「異世界」の景色
聖女宮の敷地を一周した後、本館の大扉前で足を止めキャラスティは白亜の壁を見上げた。
本来の聖女宮は多くの聖女達が生活する場所であり、同時に彼女たちの修行の場なのだと聞いた。
また、身分に関係なく広く門戸が開かれ人々が足を運び、自然信仰の元、多くの聖女たちと共に祈りを捧げる慈愛に満たされた神聖な宮だったと言う。
それが今や、見る影もない。
この場にあるのは絶望だ。
まだ扉を開ける前だと言うのにあまりにもの強い負の感情に当てられたキャラスティは深呼吸しようとした胸のズキリとした痛みに思わず息を詰まらせた。
キャラスティ唯1人を憎む果てのない憎悪は心臓を鷲掴みにして魂を直接握り潰そうとしているかの様な強烈な痛みに意識が飛びそうになる。
咄嵯に胸に手を当てたキャラスティだったが、ぐっと顔を上げその手を再び大扉に手をかけた。
まだ対峙していない。
その姿を前にしていない。
向き合わねばならない。
終わりにしなければならない。
「っ、ふふ⋯⋯ふふ」
「キャラ? 何よ急に⋯⋯」
「私ね──」
キャラスティは俯いたままクスクスと震える唇で語る。
これまでも今も「ないない尽くし」だと。
本当は家から離れたくなかったのにラサーク家が邸をもっていない王都のハリアード学園に入れられ、入学したらしたで貴族同士の身分差を目の当たりにすれば、身分がない、力がない、逃げ出す勇気もない息苦しい毎日だと思っていた。
ただ、不便ではなかったのも確か。リリックがいてベヨネッタがいて楽しかった。恵まれていた。平凡で平坦な幸せ。それがずっと続くのだと受け入れていた。
けれど、おかしな夢だった「前世」が世界を変えた。
「ない」と思い込んでいたものが本当に欲しかったものなのか。
望んでいたもの、欲していたもの、かけがえのないもの。それらは初めからそばにあったのに目を逸らしていただけ。「ない」と嘆いて見ていなかった。
「気付けて良かったなって」
だから。
大切なかけがえのないものを守るために戦うと決めたのだ。
もう迷いはない。恐れもない。後悔も未練も断ち斬った。
キャラスティは扉にかけた腕に力を込め軋んだ音を立ててゆっくりと開かれる扉の向こうへ一歩踏み出した。
「いらっしゃい。乗っ取りさん」
薄暗いエントランスの奥で出迎えたのは、血の様に赤い瞳をした少女。そして、聖女宮を包む闇よりなお深い漆黒の髪を持つ少女だった。
「さっすが製作者よね。裏技とか知ってたんでしょ。あたしが攻略する前にみんな落としちゃって酷いよねえ」
黒の少女は不機嫌そうに眉を寄せると両手を広げて首を傾げた。
「でね、あたし良い事考えたの! あたしが作ったゲームにあんたを閉じ込めちゃえば良いんだって。だってさ悪役をしない悪役令嬢なんて存在自体がバグだもの」
黒の少女はパチンと手を叩きクスクスと笑う。
「この世界はあたしの為の世界なのよ。あんたが居なくなれば世界は元通り。初めから攻略し直せばいいもんね」
少女の背後から禍々しい黒い霧が現れ、徐々に形を成していく。
現れたのは眼窩に青白い炎を灯らせた巨大な骸骨だった。
「キャラ、下がって」
レトニスとアレクス達がキャラスティを庇うように立ち塞がれば黒い少女は不愉快だと顔を歪ませ舌打ちをする。
その隙を突いてカレンが聖なる壁を作り出しセルジークとハルトールの剣抜を合図に全員が剣を抜いた。
レイヤーがリリックとベヨネッタに頷き祈りの加護を彼らにかけると浄化の力を得て身体が淡く光りだす。
それを見た少女は苛立たしげに吐き捨てた。
「あーもうっ! ムカつく。どいつもこいつも──自分の立場を思い出させてあげる。あんたらはあたしに攻略される立場だって」
少女が右手を高く掲げた途端、天井から無数の影が落ちてきた。
まるで影絵のように黒く塗りつぶされたそれはゆらりと揺れると一斉に襲いかかってきた。
「直ぐに湧いてくる! うっ⋯⋯」
「気持ち悪いよねえ⋯⋯うわっあ!」
手を伸ばす影を切り伏せたシリルとユルゲンの腕に新しい影が巻き付く。
「シリル! ユルゲン! く⋯⋯っ」
「アレクス! うわっ!」
二人を助けようとしたアレクスの首に影が巻き付き、それを外そうとしたレトニスも腕を影に取られてしまった。
「レトニス! くそっ数が多すぎるんだ」
