ハワイの思い出
気づけば僕の白いシャツは血まみれになっていた。
なぜこんなに意識がぼやっとしているのだろう、と一瞬考え込んでしまう。けれども僕は、ずっとこういう感じだった気がする。血がだらだらと流れ続けていた。
命の心配はないことを悟る。それは、鼻血だったからだ。なぜこのような状況に陥ったのか、不明瞭な記憶をたぐり寄せていく。自分の中にある感情の、まだ温かい部分をなぞってみる。
働きたくない、
働きたくない、
働きたくない。
それは今こうして流血していることと関係があるのか否か、いまいち判然としないが、僕という人間の中でそんな思いが強烈に渦巻いているのを感じて、途端に全身がお湯に浸かったような気だるさに包まれた。
ああ、何だかもう、面倒臭いなあ。
「どうするんですか」
ふと声がして、顔を上げる。お世辞にも美しいとは言えない女だった。思い出す。まさに彼女こそが僕に血を流させた張本人なのである。だんだん打擲の痛みも蘇ってきて、鼻血を出すに至った経緯はここまでくれば想像に難くなかった。いつものことだ。
「こんな生活、長くは続きません」
と返事を催促されて僕は、鼻孔にティッシュを詰めながら、とりあえずの答えを返した。
そうかな、多くを望まなければ結構、何とかなると思うよ。むしろ望んではいけないんだ。身の丈というものがあるね。僕たちのような人間が、正式に幸せになろうとしたら、ネットの奴らに叩かれるだろ。
「あなたはいつもそうやって、する意味のない話ばっかりです」
そうかな。
「二度と繋がらないネットのことなんか気にしてどうするんですか」
そうか、そうだ。うん、そう、その通りだね。僕たちは小狡い手段で生き延びようとしてたんだ。ネットの奴らが一番嫌う行為だよ。他人が得をしていることが我慢ならないのさ。
「あなたは働くこともできませんし」
きちがいスーパーマンだからね僕は。ネットの奴らは、いや、まともな人間はみんなきちがいが大嫌い。そして一時的に変身解除するための医療費すら負担してもらえなくなった今、めでたく僕たちは揃って最重要危険人物に格上げってわけだ。
「わたしは別に危険じゃないです」
そうだったね。おめでとう。
「どうするんですか」
うーん。危険人物らしく、人を殺そうか。
「嫌。わたし、誰かが死ぬところを見たくないです」
きみはそういうの苦手なんだもんね。
「はい」
懐かしいな。覚えてる? 初めてきみが僕の部屋へ遊びにきたときのこと。内容を教えずにグチャドロのスプラッタ映画見せたらさ、悪趣味、とか信じられない、とか言ってた。
「忘れるわけないじゃないですか。あれのせいで今でもわたし自分の死に様を想像してしまうんですよ。借金取りのやつらが散弾銃持って乗り込んできて、自分の頭が風船みたいに弾ける夢をよく見ます」
はは、おもしろいね。
「何がおもしろいんですか」
やっぱりそうか、覚えてるか。ほんの数年前のことだもんな。うわ、当時はまだ家にDVDの再生環境があったのか。数年でこうなるってのもすごい話だ。あの日見たきみの泣き顔が可愛かった。まあ数年後には嫌というほど毎日毎日そればっかり見る羽目になるわけだが。
「何ですかその言い方。あなたのせいじゃないですか」
僕のせいだね。きみにもちょっとは、いや結構な量の責任があると思うけど、これは言わないでおこう。
「言ってます」
しまった。
「わたしの頭がおかしくなったのと、仕事をクビになったのはあなたのせいですよ。あなたが働かないから」
しょうがないだろ。僕はスーパーマンなんだから。社会から働かないでくれって念押しされてるんだから。男娼にもなれないんじゃ手の打ちようがない。
「不能ですもんね」
うるさいな。ちょっと笑ったな、今。
――
鼻血は止まっていた。
