキャラ嬢に深い傷を負わせるかもしれないぞ」
「分かってる。けれど、キャラは絶対に選んでくれる。本物の俺たちを」
まっすぐな瞳で答えたレトニスの声には、一切の迷いがなかった。
しばらくの静寂ののち、アレクスが手を上げた。
「もし、キャラが──この世界を選択したとしたら、俺はそれでもいいと思って⋯⋯いや、そう思おうとしてるだけかもしれないな」
それは誰もが心の奥で向き合いきれずにいた、最後の可能性。
レトニスがキャラスティを想っていることを知っているからこそ、アレクスはあえてそれを口にする。
ただ、その眼差しにあるのは挑発ではない。アレクス自身もまた、キャラスティを想っている。
王子という立場であることも、レトニスとは違う距離感であることも、すべてを理解した上で──それでも彼は、自分なりの形で彼女を守りたいと願ってきた。
だからこそ、問いかけた。
「もしキャラスティが偽りの幸せを選ぶなら、俺たちはそれを否定できるのか」と。
レトニスは、深く息を吸い、一拍置いて応じた。
「⋯⋯そのときは、キャラの意思を受け入れる。どんな答えでも」
レトニスの声は、はっきりとした揺るぎのない声だった。
「でも俺は信じてる。キャラは、きっと正しい選択をする。アレクスだって⋯⋯知ってるはずだろ?」
その言葉に、アレクスはわずかに目を細めた。
「⋯⋯ああ。そうだな。キャラは本物の俺たちを選ぶ」
誰もがその言葉に、異論を挟むことはなかった。
それが元の世界で得た絆であり、今もなお失われずに繋がっている信頼の証。
レトニスはゆっくりと席を立つ。細かな仕草一つひとつに、迷いは見えない。
誰の目にも明らかだった。彼がこれから担おうとしている役目は、キャラスティとレトニスにとって辛いものだということが。
「断罪は──俺がやる」
静かに告げられた一言。
重く、鋭く、心の奥へと突き刺さるような響きだった。
「レト⋯⋯」
リリックがわずかに眉を寄せた。けれどその瞳にあるのは、戸惑いではなく、幼馴染の時間を過ごして来たレトニスとキャラスティをよく知る立場だからこその理解と、深い痛みだった。
ベヨネッタはリリックに寄り添い、目を伏せたまま黙っている。レイヤーも声を発することはなく、ただ指先を組み、膝の上でそっと力を込めた。
レトニスは皆の反応を見て、薄く微笑む。その微笑みは優しさではなかった。むしろ、それは己の決意を誰にも触れさせまいとする、かすかな抵抗のようにも見えた。
誰かがやらなければならないのなら、自分がやる。
偽りの中にいるキャラスティの世界を揺るがせるその役目を、誰にも譲るわけにはいかない。
キャラスティを目覚めさせるための「痛み」を、他の誰かに負わせるわけにはいかない。
「キャラに痛みを与えることになるなら──俺も、それと同じだけの痛みを背負う」
その言葉に、空気がひときわ濃くなった。
アレクスが僅かに表情を曇らせる。彼の中にもまた、同じ覚悟があることは、誰よりもレトニスが知っている。
けれど、レトニスが選んだのはその覚悟を「役目」に変えることだった。
「俺が、キャラが恐れている『断罪の瞬間』を再現する。だが、それはキャラの心を壊すためじゃない。壊させないために、やるんだ」
その声は、しっかりと全員の胸に届いた。
シリルが腕をほどき、そっと息を吐いた。
「レトニス、止めても無駄なんだな? 例えば、俺が代わりに『断罪する』と言ったら──」
その言葉は挑戦ではなかった。ただ真っ直ぐに、レトニスの決意の深さを確かめるように響いた。
レトニスは口角をわずかに歪め、どこか遠くを見つめるような眼差しで呟く。
「⋯⋯それでも、キャラは『ゲーム』では俺に断罪されるんだ。もし、シリルが断罪しても結局は俺を重ねるだろう?」
静かに、けれど確信を持って続ける。
「だから俺がやる。怖がらせるのも、責めるのも、痛みを与えるのも──俺でいい⋯⋯いや、俺じゃなきゃ駄目なんだ」
その声は淡々としていた。だが、その言葉の端々には、明確な意思があった。
レトニスのその答えに、シリルは目を細めた。まるで、心のどこかにわずかな疼きを覚えるかのように。
「キャラが感じる痛みを、俺も感じる。キャラが苦しむなら、俺も苦しむ。そうでなきゃ、『選べ』なんて言えない」
誰かが誰かの背中を押すだけでは、意味がない。
断罪とは、ただ突きつける行為ではない。