いつも人が良い笑顔のテラードが苦渋に満ちた表情を浮かべさせる程に状況は悪い。
しかし、キャラスティの気持ちは凪いでいた。
何故かは理解できないがキャラスティにとってこの程度のことは想定内だった。
キャラスティは静かに腰の弓を構え、弦音を響かせると何本もの光の矢が現れ黒い影を次々と貫いていく。
その光景に少女は目を見開き驚きの声を上げた。
「ムカつく! ムカつく! ムカつく! もういい! 全員飲み込んでやる!」
叫びに呼応して骸骨が真っ黒な口を開けた途端強い風が起きた。
ジリジリと骸骨へと吸い込まれながらもキャラスティは強く少女を睨みつけた。
「あなたのゲームなんかに負けない」
「はっ、強がってんじゃねーよ」
「絶対に負けない⋯⋯アイミさんのゲームになんか負けてあげない! 私はみんなを信じる!」
キャラスティが叫ぶ。
その叫びは風に抵抗する全員にしっかりとした音となり届いた。
瞬間。
一層強い風に身体が浮く。飛ばされそうになるのを踏み留まるが、それでも抗えない力に全員が骸骨の口へと吸い込まれたのだった。
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一瞬の浮遊感の後、ドサッと落ちた先は自室の床だった。
衝撃に息を詰まらせながら目を覚ましたキャラスティは辺りを見回して首を傾げた。
見慣れた家具の配置は間違いなくキャラスティの部屋である。
けれど何かが違う。
それに何か「夢」を見ていた気がするのにどんな「夢」だったのかもう忘れてしまっている。
違和感に眉を寄せた時、突然ドアが開かれた。
「キャラ? すごい音がしたけど⋯⋯って何してるのよ」
「リリー?」
「あら、ふふ。キャラったらもしかして寝ぼけてベッドから落ちたの?」
「ベネ?」
「まだ寝ぼけてるの? もうっ早く目覚ましに顔洗って来なさい」
顔を出したのはリリックとベヨネッタ。
リリックは幼馴染でベヨネッタは学校で出来た友達。
それは間違いない。なのに、何故だろうか。リリックとベヨネッタと違う世界で出逢っている。
そんな考えが頭を過りキャラスティはそんなわけがないと頭を振った。
「ほらほらキャラ、先輩の車が来ちゃうわよ。お待たせしては失礼よ」
「先輩って?」
その響きが懐かしい。
けれど、何故、懐かしいのか。
「レイ先輩でしょ! 早く目を覚ましなさい」
シャッとリリックが開けたカーテンから差し込む光が眩しくてキャラスティは目を細めた。
そこには赤いタワーと立ち並ぶビル群。
思わず窓に駆け寄り見下ろした道路には走る自動車の姿があった。
見慣れた風景。そのはずなのに、何故か胸に込み上げるものがある。
やはり今朝は何かがおかしい。この世界に感じる違和感と異物感。
いや、おかしいのは自分。自分はこの世界で異質な存在なのだとキャラスティは漠然と思ったのだった。
「おはよう。あら? キャラ、浮かない顔してどうしたの?」
「レイ⋯⋯先輩?」
「おはようございます。キャラったら今朝ベッドから落ちて、それから変なのよ」
「えっそうなの!? 大丈夫なの? いやよ私の可愛い子が怪我なんてしたら」
心配そうに顔を覗き込んできたのはレイヤー・セレイス。
同じマンションで一緒に住んでいるのは起こしに来た幼馴染のリリック・スラーと友達のベヨネッタ・ムードン。
彼女達とは同じ学校、インターナショナルスクールに通い、上級学年の生徒が下級学年の生徒の面倒を見ると言う学校特有の風習、「お気に入り」によって同じグループに属している。
キャラスティ達が属する「お気に入り」は自国の有力者の娘、レイヤーの「ピーフォールコレクション」と呼ばれ学校内カーストの上位に位置付けられるグループだ。
キャラスティ達はレイヤーに気に入られこうして毎日送り迎えからほとんどの時間を共に過ごしている──のに違和感が膨らむ。
「ちょっと今朝は寝起きが悪いみたい。変な夢を見た気がするけど⋯⋯忘れちゃった」
苦笑したつもりだったが上手く出来ただろうか。
仲が良い人達なのに不安なのか疑問なのかモヤモヤとしたものがキャラスティの心に広がっていた。
「んーなんか体調悪そうね。今日の帰りにクレープ食べに行くのやめる?」
「やだ! クレープ楽しみなのに。大丈夫、目が覚めた!」
「キャラは甘いもの好きだものね」