部屋の壁の、先ほどまで包丁が突き刺さっていた穴をじっと見つめてみる。ふとそれが自分の胸に刺さるところを想像した。脚や腕に切り傷をつけられたことは何度かある。でも、心臓を貫かれるのはまた特別に痛いんだろうな。
いつか、このアパートからも追い出されることだろう。いろいろな思い出がここにはある。といっても、直接それが染みついている家財道具がだいぶ減ってしまったせいで、ちょっと、すぐには思い出せないけれど。
「ねえ、由岐」
けれども、二人で並んで座るときは、いつもだいたい同じ位置に腰を下ろしていたから、こうしていると少しだけ感傷的な気分にならないでもない。
「僕は自分のこと、どうにもならなくなったら簡単に死を選べるくらい楽観的な人間だと思ってたよ」
「それは買い被りすぎじゃないですか。あなたはもっと、ずうっとくだらない人間です」
まったく予想通りの言葉が返ってきて、妙に安心した。ましてやこんな包丁は、僕のような男が死のうとする上で、一番使いにくい道具だろう。片付けようとしたが、億劫になってそのへんに投げておいた。とりあえず、彼女が手に取ろうとしてもぎりぎりで阻止できそうな位置に。
最後に本気で駄々をこねたり腹を立てたりしたのはいつだろう。彼女はいつだって怒ったような感じでいるけれど、その横で僕は何が起きてもまるで真剣になれない。何もそんなに騒がなくたっていいじゃないかと。
しかし彼女は怒る。長い髪を振り乱して。彼女自身も相手を充分に理解していて、ただ慰みのために怒っている。哀れだ。でも僕だって、彼女が怒ったり悲しんだりしているときに、彼女の望む形で向き合ってやれないことを、ちょっとは申し訳なく思っているんだ。
「あなたは、わたしが静かにしていたらしていたで、怒らせようとしてくるじゃないですか」
そうだっけ?
「前にわたしが、何を言われてもカッとならないよう頑張っていた時、いきなり『しかし、海の脅威を前にしても平常心でいられるかな』だとか言いながらサメを放ってきましたよね」
あったね、そんなこと。きみは悲鳴をあげて逃げ回ってた。散々暴れて部屋から追い出して、最終的に廊下で二つ隣のおばさんまで大騒ぎしてたのは申し訳なかったな。ああいう、恋人同士のノリに無関係な人間や、無関係な毒サメを巻き込むようなまねは、よくないと思う。
「毒あったんですね、あれ」
うん、噛まれたら死ぬね。反省してるよ。そもそも、どうやってサメなんか手に入れたんだったっけ? 買う余裕があるはずないから、釣ったんだと思うけど。にしても本当に、将来真っ暗だなあ。
いつも口先だけの駄目野郎と僕を罵っておきながら、彼女はこちらの言葉を適当に流そうとはしてくれない。それでも僕は下手なことを言いたくなる。
「今さら何を言ってるんですか」
人間は希望がなくなったとき死んで、希望を獲得しようとする情熱をなくしたとき再び死ぬ。生きる気力を失っても彼女は、まだ働こうと思えば働けはするだろうけれど、とっくに死んだ両親にさえ報告できないような仕事になるかもしれない。僕たちは共に無力である。
「将来どころじゃないです、すぐ目の前が、明日だってずうっと真っ黒に塗りつぶされてしまって。寝て起きたら、臓器が全部取り出されてるかもしれないのに」
それは困るなあ、臓器あっての僕なのに。
時計を確認しようとすると、可哀想に、ぶっ壊れていた。昨日彼女が僕を刺そうと暴れたとき、床に落ちて動かなくなったのだ。でも、推測するに朝の四時くらいだろうと思う。蛍光灯は消えている。この時間の室内のほの暗さが、僕はとても好きだった。
にしても何故、こんなことになったんだろうね。
「全部あなたのせいですよ」
このクズ、と彼女はやや大きい声を出す。これだから女ってやつは、どうしてそうすぐ後ろ向きな結論に繋げたがるんだろう。悲観的なのが偉いという価値観で生きているんだ、こういう女は。悲観的なら短絡的でも許されると思っている。