それを突きつける者もまた、相手と同じだけの血を流し、痛みを知っていなければならない。
そうでなければ、キャラスティの心はこちらの真意が届かないところで壊れてしまうだろう。
「⋯⋯覚悟の上で、なんだな?」
テラードが問う。
それは言葉の表面以上に、深く重い問いだった。今後のすべてを決定づける問い。
レトニスは、静かに目を閉じ、そして──はっきりと、頷いた。
「勿論」
その一言には、これまでのすべてが詰まっていた。
キャラスティと過ごした時間。彼女を見つめてきた日々。彼女の笑顔、涙、沈黙、そして心の奥にある恐怖の輪郭まで──すべてを知っているからこそ、レトニスは引かない。
キャラスティを「導く」のではなく「共に」。そのために、レトニスは自分を犠牲にするのではない。
ただ、キャラスティと同じ場所に立つだけだ。
その真意を、仲間たちは誰一人言葉にはしなかった。
けれど、その沈黙こそがすべてを物語っていた。
彼らは皆、レトニスの覚悟を認め、信じる。
キャラスティが、きっとその手を掴むと。
──────────────────
誰もいない大広間に、レトニスの靴音だけが、わずかに反響した。
天井の高い空間は、本番に向け静かにその時を待っている。カーテンは巻き上げられ、壁に沿って並ぶのはソファとテーブル。
白く、冷たい静謐な朝の光はすべてを見透かすように、淡々と降り注いでいる。
レトニスは壇上で足を止め、無人の空間を見渡した。
舞台となるフロア。キャラスティのために用意された場所へまっすぐに視線を向けた。
そのままその場へと降りて、これから自分が立つ壇上を振り返った。
「ここに、キャラが立つ⋯⋯」
声は誰に向けるでもなく、ただ空間に溶けていった。
レトニスの眼差しは、ただ一つの未来を見ている。その瞬間を、キャラスティが真実に触れるその時を。
テラードが書いたシナリオからキャラスティがどんな表情をするのか。どんな声を上げるのか。どれほど怯え、どれほどレトニスを憎むのか。
そのすべてを、レトニスは知っている。知っていて、なお、やるのだ。
ランゼがキャラスティをこんな世界に閉じ込めた。
自分以外が彼女を偽りの檻に閉じ込めた。
「俺は、許せないんだ⋯⋯」
作り物の優しさ、都合のいい役割──そんなぬるま湯の中で、キャラスティは本物の痛みを忘れたまま眠っている。
それが、痛い。息が詰まるほど、哀しい。
キャラスティを閉じ込めて良いのは自分だけ。
それなのに。ランゼに奪われた。
レトニスの胸には焦げつくような怒りが広がっていた。
キャラスティに痛みを与え、キャラスティから痛みを与えられるのは自分だけなのに。
どんなに残酷な言葉を吐かれても、どれほど嫌われても、レトニスはキャラスティを離さない。
ずっとそうだった。誰よりも近くで、誰よりも深く、彼女を見てきた。
キャラスティが苦しむときは、自分も苦しまなければならない。
キャラスティが傷つくなら、自分も同じ場所に傷を刻まなければならない。
それでようやく、並べる。
偽りでも、真実でも、本当はどちらでも良い。
キャラスティの隣に自分が在れさえすればそれで良いのだから。
自分の願いは、純粋ではない。歪んでいて、脆くて、嫉妬に塗れている。
レトニスは静かに背筋を伸ばし、もう一度壇上に目を向けた。
キャラスティが「見たくないもの」に向き合う、この場所で自分に向かって「レトなんて大嫌い!」と叫ぶなら、それでいい。
憎しみでも、絶望でもいい。
けれど、その奥にほんの僅かでも、「違和感」への気付きが残るのなら──それだけで充分だ。
たとえ、自分のすべてが否定されても構わない。彼女が真実に辿り着けるなら。
「それでいいんだ⋯⋯それでも俺は、キャラを離さないよ──絶対に」
小さく呟いたその言葉。
けれどその一言は、レトニスの中では何千回も繰り返された祈りと、願いと、執着そのもの。
どうしようもないほどに欲するキャラスティが、自分の手の届かない場所に行ってしまうことをいつも恐れていた。
そうなったら、きっと自分は正気ではいられない。
レトニスはコートの裾を整え、大広間の扉を振り返った。
「断罪劇」は今日、実行される。
偽物の舞踏会。
全員が揃う、偽りの祝福の場。
キャラスティが何も知らずに招かれる美しい檻。
その舞台の中央で、レトニスは「断罪役」としてキャラスティの前に立つ。
この世界を終わらせる。その瞬間はもう、すぐそこだった。