緑の靴
緑の靴を履いたのは、つい最近のことだ。
ある有名なブランド会社のもので、去年、流行したデザインらしい。商品名は忘れた。
履き心地は悪くなく、むしろ、前の靴よりも動きやすい。
前の靴は安物の軽い靴だった。これでも僕は成長期というもので、一、二年立てば靴が履けなくなっていた。どんどん身長が伸びていく僕を、可愛くなくなったと姉さんにたびたび文句を言われる。可愛くないと言うけれど、昔から姉さんはよく物をくれた。例えば、お茶の缶やお菓子の消しゴム、おもちゃのブロックの欠片やおはじき。用途不明のものばかりだったけれど、思いついたように何かをくれた。
その姉さんの気まぐれがでたのだろう。セール品だったからと、緑の靴を買ってきてくれた。お礼を言えば、中学を卒業するのだから靴ぐらい気を遣いなさいと小言が返ってきた。姉さん曰く、僕は物事に対して無頓着らしい。そのつもりはないが、せっかく買ってきてきれたのだ。貰えるものは貰っておこうと思う。
緑の靴は、安っぽいビニール袋の中に入っていた。全体を覆う緑に、ぐるりと靴を一周する白のライン。独特のゴムの匂いを漂わせながら、真新しい靴は蛍光灯の光をぺかぺかと反射させていた。靴紐があるものは結ぶのが面倒だからなるべく避けていたけれど、履き続けていると愛着を持つようになるのが人間の不思議なところである。
靴が足に馴染んできた頃、緑の靴に関心を持った奴がいた。
僕は誰かを覚えるのが苦手だ。名前と顔、そして、どういう人物であったかすぐに忘れてしまう。担任の教師の名前でさえ忘れてしまうのだ。クラスメイトと交流していても、誰かと特別に仲良くなりたいとか、彼女が欲しいとか考えたことはなかった。
だからだろうか。あいつが僕の靴に興味を持っても、僕はそいつに興味を持たなかった。いったいどういうやつなのか、知ろうという気も起きなかった。通り過ぎていく風景の一部にしか捉えていなかった。それなのに、そいつは僕に干渉をしてきた。
僕の靴を、勝手に触り始めたのだ。
ぺたぺたとべたべたと、躊躇いもなく触り始めた。気を抜くと知らない間に触っている。睨みつけてもやめることはしない。こいつの興味は緑の靴だけだ。僕のことなど、どうでもよいのだろう。爪の短い指がつま先をなで、ささむくれたその指で白のラインを辿る。かかとを掌で何度もこすり、足の甲の感触を指の腹で確認する。
あぁ、なんて鬱陶しいのだろう。
汚いその手で、僕の靴に勝手に触れて去っていく。興味も関心もない奴が、僕の許可なく視界に現れ、人の靴に触れていく。放っておいて欲しいのに、それすらもしてくれない。しだいに僕の中で、そいつの存在がむくむくと大きくなっていった。授業中や食事中、入浴中にも突然やってきて頭の中を占拠するようになった。本当に勝手なやつだ。
こういう場合、どうすればよいのだろう。考えた結果、手っ取り早い方法を思いついた。簡単なことである。そいつが靴に触れたくないと思ってしまえばいいのだ。
その方法を思いつくと、僕の気持ちは自然と晴れやかになった。数週間ぶりに、晴れ晴れとした気持ちで登校する。すっかり足に馴染んだ緑の靴を履いて、残り少ない中学校生活を送るために、緩やかな坂道を登っていく。
ふと、そこで足を止めた。せっかくよい気持ちだったのに、まただ。またあいつのせいで邪魔をされた。いつもなら、黙って睨みつけるだけで終わっていたけれど、今日は違う。今日は、こいつに嫌な目をあってもらうのだ。
ぺたぺたべたべたと触るその手を、僕は思いきり、踏みつけた。
そいつの手の甲を、ささくれた指を、骨ばった関節を、短い爪を、全て全て踏みつけて、容赦なく僕の体重をかける。そいつはぴくりともせずに、僕の足に、緑の靴に踏みつけられていた。好きならば、踏みつけられたって構わないだろう。むしろ、感謝して欲しいものだ。今まで好きなだけ触らせてあげていたのだから。
最後に踵でそいつの手を踏みつけたところで、僕の名前を呼ばれた。振り返ると、姉さんが自転車を押しながら坂道を登ってくる。そういえば、今日は大学の講義がないらしい。午後まで、中学校近くの喫茶店でバイトをすると言っていた。
「あんた、何しているの。遅刻するよ」
「あ、うん」
「何、踏みつぶしていたの」
姉さんは怪訝な顔で、僕の足元を見た。足元には亀裂が一本入っている。どこにでもあるコンクリートの小さなひび割れだ。ひび割れの中を一瞥してから、僕は顔を上げた。
「汚いものがいたから、つい」
「虫?」
「それと同じようなものだよ」
姉さんは興味がなさそうにふーんと返して、再び自転車を押していく。僕も隣に並んで歩いて行く。途中までは同じ道だ。夕方も喫茶店で働いているのなら顔をだそうかと言うと、来るなと返されてしまった。
「あんたさ、気に入っているの。その靴」
僕の顔を見ずに姉さんは言った。すぐに答えずに、一度振り返った。
先程の亀裂のあった場所から、あいつがこちらを見ていた。見るといっても、そもそもあいつには目がない。鼻も耳ない。あるのは、手だけ。あの短い爪を持つ手が、亀裂から這いでてこちらをじっと窺っている。手の甲に僕の靴跡がくっきりついているようだ。赤く腫れたその手を確認してから、僕は答えた。
「そうだよ」
「そっか」
姉さんの横顔が笑ったように見えた。
僕も、笑った。