確かに僕はクズだ。働きたくない、尊厳を生け贄にしてまでお金なんか欲しくない、と言って一日中寝転がったり映画を見たり酒を飲んだりする生活を貪り、中身を置き去りにしたまま口だけ達者になったけれど人を楽しませるほどウィットに富めるわけでもなく、そうこうしているうち、名前付きの正式な型で精神が破損して本当に働けなくなってしまった。
しかしそれで問題を片付けてはいけない。僕はたぶん家庭環境とか少年期の諸々で、だいたい十五歳くらいまでには真人間とかけ離れた存在になっていたと思うけど、そんな奴は世の中きっといくらでもいる。どの間違いが即ち現状の要因、ってことじゃあない。蹉跌の可能性のある箇所すべてにおける選択がどれも最悪の形で不首尾に終わり、それが積み重なった結果こうなっているのだ。
なんだか余計に後ろ向きなことになってしまったな。今のなし。心のためには、クズだから失敗しました、くらいで放置しておくのが一番なのかもしれないね。ごめん、僕が間違ってました。
「何考えてるんですか? ねえ、今、何考えてるんですか?」
ここは話を逸らそう。
「きみがもし今後なんらかの形で、尊厳も人格もいよいよ破壊され尽くしてしまっても、名前だけはなくさないようにした方がいいよ」
言いながら、さっと彼女の手を取った。振り払われこそしなかったが、眉間にしわを寄せた表情からして、その行為が歓迎されていないということは分かった。
「由岐、って名前が、僕はとても好きなんだ。ゆき、って響きがとても柔らかくて、何度も口にしていると、心のきつい結び目がするするとほどけていくみたいな気がする。それに漢字も、理由の由に分岐の岐だろ。僕もきみも、一つ一つの分かれ道に、決意や、運命や、その選択、相応のいわれがあってここにいるんだ、ってことを考えさせられる。素敵だと思うよ」
すると彼女は仏頂面をして、いよいよ僕を殺そうとするときの目になった。手を封じているから包丁を握りこそしないけれど、何かよくないことを言ってしまったらしい。褒めたつもりだったのになあ。
「どうするんですか」
と無理やり話題を戻される。今日は逃がしてくれるつもりはないみたいだ。
どうしたらいいと思う、なんて訊き返してみるが、僕は働けない、彼女も働けない、部屋には何にもない、二人揃って頼れる人間は誰もいない。二人いるのに、一人が生きていけるだけの金もない。それは片割れが収入に貢献していないせいだけれど。
この話はどれだけ続けたところで永久にこちらが不利なままだし、ヒスとクズで建設的な意見なんか出てくるはずがないじゃないか。建設、建設っていうのは、土地がないとできないんだよ。あー。空中にお城が建てられるなら、もう少しいろいろなことが上手くいっていたかもな。何を言っているんだろう僕は。
一体いつから地面がなかったのかな。空を見上げて、高いところにある尊いものがどうしても欲しくて、取ろうとジャンプしようとしても、なぜか体がふわふわするばっかりで、そのとき初めて僕は、自分の足がどこにも着いていないことに気がついてしまった。
「奥さんと子どもと一緒に、お城で暮らすのが夢だったんだ」
そうなんですか、と興味なさげに相づちを打たれる。
「知ってる? オトナ帝国の逆襲って映画」
「しんちゃんもドラえもんも、あなたにうんざりするほど見せられました。お城で暮らすシーンなんて無いですよ」
あれを見るとね、家族を大切に思う、未来を信じる、そういうことが素晴らしいなって思えるんだ。家族は僕の希望の象徴だった。いや、きみも天涯孤独の身だから、僕たち二人にとってのアンビションと言ってもいいだろう。けれどもう無理だ。DVDデッキは奪われました。希望を獲得するための情熱がまったくありません。というわけで、えー、死にましょう。
「嫌です」
どうして?
