5.中級編から上級編へ
翌日の夜、ゲームの続きをやりたくてうずうずする気持ちを抑えつつ、舞帷は浴槽に浸かっていた。伸ばした右腕にお湯をかけ、交代で左腕もかけてみる。右足をお湯から出して伸ばしてみる。
(こんな細い足でも、ちゃんとあの硬い氷の上で体を支えることが出来るんだなぁ)
そう感心する彼女は、もちろん、アバターであることはわかっているが、現実でも頑張れば出来るような気がしてきた。
(でも、ゲームと違うから、きっとそのギャップに幻滅するかも知れない……)
そう思うと、熱めのお湯の中でも、心臓の辺りにスーッと冷たい物が走る。それが四肢に伝わり、指先まで冷たく感じる。ブルッとなった彼女は、肩までお湯に浸かり、まだ寒いので口の高さまで沈み込む。
唇の隙間から息をわずかに吐いて、水面にプクプクと泡を立てながらボーッと思いを巡らす。
(何も、いきなりゲームと同じレベルで滑れなくてもいいじゃない)
踏ん切りが付いた彼女は、顎の高さまで浮き上がる。
(スケートに興味が湧いて、用語も技も覚えて、まずは一歩踏み出す。ゲームがそのきっかけになるだけでも、きっと価値がある)
血管が収縮して冷たくなっていた体が、元に戻ってジワッと熱くなってきた。彼女は、入浴剤のいい香りのする湯気を吸い込み、深呼吸をする。
(ゲームを一通りやったら、あのスケート場へ滑りに行こう)
彼女は浴槽から上がり、熱めのシャワーを浴びる。トラウマとなった出来事が起こったスケート場は、彼女にとって忌まわしい場所だったが、そんな苦い思い出がこのシャワーのお湯に溶けて流れていったような気がした。
◇◇◆◆◇◆◆◇◇
舞帷は、スリーターンやモホークターンなど初心者向けのターンも出来るようになり、バニーホップジャンプも完璧に出来るようになった頃、レベル3に上がった。ゲームでは、動きが滑らかになると「習得」と判断され、ここで学ぶことが全て習得済みになると、レベルアップになるようだ。
気持ちの迷いがあると、動きがぎこちなくなる。それをどうやってゲームの中で採点しているのかはわからないが、「とにかく自分が納得するまでやってみよう。結果は後から付いてくる」と思うようになってから、彼女の心の中で次々と浮かんでくる迷いが減ってきた。どうやら、採点のことばかり気にしていたらしい。
ロペが「中級のコースを始めましょう」と言った。これが盛りだくさんの内容だった。
今まで習っていないターンがありステップがありジャンプがある。覚えることがいっぱい。ゲームを始めた頃よりは滑りが慣れているので、何が来てもうまく出来るという妙な自信が付いていたが、さすがに難しい。
ロペが模範演技を見せてくれる。不思議なことに、スロー再生のようにゆっくり動いてみせることも操作で可能だ。「こうやって……こうやって……こうやる」なんて具合に教えてくれる。
さすがの彼女も、そこまでやってもらえれば頭で理解する。でも、「さあ、やってみよう」と言われると、急に頭がいっぱいになった気分に襲われ、思うように動けない。迷いが彼女の体をぎこちなく動かし、きまって転倒する。
心が何度も折れそうになる。でも、深呼吸をして立ち直る。
そのうち、理屈で考えてしまうが、自分がどんな動きをしているかイメージすればいいことがわかってきた。ダンスと一緒である。
(なーんだ。ターンもステップも、ダンスみたいに考えればいいんだ)
彼女がそう割り切るようになって、リズムで動きを覚えるようにした。ここでエッジを変えて、ここで足を変えて、体を回して、向きを変える。
(うん、いけるいける♪)
混乱も恐怖も頭の中から消えていく。
一度成功すれば、自信が付く。ロペも「オッケー、その調子!」と褒めてくれるから、体がウキウキして軽くなる。こうして、ターンもステップも一つずつ――遅いのは仕方ないが――クリアしていった。
そして、スピンとジャンプ。フィギュアスケートの華だが、やる側からすればその難しさは半端ない。
姉がやっていたキャメルスピンを試したが、体がダランとなってしまい、すぐこける。トウループをやってみたが、まともに着地が出来ない。氷の上に足を投げ出して、上半身を起こし肩で息をする。
(ここは我慢!)
