3.動物のコーチ
翌日の夜、2階の舞帷の部屋で、彼女は父親から銀色のヘルメットにゴーグルを付けたようなHMDと密着型ヘッドフォンを渡された。姉から「アメフトか」と笑われて機嫌が悪かったが、ゴーグル部分が小さいので「そっちは特大の水中眼鏡よね」と言い返す。
「長くやるならベッドに寝転がればいいし、すぐ終わるなら椅子に座っていいよ。もちろん、椅子は回転させなくていいから」
そう言いながら牧男が舞帷から芽衣の方へ視線を移すと、芽衣は頬を膨らませた。
「これ、新型?」
「F型の改良版」
「ケーブル、ないの?」
「これは改良版の中でもワイヤレスタイプのやつ」
舞帷は、フーンと頷くと勉強机の椅子に座り、慣れた手つきで装着した。このタイプのフルダイブ型用HMDは各社が独自に製造しており、装着方法まで異なるものが多数あるが、彼女も姉も一通りの装置でゲームをプレイしているので、迷うことはない。
「ちょっと――後頭部が当たる」
「内側着装体のヘッドバンド、調整して」
そうは言いながらも、牧男はつい手が出てしまい、娘からHMDを取り上げてヘッドバンドを少し緩めて娘に手渡す。
「今度は大丈夫」
「勘でやったけど、ぴったりだったか。じゃあ、ヘッドフォンを装着して」
彼女は両手でヘッドフォンを装着し、耳の位置を調整する。それが終わると、HMDの電源をオンにして机に肘を突いた。
「じゃあ、こっちはテレビの前で観戦だ」
牧男は、少し離れたところにある大型液晶テレビの電源を入れ、かぶりつきで陣取った。芽衣は、自分の部屋からデスクチェアをエッサエッサと持ってきて、背もたれを前に回して座り、テレビ画面を見ながらその背もたれの上で腕組みをする。
「舞帷が見たり聞いたりしている情報が、このテレビでチェックできるのさ」
「改良版で、ここ、前と変わったとこあるの?」
「ない」
「だったら、おんなじこと何回も言わなくていい。初めて観るお客さんじゃないし」
つい、顧客向けのデモのように解説を始めてしまう父親を、彼女はたしなめる。
オープニング映像から始まり、ユーザ登録、アバター選択が始まった。
「あれ? 舞帷のアバターがいつの間に? いつ写真を登録したの?」
「今朝」
「ほら、舞帷だって驚いているよ」
「どこが?」
舞帷は、机に突いていた肘を離してため息をついていた。そして、頭を掻こうとしたが、ヘルメットなので諦めていた。
「いいじゃないか。手間が省けて」
「勝手に写真持ち出されると、怒られるよー」
芽衣は背もたれを体で押して身を乗り出し、父親の頭に向かって「知らないよー」と追加の声をかけた。
◇◇◆◆◇◆◆◇◇
舞帷は、アバター加工用の自分の写真データをアップした犯人の目星をすぐに付けたが、HMDをここで外すのは面倒くさいので、アバターの衣装決めのステップに進む。
コスチュームは姉と被らないようにしたいが、じゃあどの色にするのかというと決め手もない。なので服もスカートもスケート靴までも、すべて白を選択した。こういう選手がいたような気もしたが、気にせず先に進めると、難易度選択画面に移った。
ここで試しに「未経験者」を選んでみた。すると、ゲームが開始された。
自分は、今、スケートリンクの外にいる。リンクでは誰も滑っていない。リンクの外にも人影はない。
前に足を踏み出そうとすると、足が若干不安定に感じる。足の裏が左右にわずかにグラグラするのだ。これは、2本のエッジで立っているからだろう。
ゲームだからここでこけることはないだろうと思って歩いてみると、なんとか歩けた。
壁が一部切り取られたような隙間から、氷の面が見える。その表面を撫でる風があるわけでもないのに、冷気が迫る。
急に足がガクガクしてきた。彼女は、小学五年生の時にスケート場に行ったときの記憶が蘇ってきたのだ。
スイスイ滑る同級生は少なく、危なっかしい格好で滑る同級生が多かった。体をカチンコチンにして後ろから押してもらって滑ったことにしている子もいた。その多くが後ろ向きに転倒する。
――それが怖いのだ。
まともに滑らない子は、手すりにつかまって滑る真似をする。舞帷の場合、それすら怖い――後ろから誰かに追突される――という恐怖心が拭えず、リンクの外のベンチにいた。
そんな彼女を半ば強引に担任の先生がリンクに連れ出した。彼女は腰が震え、屈んだ姿勢のまま動こうとしない。すると、先生に怒られたので、背筋を伸ばした途端、後ろ向きに派手に転んだ。
――これが、トラウマとなった。
舞帷が、そんな情景を頭に浮かべながらボーッと突っ立っていると、後ろから「やぁ」と声がかかったので仰天して振り返った。
すると、そこにはトレーナーを着たウサギ頭の人物がいた。体つきから考えて、頭だけかぶり物という感じだ。
なぜここに着ぐるみがいるのだろうと彼女が首を傾げると、その人物が名乗った。