「死ぬのが一番楽なのは、わたしも分かってます。一番楽な手段だけは絶対に選びたくないんです。それは逃げだから」
と、由岐が大まじめにそんなことを言うので、僕は思わず笑ってしまった。
「なにを笑ってるんですか」
きみはそうやって、身の程をわきまえないで、変に自分に厳しくする完璧主義的なところがあるよね。現実が見えていないというか。
「うるさい」
きっと大学時代には、だらしのない生活を送ってはいけないと思って、自分を律するべく一限目の講義ばかり時間割に書き込んで、結局毎日まったく起きられずに単位を落としたりしていたのだろうね。
「大学なんか出てません」
そうだね、きみはそういう人だと思うよ。
僕は、ふと思い出したことがあって、気だるい体に鞭打って立ち上がった。部屋のものはだいたい持って行かれてしまったけれど、希望でも情熱でもないがらくたが押し入れに残っていたはずだ。
「どこへ行くんですか?」
待ってて。ええと、おっ、ほら。
「バケツ、ですか」
漬け物樽かな。中は空だけど。こうして口に布を張らせて、ロープで縛るんだ。それで、これ。
「これは」
ベーゴマだよ。鉛で作った対戦型のコマ。布を張った漬け物樽は、床と言って戦場になる。回して投げ入れると、凹型になっている床の中央でコマがぶつかる。相手のコマをはじき出せば勝ち。
「ああ、なんだか見た覚えがあります。それで、これが何なんですか?」
白黒つけようじゃないか。
「え?」
僕たちが死ぬべきかどうか、こいつで決めよう、ってことさ。
「嫌ですよ」
もし僕が勝ったら、二人で一緒に死ぬ。きみが勝ったら、二人とも死ぬのはやめだ。
「引き分けの場合は?」
そうだな。きみだけ死ぬ、というのはどうだろう。
――
結び目の作ってあるひもを渡した。ベーゴマはたくさんある。ペチャという薄いコマが一番強いのだけれど、それは初心者には回しにくいから、そうでないものを選んでやる。
由岐にとっては人生初の遊びであるようだし、僕もずいぶんと久しぶりだったので、とりあえずは練習時間を設けることになった。自分がカンを取り戻す目的も兼ねつつ、彼女にコマの回し方を教えてやった。
「あ」
さっそく、ひもがほどけてしまった。ベーゴマは一般に想像されるコマと違って軸がなく円錐系であるから、確かにひもを巻くのに少しコツは必要なのだけれど、それにしたって彼女は不器用で、何度も何度も失敗を繰り返している。子どもに教えるみたいに、ほらこうだよ、ハイやってみて、と動作をトレースさせた。
けれどもなかなか上手くいかない。力をぐっと入れてきつく巻こうとしても、力を抜いてやさしく巻こうとしてもほどける。ちょうどよくやらなくてはいけない。ちょうどよく、というのは彼女の最も苦手するところである。
「何なんですか、これ」
次第にイライラしだす由岐。隣でへらへらする僕。仕方ないので、代わりにひもを巻いてやって、それからほどけないよう丁寧に手渡した。
続いて肝心の回し方を指導する。これは普通のコマと同じで、投げてひもを引くだけだ。しかし上手くいかない。やって見せてよ、と彼女は言うが、まだ口頭で伝えるだけでこちらは実践しない。なぜなら、ベーゴマは後から床に投げ入れる方が有利だから。
回すのに失敗するたび巻き直してやっていたが、やはり真面目な由岐はそのうち僕の助けを断りだす。そして、幾度もの試行錯誤の末、とうとう自分の力だけでひもを巻き終えた。子どものつかまり立ちを見ているようで微笑ましい。
「巻けました」
おめでとう。
「巻けたからなんだって言うんですか」
ほら、回す前から、そんなこと言わないでさ。回してみたら、メチャクチャ面白いかもしれないよ。
「だいたい想像つきます。コマ回しの楽しさなんて。もう今さら何かに新鮮な感動を抱くことはありえないと思います」
うん、それは禿同だね。
「禿同って?」
ああ、手首のスナップを利かせると実はうまくいかないから、そこは固くした方がいいかも。という的確かつ受け売りのアドバイスによって、由岐はとうとう床の上でコマを回すことにも成功する。
拍手した。純粋な労いのつもりで。しかし、きつく睨まれてしまう。おそらく彼女は、僕の行動すべてが自らを愚弄するものだと感じているのだろう。昔の由岐にもその気はあったが、ここまで無差別ではなかったはずだ。
