1.2種類のVRゲーム
盤能 舞帷…………………主人公。中学二年生。料理以外は苦手で、自信が持てない女の子
盤能 芽衣…………………高校一年生。舞衣の姉。楽天家
盤能 牧男…………………舞衣と芽衣の父親。VRゲーム開発会社経営
アルセーヌ・ロペ…………ゲーム内の舞帷のコーチ。ウサギの頭を持つ
晩秋の夕刻。住宅街のとある一軒家の前で、ハンドベルを鳴らす魚屋のワゴン車が停まっていたが、今日も買い物客が現れず、排気音を大きく鳴らして去っていった。
その家の台所の窓越しにハンドベルの音と排気音を耳にしていた舞帷は、セーラー服の上からエプロンを着けて、後ろの紐の蝶結びを気にしつつ、二階へ駆け上がる。そして、夕飯を作るのを手伝ってもらうため、姉である芽衣の部屋の前に立ち、ドアを優しくノックした。
しかし、何度ノックしても返事がない。胸騒ぎを覚えた彼女は、ドアノブを慌てて回して、ドアを勢いよく開けた。しかし、部屋に一歩踏み込んだところで、不安を抱いた自分が馬鹿だったと呆れて、抑揚に乏しい話し方で問いかけた。
「お姉ちゃん……何してんの、それ」
無理もない。部屋の真ん中では、漆黒のHead Mounted Display――いわゆるHMD――とピンク色の密閉型ヘッドフォンを装着した姉が、セーラー服を着たまま、回転式の黒いデスクチェアに座ってクルクルと回転していたからだ。
回転速度が落ちた姉が、右足で床を横にキックして回転速度を復活させると、椅子の五つ足が床に踏ん張りきれずに少し動いて、銀色に輝く軸がキイイイイイッと金属音の悲鳴を上げる。
この回転中に忍び笑いをする姉が「フフッ」「フフフッ」「フフフフッ」と声を徐々に大きくしていくので、ついに姉は行っちゃったのかと背筋に冷たい物が走る舞帷だったが、『そんなはずはない』と気を取り直し、再度声をかける。
「お姉ちゃん。何してん――」
しかし、彼女は、回転が止まって鼻歌でクラシックのメロディーを歌いだした姉に言葉を遮られた。姉は右手の人差し指を肩の高さまで上げて拍子を取り、完全に自分の世界に入っていることを体で表現する。上半身が時々揺れて椅子が少し回るので、椅子の軸が動物の鳴き声のようにキーキーと音を出す。
「おーい、戻ってこーい」
そう呼びかける舞帷だったが、一方で、この程度の声かけでは、ヘッドフォンの性能上、気づかないだろうと悟った。彼女は短めのため息をつくと、わざとドスドスと階下のリビングにも響くような足音を立てて姉に近づく。そして、ヘッドフォンに塞がった耳の穴に届くよう「お姉ちゃん!」と大声を出し、姉の左肩をつかんで二三度揺する。
「んー!?」
姉は、ヘッドフォンの音量に負けないように大きな返事を鼻から出し、ゴーグルを妹の方へ向ける。しかし、「あっ、これじゃ見えんか」と言って後頭部に手を回して、HMDを面倒くさそうに外した。
部屋の明かりが眩しいのか、別世界からいきなり帰還して戸惑っているのか、どっちとも取れる目つきで妹を見る姉に、舞帷は20秒前の言葉を再生する。
「お姉ちゃん……何してんの、それ」
この抑揚のない問いかけに、唖然とする妹の心情を察した芽衣は、恥ずかしさを隠すためにパッと花が咲いたような笑顔で取り繕う。
「あっ、これ? 父さんのVRゲーム」
「VRゲームなのはわかる。うちら、無給のデバッガーだから。で、何それ、今度のは」
「フィギュアスケート。新作の。あっ、企業秘密――」
「秘密なんて、言われなくてもわかる。この家、秘密だらけだし」
そう言いながら舞帷は、姉の頭のてっぺんからデスクチェアの5つ足までゆっくりと視線でなめ回す。こんなのでフィギュアスケートが出来るのかと思っているであろう妹の視線が痛い芽衣は、椅子から立って中腰のまま部屋の隅に移動し、大型の液晶画面の電源をオンにした。
