不自然な世界で
その夜、キャラスティは何度も寝返りを繰り返しては、ほとんど眠れずに朝を迎えた。
濃霧が漂うこの気持ちは何か悪い事をしてしまった罪悪感に似ている。一体何をしてしまったのだろうか、分からない。
または、何かに不安を抱いている気持ちにも似ている。不満も心配も何もないのに。
放課後にクレープを食べたり、パーティーに参加したり。テーマパークや小旅行に行ったり。
大好きな人達と穏やかで賑やかに楽しく過ごす日常は幸せで、とても満たされている。
一方で、心の隅で何かを忘れている喪失感が心の奥にある様に感じていた。
それだけではない。
どうにも嫌な夢を見ているのに幸せな夢の中にいる様な気もするのだ。
自分が自分でない様な、自分が別人の体を乗っ取っているかの様な違和感が常に付き纏っていた。
そんな不安定な感覚を、リリックとベヨネッタに打ち明けるべきかどうか悩みながら、重い体を引きずるようにしながらキャラスティは起き上がった。
カーテンを開けて、朝日に照らされ始めた見慣れた赤いタワーを眺めてから見下ろした車道。
小さく見える車の往来をぼんやりと眺めたその中でハザードランプを点滅させた一台の車が停まっている事に気付いたキャラスティはその車から何故か目を離せなくなった。
⋯⋯と。運転席側のドアが開き長い黒髪を靡かせた女性が降りるとマンションを見上げ、その視線を感じたキャラスティは身体を固くした。
おかしい。
キャラスティの部屋は25階建の最上階。見下ろしても地上は遠く、車の形は見えても乗り降りする人がどんな人なのかなんて分からないはずなのに何故かキャラスティには女性の姿が「見える」のだ。
更におかしな事が起きた。
動けないまま見つめるキャラスティと女性の視線が合った。
女性からはキャラスティが見えるはずがない。あり得ない。そう思うのに黒髪の女性は優しく微笑み両腕を広げた。
その姿から目が離せないまま無意識に一歩前に出ると突然キャラスティの部屋に声が響いた。
「皆、待ってるよ。あなたが「キャラスティ・ラサーク」を思い出すのを」
凛とした良く通る声。この声を知っている。その姿を知っている。
見えるはずのない姿。聞こえるはずない声。届くはずのない女性が広げた腕。
キャラスティが手を伸ばすと女性の手に触れた感覚が身体に走った。
その手の温もりが何故か懐かしくて嬉しくて、キャラスティの瞳から一筋涙が流れた。
何かを忘れていると感じていた。そしてそれはキャラスティにはとても大切なもの。大切なのに忘れてしまっているもの。
「⋯⋯忘れたくないのに。私は何を忘れているの⋯⋯?」
そう口にした瞬間、大きな窓から陽の光よりも強い光が差し込みキャラスティを包み込んだ。
それはまるでキャラスティの目覚めを促すかのように、暖かく眩しかった。
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「キャラは、どう?」
レイヤーの問いかけに音を立てないようゆっくりとキャラスティの部屋のドアを閉めたリリックは振り返り、神妙な表情を向ける彼らに首を振った。
「まだ⋯⋯起きそうもないわ」
今朝方。なかなか起きてこないキャラスティを起こしに部屋を覗いたリリックは窓際で倒れているキャラスティを見つけた。
先日はベッドから落ちたキャラスティ。今度は外を眺めながら寝落ちでもしたのだろうと呆れながら「こんな所で寝てないで起きなさい」と抱き起こしても目を覚まさないキャラスティにリリックの血の気が引いた。
急ぎベヨネッタに声を掛け、レイヤーとレトニス、そしてアレクス達へと連絡を入れたのだった。
「くそっ⋯⋯また、俺たちは⋯⋯術中に嵌り、待つ事しか出来ないなんてな」
またもや無力さを見せつけられたと絞り出すようにアレクスが呟く。
リリックも「そんな事ない」とは言えず、簡単に策に嵌められた不甲斐なさに言葉が出なかった。
しばしの沈黙を破ったのは項垂れたアレクスの隣で考え込んでいたシリルだ。
自分たちの置かれている立場を整理しようとこの世界に飲み込まれた時、自分たちの前に現れた人物の名前を口にした。
「なあテラード、サクラギさんはこの世界から出るにはキャラスティが「この世界は偽物」だと覚醒しなければならない⋯⋯と言っていたな」
「ああ、ランゼに飲み込まれる寸前、先輩は俺たちを護ってくれたが、自分自身⋯⋯キャラ嬢の護りが薄くなってしまったのだろう。先輩らしいと言うか⋯⋯キャラ嬢らしい⋯⋯だからキャラ嬢はこの世界に違和感を感じても確信が待てないんだよ」
「サクラギさんは俺たちだけの記憶を守ってくれたんだな。だからこそ腹立たしい。キャラスティに「この世界は偽物だ」と教えようとしてもその言葉はキャラスティの前では発せないなんて⋯⋯」
「この世界はランゼが作ったもので、キャラちゃんに僕たちに愛されている世界から出たくないって思わせようとしてるってサクラギさんは言ってたよね。それで「偽物の世界」って言葉を僕たちから取り上げたって」
テーブルに置いてあるメモ用紙にユルゲンが「この世界は偽物」と文字を書く。
しかし、それはインクが切れたペンで書いたかのように掠れ、筆圧の跡さえも残さず書いたそばから消えてしまった。