ともあれ、ひとまず勝負の準備は整った。
などと思うのは愚か者だ。初心者への配慮という言い訳で弱いコマを渡しているから、普通にやっても負ける心配はないと思うが、この遊びはコマを改造してこそなのだ。
「改造? 面倒くさいんですね、いろいろ」
各々の工夫だよ、と告げた。とはいえシンプルなコマであり、出来ることなど限られている。一応、山の部分をやすりで削って形を変形させるのが基本だが、部屋にやすりなどない。適当なもので適当に削れば当然まともに回転しなくなる。道具なしでは難しい。
どうしようかと見回し、床に落ちていた包丁が目についた。その刃で試しにコマをがりがり擦ってみたところ、浅く切れ目が入った。その要領で縁を削ってやることにする。ギザギザにするとぶつかった際の攻撃力が増すのだ。
「…………」
不満げな無言を感じ、間が持たなくなる。
そういえば、きみは最近あまり自傷行為をしなくなったよね。と、刃物から連想したことを何となく口にした。見ていてつらいから自傷だけはやめてくれ、と常々言い続けているのだが、そのせいで逆にそれは、こちらにダメージを与えようとする彼女の通常攻撃手段となってしまっていたのだ。
僕の言葉に、由岐はコマを弄んでいた手を止め、また静かに顔色を変えた。そんな気力もなくしていただけです、今あなたの目の前で手首の一つでも切ってやりたい気分ですよ、ちょうどその包丁で、と彼女は憎らしげに吐き捨てる。地雷を踏んだか。僕は見えている地雷を踏むことに関しては天才的だなあ。
どうせリストカットするなら、手首以外にしなよ。いつもの流れに乗らないよう、僕は革新的なアドバイスをした。
「手首以外を切ってもリストカットになりませんよね」
そうかな? リストカットせざるをえない精神状態になって、もう手首を切っちゃうよってところまで行って、寸前でためらって、手首じゃなく、たとえば乳房を切れば、それは乳房をリストカットしたと言えるんじゃないかな。
「わたしはそうは思わないです」
じゃあ、乳房をリストカットできたからと言って、同じ方法で次は野菜を切りつけたら、それは野菜をリストカットしたって言えると思う?
「言えません。乳房をリストカットという言葉も成り立ちません」
うん、答えはノーだ。なんでかっていうと、野菜を切るのは自傷じゃないから。リストカットって言葉に、自分を傷つけるという意味が代入されているからこそ、乳房をリストカットなんて一見矛盾した行為が成り立つんだよ。
「成り立ちません」
でもこれは、自他の境界を明確に持っている利発的で一般的な人間の話。僕たちは違う。僕やきみの世界には、自分と、自分を隠し持った張りぼての他者しかいない。無機物も例外じゃないよ。野菜も当然、自己の延長だということになる。
「何を言っているか分かりません」
つまり僕たちは、野菜をリストカットすることができる選ばれし人間ってわけさ。極端な話、僕はこの場できみの首を掻き切ったあと、きみより可愛いステディな女の子をこの部屋に招き入れて、しかもその記憶を単なる哀れな自傷行為として喚起。恥ずべきそれを悲壮感たっぷりに打ち明け、同情して涙を流すその子の柔らかな肌に抱きすくめてもらう、なんて離れ業さえできてしまうのだ。できてしまうのだよ。
「今その包丁を奪ってあなたを滅多刺しにするとどうなるんでしょうか」
さて、そろそろ勝負を始めようか。
「今このひもであなたの首を絞めるとどうなるんでしょうか」
無用な挑発はルール違反だよ。
壊れてしまった時計の横で、僕たちはひたすらコマをぶつけあった。
由岐は僕が渡したコマを放り出し、ベーゴマの山の中から別の一つを選んだ。それは僕自身も存在を忘れていた、山がとても歪に削られた、重心がずれていることが見るに明らかな失敗作だ。へいへい、そんなもので俺様と渡り合おうと言うのかい、お笑い草だな、足が震えてるぜ腰抜けルーキー。
ちなみにベーゴマというスポーツにおいては、勝つと相手のコマを奪うことができるのだ。メンコなどにも見られる、友情が木っ端みじんに砕け散ること必至な、昔の遊び特有の巻き上げルールだ。
きみにはコマのストックがないから、俺様が一度でも勝ったら勝負続行不可能になる。その時点で完全に勝敗が決するというわけだ。こちらが勝ったときのことを覚えているかい。さあ、死を覚悟するんだな。