真っ暗な画面が、一瞬にしてスケートリンクの光景を映し出す。どうやら、視点はスケートリンクの中、手すり付近に立った位置にあるようだ。
「これ、HMDとWi-Fiでつながっているの。見ててごらん。スピンするとどういう景色が見えるのか、HMDの映像がこのテレビ画面に映るから」
彼女はそう言いながら、器用に後ろ歩きして椅子に腰掛け、HMDを装着し始めた。舞帷は半眼になって、姉の後頭部にあるバンド付近に口を近づけた。
「目え回るだけじゃん」
「近い近い。もっと下がって」
頭に息が吹きかかって妹の接近を察知した芽衣は、右手を後ろへシッシッと振り、腰をちょっと浮かせて椅子に深く座り直す。
「アバター出すよ」
彼女がどういう操作をしたのかわからないが、テレビ画面の右半分が氷上に立つ彼女――もちろん、アバター――を映し出した。この直立するアバターが滑らかに回転し始めたが、周りの景色も回転するので、カメラがぐるりと回っている設定なのだろう。
顔も体型も、写真を撮って3D加工されたものらしく、実物と比較してよく似ている。短めの襟の付いた長袖のコスチュームは水色、シングルフレアスカートはピンク色、スケートシューズは白だ。髪の毛はぴったり頭部に張り付くほどまとまっていて、後ろで結わいた部分にはシュシュが付いている。コスチュームの背中にジッパーまで描写されている。
「可愛いでしょ?」
「まんまじゃん」
「どういう意味!?」
「まんまの意味」
「スパンコールがあると、きらびやかだったのに」
「描画が死ぬよ」
「ちゃんとインナー履いてるから」
「そんな情報いらない。早く滑ってみて」
「行くよ」
芽衣が少し前のめりになると、アバターを写していたカメラが引いて、アバターが滑り始めた。同時に、画面左の景色が頭の動きに合わせて軽く上下に揺れ、どんどんリンクの反対側の壁が近づいてくる。軽快なBGMも流れてくる。これがヘッドフォンから聞こえていたのだろう。
アバターがリンクの真ん中辺りに達したとき、彼女が椅子に座ったまま回転を始めた。予想通り、左の画面の景色が回転した。
一方で、右の画面のアバターは、上半身がリンクと平行になって右足をまっすぐ伸ばし、体全体がTの文字になった状態で回転し始めた。
「これが、キャメルスピン」
「キャラメル?」
「キャメル。ラクダよ」
「楽だよ?」
「動物の」
「ああ。……でも、コブないじゃん」
「でも、簡単でしょう?」
「簡単ねぇ……」
「何種類かスピンが出来るよ。他のも見る?」
「それより、目、回らないの?」
「回る」
「駄目じゃん。これ、VR酔いするよ」
「父さんに改善してもらおう」
「てか、根本から考え直した方がいいかも」
「それよりさ、これ、4回転ジャンプもできるよ。見る?」
「それよりさ、手伝ってくれない? 下」
「おおおおおっ。そんな時間か」
「父さん、今日早いって。だから、早く来て」
芽衣がHMDを外して立ち上がる。と、その時、二人のポケットの中でブルブルと鳴るものがあった。彼女たちはポケットからスマホを取り出して、メールをチェックする。
噂をすれば影がさす、ならぬ、メールが飛ぶ。彼女たちの父親のメールには、こう書かれていた。
『フルダイブのフィギュアスケートのVRゲームやりたい人、手を上げて』
スマホの画面を覗き込んでいた二人は、同時にゆっくりと頭を上げて、互いに顔を見合わせた。
実に2年ぶりのVRゲーム復帰です。
前回、中断しているので、今回は最後まで進めたいと思います。
応援のほどよろしくお願いいたします!