彼女は、銀盤の上にすっくと立ち上がった。
1日1時間とノルマのようにゲームをこなす舞帷だったが、さすがに、中級編をクリアするのに7日かかった。一度出来ても、体が自然に動くまで何度でもやってみたくなるので、余計に時間がかかったのだが、早く上級編に雪崩れ込んで、出鼻をくじかれるよりはまし、と思ったからだ。
◇◇◆◆◇◆◆◇◇
「今までよく頑張ったね。さあ、上級のコースを始めましょう」
レベルも4に上がり、ワンパターンのロペの言葉が少し変わったが、初級から中級へ行くのとは訳が違う階段差だった。
レベルアップすると足腰も強化されるらしく、疲れはほとんどないのだが、舞帷の目の前でロペが見せる上級のターン、ステップ、スピン、ジャンプの模範演技は難易度がめちゃくちゃ高くて、見ているだけで自信を失いそうになる。
(でも、どんなに難しそうに見えても、一つ一つの動きは単純な動きの組み合わせ。ダンスとおんなじ)
彼女は、テレビの歌謡番組で一糸乱れぬダンスを披露するグループを思い出す。キレッキレの動きも、分解すれば頭、肩、腕、腰、足の派手な動き。それが決まるから、オーッとなる。
ロペが軽々とサルコウ、フリップ、ルッツ、アクセルのジャンプを回転数をどんどん上げて決めるが、クルクル回っているところだけを見ても仕方ない。加速してどうやって踏み切っているかがポイントだ。アクセルは前向きに踏みきるが、他はみんな後ろ向きに踏み切っている。冷静になれば、それが見えてくる。
彼女は、注意深くロペの動きを観察して解説を頭に入れてから、自分がイメージしたとおりに体を動かす。もちろん、最初は駄目駄目。あえなく転倒。そんな結果はわかっている。いきなり出来て「私って天才」なんて夢みたいなことをイメージするから、その落差に絶望する。だから、地道に取り組んでいくのだ。
毎日1時間。日課のようにゲームをこなす舞帷は、上級編を12日でクリアした。もちろん、一度出来ても、体が自然に動くまで繰り返すので時間がかかったのだが。
ロペが「おめでとう!」と万歳三唱で喜んでくれた。彼女は、何事にも逃げていた自分が、ここまでやり通す自信を持てたことに一番嬉しかった。
テレビで観ていた姉も、ビデオを再生して食い入るように観た父親も喜んでくれた。この家族の祝福が、また嬉しい。
クリアした日の翌日、舞帷は姉と仲良く夕飯を作り、早く帰宅した父親を喜ばせた。
「ねえ、父さん」
「ん?」
サラダに箸を伸ばす牧男が、舞帷の問いかけに、にこやかな顔を向ける。
「続き、ないの?」
「ああ、続き? あるよ」
「どんなの?」
「一連の動きをつなげたもの。いわゆる、ショートプログラムだよ」
「へー」
「凄いぞー」
「何が?」
「それをVRMMOにして、演技者として参加できるし、ギャラリーとしても参加できるようにする。そして、得点を競う全国大会を開催するのさ」
夢を語る父親に耳を傾ける舞帷だったが、話がループし始めたので、父親から視線を切り、姉に向ける。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
唐揚げを頬張る芽衣は、そろそろ父親の話が飽きてきたので、いい機会と嬉しそうに妹の方を向く。
「今度さぁ……」
「うん」
「あのスケート場に行ってみない?」
「おおおおおっ! ついに舞帷は目覚めたか!」
「もちろん、ゲームみたいに3回転半――トリプルアクセルなんて出来ないことはわかってる」
「予防線張ったな?」
「でも、一からやってみたい」
「手すりの掃除、卒業というわけだ」
「うん」
「いいよ。付き合うよ。私だって、回転椅子から卒業したいし」
まだあれをこそこそとやっていたんだと思って、舞帷は苦笑する。
「今度の日曜、どう」
「オッケー」
舞帷は、姉のその言葉がロペにそっくりだったので、嬉しそうに笑った。
最後までお読みくださってありがとうございます!
続編は、検討中です。