しかし俺様はコテンパンにされた。
形の歪さは回転の不規則性を生み、予想外の角度からの攻撃が僕のコマを次々と弾いた。やはり不器用な彼女は、こつを掴んできてもなお回すのに失敗することはあったが、そういうときに限って僕もとちってノーゲームになったり、たまに勝って奪い返せたとしても、いつの間にか僕よりずっと多くのコマが彼女の手元に移動していた。
「口ほどにもないですね」
こちらが手加減するような人間ではないことは、あちらも分かっている。徹底的に不利な条件をふっかけたあげく本気で負け越す僕に、心の底から侮ったような目を向けてくる。
どうだ、やってみると案外、楽しいだろう。
「正直なところ、楽しいです」
僕のコマは残り一個になってしまったわけだけど。
「それを奪えばわたしの勝ち、というわけですね」
生か死かの最終決戦だ。燃えるね。命は不可抗力的に奪われるか自分で終わらせるものだと諦めていたけれど、まさかこうして、闘いに命を賭けられるときが来るとは思ってもみなかったよ。
由岐が先入れだ。僕は彼女に続いて回し、それを弾き出せば勝ち。後入れが先入れより早く止まると負けだが、先入れが早く止まった場合はノーゲームになってしまう。つまり、後入れの勝利条件は全身全霊の攻撃によって相手を床から追い出す以外にない。
こちらが戦法を吟味しているあいだに、彼女はひもを巻き終え、威勢よくコマを投げた。
だが。
「あ」
僕と由岐の声が重なる。彼女の手からすっぽ抜けたコマは、床どころではなく空中を一直線に駆け抜け、窓ガラスを突き破って虚空へと落ちていった。
身を乗り出して確認してみるが、目視では落下地点が判別できない。拾いに行く気力もなかった。見ると、彼女は憮然としている。勝負の熱も一瞬で冷めたようで、現実に引き戻され、まさかこの状態からさらに負債が増えることになろうとは、といった顔だ。
なんだ今さら窓ガラスの一枚や二枚。これはね、借金取りに割られたと言えばいい、そうしたら大家さんも同情してくれるでしょう、大丈夫です、無問題、と慰みを口にしたらビンタが飛んできた。割ったのは自分なのにどういう神経をしているのだろう。とはいえ応急処置的に塞ぐ手段もなく、空いた穴からは風が吹き込んでくるので、それはあまりよろしくない。
はしゃいでいる大人たちが揃って我に返る、この瞬間ほど切ないものはないな。幼児が成長せずに歳だけ重ねてしまったような人間でも、やはり本当の意味で子どものままではいられないのだなあ、ということを考えさせられてしまうね。
「何を笑ってるんですか」
こうして、ベーゴマ大会はお開きとなった。
――
結局、あれだけ熱心にコマをぶつけあっておきながら、最終的な雌雄が決されることはなかった。黒星の数だけで言えばぼろ負けもいいところだが、あくまでも引き分け。
また二人で並んで座った。
由岐は遊びに熱中していた自分をかえりみての自己嫌悪か、ガラスを割ってしまったことによる脱力感か、妙におとなしくなってしまっていた。じっと体育座りをして壁を見つめている。
僕はと言えば、なぜだかとても死への意識が高くなっていた。いつもなら死は、同棲生活におけるあらゆる問題を先延ばしにするために用いる、いわば大きな音を出す爆竹のようなものでしかない。けれど今回は本当に、これは死ぬしかないぞ、という気持ちが生まれてきている。
ねえ由岐、引き分けの場合はきみだけ死ぬんだったよね。覚悟が決まらないのかな。なら手を繋いでいてあげる。それに、きみが死んだら僕も死ぬよ。だから、
「嫌なものは嫌です」
うん、死を拒むのは分かるよ。生物、というか遺伝子がそれを望むはずがない、未来行きの電車が脱線するようなものだからね。でも、これは自業自得という名の時限爆弾、つまり借金なんだよ。
「借金、ですか?」
そう、僕たちは現実から逃げてきたよね。現実逃避には二種類あって、いつか現実と向き合えるよう準備するためのものと、本当に全てを拒絶してしまうためのものだ。前者は程度の差こそあれ誰もが何らかの形でやっていることだけれど、僕たちが選んだのは後者で、これは言わば命の前借りだよ。最後には必ず、無様にみじめったらしく死ぬことで責任を取らなくちゃいけないやり方だったんだ。分かるだろ?