「僕はアルセーヌ・ロペ。君の専属コーチだよ。困ったことがあれば、何でも聞いてね」
「はあ……」
舞帷が気のない返事をすると、ロペがやってきて彼女の手を優しく取る。
「行こうか? 銀盤の世界へ」
ちょうど、トラウマになっている出来事を思い出していた彼女は、ロペの手を振り払う。
「自分で歩けるかい?」
優しく声をかけてくれるが、小馬鹿にされたようで気分が悪い。しかも、ロペはスケート靴を履いて平然と歩いているのだ。
「歩けます」
ムッとした彼女は、ゆっくり歩み始めた。でも、土踏まずは別にして、足の裏がしっかりと平らなところに付いていないと不安になる。どちらの足も鋼鉄のロープを踏んで渡っているような場面を想像すると、怖くなる。
だが、これって、自分で自分を怖がらせているだけではないかと思えてきた。
気にしないで歩いてみようと彼女は決心する。すると、重心がかかるところに違和感があるが、歩けないことはない。こうして、リンクの端まで来ると、「そうそう。その調子」とロペが褒めてくれる。
でも、舞帷は、氷上に足を踏み出せない。熱湯風呂に足を入れるか入れまいか、迷っているかのように足をぷらぷらさせていると、彼女は背中に気配を感じた。
振り向くと間近にロペがいる。まさか、ここで彼が後ろから押さないだろうかと震えていると、彼は「怖くないから、踏み出してごらん」と優しく言った。
手すりにつかまって、ソッと両足を氷の上に乗せる。
(そうだ。思い出した……)
派手に転んだ恥ずかしさと悔しさから、唇を噛みしめ、最後の最後まで手すりにつかまって氷の上をすり足のようにして移動した。
もう二度と、あんな思いをしたくない。
――だったら、思い切って手すりから離れるしかない。
舞帷は、緊張のあまり、足に力が入る。だが、勇気を出して手すりから離れた。ちょっとは前に進んだが、カチコチの体はすぐに停止した。
「オッケー。氷の上に立てたね。じゃあ、ちょっと滑ってみようか」
背後からシューッと音がして、彼女の前にロペが立った。彼はフサフサの毛に覆われた両手を差し伸べて「握って」と言う。彼女が彼の手を握ると、自分より温かく感じられた。
「さあ、行くよ」
彼は、後ろ向きに滑り出した。彼女は引っ張られるままだったが、確実に滑っていく。
「ほら、滑るって怖くないでしょう? じゃあ、次は、片足ずつ交互に滑ってみよう」
舞帷は、今の状態で片足だけを上げるとどんなことが起きるか想像が付いた。なので、自然と体も移動させ、片足を上げてみた。
「そうそう。出来ているよ。うまいね。僕と同じリズムで動かしてごらん」
真似をしてみると、なんとなく出来た。舞帷は、思わず口元がほころぶ。
リンクは永遠に直線ではないので、どうしてもカーブする必要がある。その曲がり方のコツもロペから教わった彼女は、だんだん滑るのが楽しくなってきた。
でも、そこからが大変だった。
「じゃあ、一人で滑ってみようか」
ロペの補助がなくなった舞帷は、いきなり転倒し、それまでの自信を失いかけた。
だが、小学五年生だった頃の彼女とは違う。やれば出来るのではないかと思えてきたのだ。
彼女は立ち上がる。少し進んでは転ぶ。でも、立ち上がる。転んでも立ち上がる。
こうなると、転ぶことの恐怖心が薄れていく。姿勢や、体重の移動を間違えなければ、滑る距離が伸びるはずだと思えてくる。
「そうそう。出来てるよ。うまいね」
ロペの台詞はどこかワンパターンだと思えて、ちょっと笑いそうになる。途端に転倒する。気を引き締めて、再度滑り出す。
このおかげで、スケートリンクの端から端までの一直線を転ばすに滑ることが出来た。
「はい。合格ぅ!」
ロペが拍手をすると、ファンファーレが鳴って、「レベル2になりました。初級クラスに進めます」という文字が目の前に表示された。
続いて「Continue? YES/NO」の選択画面が出たので、彼女はNOを選択する。
◇◇◆◆◇◆◆◇◇
HMDとヘッドフォンを外した舞帷は、父親と姉に拍手で迎えられる。
「全部見てたの?」
「テレビで観てた」
「はずい」
「最後までクリアしたじゃない。やるね。うりうり」
姉に肘で軽く小突かれる彼女は、嬉しさを隠せない。しかし、たちまち、冷静なデバッガーと化した。
「いくつか、おかしな動きがある」
「私も画面で気づいた」
「それに、本当にこうやって未経験者に教えるの?」
これには父親は「シナリオの都合上、こうなっているところもあるが」と弁解する。
「なら、これは実際のトレーニングとは異なる部分がありますってクレジット入れた方がいい」
「入っているけど、目立つようにする」
舞帷はHMDを姉に差し出した。
「お姉ちゃん。やってみる?」
「やめとく。あっちの方でいい」
「なら、私、全部クリアするけど、いい?」
「おおおおおっ! その勇姿、しかと見届けよう!」
芽衣は、妹の肩をポンポンと叩いた。