「でもね、キャラは記憶を忘れさせられているけど、無意識に覚えてるんだと思う。だって、この間は突然ビールが好きって言ったのよ」
「私もそれは感じていたわ。小旅行に行った時も前に温泉に行った時も楽しかったと言ってたわよね。この世界では初めてなのに」
「ベヨネッタの実家、ムードンの事だな。俺たちがそれぞれキャラと過ごした出来事を再現した時も「前にも似たような事があった気がする」と言っていたな。確かに所々覚えている記憶があるようだが⋯⋯」
アレクスはこの世界でも二人で外出し、元の世界で初めての街歩きの時のように髪飾りを贈り、シリルはダンスパーティーでパートナーを名乗り出て、ユルゲンはアパレルショップ巡りに誘い記憶を呼び覚まそうと試みたが、朧げに記憶があっても確信までには至らせられなかった。
忘れているキャラスティを覚醒させようとする気持ちは皆同じ。それが空回りしている自覚があるだけに口惜しい。
力が及ばない歯痒さにアレクスとテラードが悔しそうに顔をしかめた時、今まで沈黙を守りながら考え込んでいたレトニスが口を開いた。
「ここはキャラが「前世」で過ごした世界に似ているんだよな? 高い建物に早い乗り物。夜も明るくて便利な物に囲まれて⋯俺たちには「信じられないようなモノ」に囲まれた世界⋯⋯けれど、ランゼが作り出した偽物だ」
訝しむ皆の視線に頷きを返したレトニスは自分の考えを整理しながら続ける。
「キャラが「前世」で過ごしていた世界と似ていても違う。ここは「ランゼの前世の記憶を基に構築した世界」なんだ」
そこでレトニスは言葉を切ってリリックを見上げた。自然と他の者たちの視線もリリックに集中する。
皆からの視線を受け止めたリリックは黙って頷く。その通りだ。ランゼの力が及んでいるこの環境は彼女が前世で過ごして来た世界。
ランゼが作り上げた世界だからこそレトニスを始めとした攻略対象者達の「性格」を「ゲームの性格」としかランゼは認識していないのではないか。
ランゼはレトニス達に積み上げた経験があるのだと考えを及ばせることなく「ゲーム」で知ったキャラクター像が常識的に当てはめられた状態だと慢心しているのではないか。
「サクラギさんが守ってくれなかったら私たちは「ゲーム」の私たちにされていたのだと思う。でも、サクラギさんは私たちを守ってくれた。そうよ⋯⋯私たちは「私たち」。何もランゼの思い通りにしていなくてもいいのよ」
自分自身に言い聞かせるように、否、弱気になりそうな心を奮い立たせようとリリックは胸を張り顔を上げた。
集まった視線に応えるその瞳に揺らめき迷いながらも存在を失わない光が宿っている。
そのリリックの光を受け取ったアレクス達の瞳にも微かな煌めきが差し込み、レトニスが再び静かに口を開いた。
「ランゼが知らない知ろうとしなかった俺たちが本来の俺たちだ。その中で一番キャラに愛されて、一番キャラを愛していて、一番「ゲーム」とかけ離れているのは⋯⋯誰だろうね?」
その問いかけは静かに部屋を満たすはずだった。
なのに、中性的で黙っていれば美形と言われるレトニスの表情は彼らにとってもキャラスティにとっても見慣れた妄想を暴走させ恍惚に浸るレトニスらしいもの。
レトニスを引き攣り気味の表情を向けていた視線が一斉に交差し、互いの視線を受けた者達の表情から不安と憤り、緊張感が薄れた。
綻んだ場は少し賑やかに花を咲かせようと息を吹き返す。
そんなレトニスにリリックは笑いを堪えながら応えた。
「ふふっ、私の知るレトだわ」
「リリーだって気が付いたんだろ? 俺たちは無意識に「ゲームの俺たち」でいなくてはならないと思い込んでいたんだよ。キャラに記憶を取り戻させるのではなく「選ばせる」んだ」
「!⋯⋯そうか「ゲーム」には「イベント」が発生するものだ」
「ああ、それには皆の協力と、テラードお前の「グンジ」としての知識が必要なんだ⋯⋯だから⋯⋯頼む。また力を貸してくれ」
「私からもお願いします!」
幼馴染と呼ばれるほどキャラスティと長く過ごして来たレトニスとリリックが揃って頭を下げた。
その影が以前、キャラスティが誘拐された時の姿と重なり一層の覚悟を各々の中に芽生えさせた。
「頼まれなくても。俺だけじゃない、アレクスもシリルもユルゲンも、レイヤー嬢もベネ嬢だってキャラ嬢の為だけじゃない、自分の為に仲間の為に自分の意思で動くんだ」
「ありがとうテラード⋯⋯ありがとう皆」
改めて互いの強い視線に笑みが宿る。
レトニスに皆の注目が集まり、その熱い視線を集めた彼は深く息を吸い込んでゆっくりと息を吐いた。
薄く微笑むその顔には決意しかない。
「それで、どうする? レトニスのことだ何か策があるんだろう?」
「ああ、キャラに俺以外を見て欲しくはないし、俺としては本当のお前たちを「選ばせ」たくはないんだけどな」
「⋯⋯全くお前は⋯⋯どんな状況でもキャラに対して揺るがないな」
「当たり前だろう? これが俺だとアレクスだってもう分かっているんだろ」
「だから俺はお前を嫌えないんだよ⋯⋯」
さらりと言い切ったレトニスをアレクスは呆れたように笑いながら容赦なく小突き、それを受け流すレトニスのこの状況を心底楽しんでいるかのように高揚感に満ちた瞳がその場の全員を見回した。
同時にゾクリと湧き立つ緊張感。
笑顔を収めたレトニスのまっすぐな瞳はその先にある仲間達を見据えた。