「うん。甘いものも好きだけど、ビールもすき⋯⋯え⋯⋯なんで」
口を吐いて出た言葉に唖然としたのはキャラスティだけではなかった。
リリック達も「え?」と同時に口にしてキャラスティの肩を揺さぶる。
「キャラ! いま、なんて?」
「⋯⋯え、わた、し、いま⋯⋯」
口を押さえたキャラスティの脳裏に浮かんだのは、黒い髪の少女。そして禍々しい巨大な骸骨の魔物。大きく口を開けた骸骨に吸い込まれる──夢。
その瞬間、キャラスティの頭が真っ白になった。
「リリー? どうかした?」
「あれ? 何、してたんだっけ」
お互いが顔を見合わせてからレイヤーとベヨネッタに視線を移すと二人は困ったように笑い首を傾げた。
やはり今朝は何か、おかしい。
「あ、もうこんな時間。カレンを待たせちゃう。ほら、三人とも早く車に乗って」
我に帰ったレイヤーがもう一人のグループメンバー、カレンの迎えに間に合わなくなるとキャラスティ達三人をピカピカに磨かれた高級車に乗せ、先を急いだ。
赤い塔、ビル群、すれ違う車。バス、電車、モノレール。自転車、バイク。コーヒーショップ、レストラン、バル。映画館、ライブハウス⋯⋯流れる車の窓の外の景色はどれも見慣れたもののはず。
景色を眺めるその間、キャラスティは何度も夢の内容を思い出そうとしたが思い出すことはできなかった。
しかし、一つはっきり分かったのはあの夢の中にあったのは恐怖と絶望、悲しみ、怒り、悔しさといった負の感情だったということだった。
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結局、この一日スッキリしないままキャラスティはぼんやりとしていた。
気が付くと教室の机に頬杖を突いて窓の外に目を向けては溜め息を繰り返してばかりだった。
「キャラ、良かった。俺が一番だ」
「あ⋯⋯レト兄様」
「あれ? 元気ないね⋯⋯熱はないみたいだけど」
そっと額に触れた手は大きくて温かくて気持ちが良い。
その心地良さにキャラスティが目を閉じると、フッと空気が揺れた。
「コラ、そんな無防備な顔しないの。キスされちゃっても知らないよ?」
笑う声に目を開ければ、目の前には悪戯っぽい笑顔のレトニス。
その様子にリリック達や自分に感じている不安が芽生えたキャラスティは無意識に眉を寄せた。
「何? どうしたの? やっぱり具合悪いんじゃない?」
「ううん。違うの。ただ何か変なの」
「変?」
「う、ん。今日はずっと頭のどこかがモヤッとしてて」
「⋯⋯どんな風に?」
「それが⋯⋯よく分からなくて」
レトニス・トレイルはキャラスティの本家筋の跡取りでリリックと同じ幼馴染。
キャラスティがレイヤーの「お気に入り」になる前はレトニスが所属する自国の王族がまとめる「ロイヤルコレクション」に誘われていたが、「ピーフォールコレクション」に入る報告をした時は残念だと言いながらも、二つのグループは良好な関係で、良く一緒にパーティーを開いたり遊びに行ったりと行動を同じくしていると喜んでくれた。
今日も帰りに二つのグループでクレープを食べる約束をしているのだ。
「それは心配だな。今日のクレープはやめて俺と自宅デートしよう」
「え、クレープ食べたい」
「⋯⋯抜け駆けするなレトニス」
「私の可愛い子を誘惑しないで」
「いたっ」
キャラスティの手を取ったレトニスに手刀が二発放たれたのはほぼ同時だった。
頭を押さえたレトニスにクスクスと笑ったのはレイヤーとベヨネッタだ。
「キャラスティ、嫌な事は嫌と言わねば」
「キャラちゃん優しい子だもんね僕達が守ってあげないと」
「キャラはみんなのものだって決めたばかりだろ」
「ほらレトニスはキャラから離れろ」
「ロイヤルコレクション」は学校の憧れ。
レトニス・トレイル。シリル・ソレント。ユルゲン・ベクトラ。テラード・グリフィス。自国の有力者の跡取りと王族アレクス・ハリアードと、華々しいメンバーで構成され、彼等と関わりを持ちたい「お気に入り」になりたいと言う生徒は後を絶たない。
学校中の憧れの的であるそんなメンバーとレイヤーの「お気に入り」ともなれば学校でも一目置かれる存在になるもの。
それなのに──。
キャラスティは胸の奥に湧き上がるモヤモヤとしたものがまた大きくなった気がしてギュッと手を握り締めた。