「分かりません」
そうだね、きみはそういう人だと思うよ。
「自業自得って、そんなの、妄想じゃないですか。いつもいつも、存在しない摂理に怯えてばかりで、あなたはまるでカルト宗教の信者ですよ」
僕は中学生女子だから、見えない敵が怖いんだよ。透明なルールがこの世にはたくさんあって、それは一般常識みたいなものとたびたび衝突するんだ。
あなたは中学生でも女子でもないですよ、と素人のようなことを言って由岐は嘆息した。それでゆっくり腰を上げたかと思えば、窓の方へ歩いていってしまう。せっかく自分で空けた覗き穴があるのに、彼女はガラス越しに外を眺めている。
「いつか言いましたよね。頭を使うのなんて馬鹿馬鹿しい、って」
何だそれは、ねつ造するなと思ったけれど、言われてみると確かに、そういうことを口にしたような気もする。でも、彼女がそんな何てことのない言葉を今でも覚えているというのは、何だか意外だった。
物事を良く受け取ることには際限がない。特に由岐のように自罰的なタイプは、楽観的で無責任な言葉を徹底的に遮断する。現実に即した形に直して嚥下するには、自分に備わっていない類の器用さが必要だと理解しているからだろう。つくづく、ちょうどよくが下手な女である。
でも、悪く受け取るのだって同じだ。なのにそちらは何もかも、馬鹿正直に真正面から受け止めてしまったりする。極端に後ろ向きに破綻した、人を傷つけるためだけに生み出されたような言葉を、まったく真を突いた見方であると思い込む。彼女の性格上最も不便なところだ。
そう、思っていた。
「頭を使って正解を選び取ろうとしているかぎり、いつまでもそこからは逃れられない。と、あなたは言ったんです」
卑劣なブーメラン攻撃を仕掛けてくる彼女。なるほど、本能も遺伝子も当たり前のように生を望んでいる。インターネットに悪口を書かれたからと自殺したがる犬はいない。死ぬ義務を負わされてしまったと泣きながら切腹する猫もいない。
「うん、そうだね」
由岐と知り合ったばかりのころ彼女は、誰の善意にも悪意にも過敏だった。当時まだ辛うじて人に共感する余裕のあった僕は、肥大化した他人にたいせつな中身を蹂躙されて傷ついて泣きそうな顔をしている彼女の姿に、イライラして、見ていられなくなってそんな話をしたのだと思う。
ある時期から僕の内面のほとんどは僕が望むとおりに変容してきて、その意味では進化なのだけれど、ともかく、いつの間にやら僕の善なる部分は損なわれ、それを彼女はちゃっかりとかすめ取っていたわけだ。
「頭を使わない人間の言葉を信じてついてきたせいで、きみはここにいるわけだから、正しいかどうかはだいぶ疑わしいけど」
由岐は体をひるがえし、僕の隣に戻ってきて、「違いますよ」と呟いた。
「あなたの場合ポジティブとか、ネガティブとかじゃないです。ただおちゃらけてるだけ。物事に真剣になるっていうのは、ちゃんと考えてみるってことだから、前向きに考える、後ろ向きに考える、ってことの一歩手前の段階にいるんですよ」
何のフォローにもなっていないので、僕は笑った。対照的に彼女はむすっとして見えたが、特に機嫌が悪いようでもない。僕のペースに巻き込まれまいとするときの顔だ。
「クズで自堕落で何も考えてない適当なあなたはともかく、わたしはそれなりに苦しんで、頑張って生きてきたのに、こんな場所で逃げるように最期を迎えるなんて、とても受け入れられません」
じゃあ、どういう最期ならきみは満足するんだい。もしかして、叶えたかった夢でもあるのかな。そう問いかけたとき、彼女が涙をこぼしていることに気がつく。見誤った。機嫌はだいぶ悪かったらしい。
「ないです。その日を生きるので精一杯だったから、未来のことなんて考える余裕なかったもの。強いて言うなら夢を見つけることが最初の目標で、それさえまだ達成されてません」
うん、きみらしいね。
「だから、まだ、死にたくなんてないんです!」
由岐はひときわ大きな声を出した。それから一瞬の間があって、彼女はしゃくりあげるように激しく泣きだした。こうなると一時休戦だ。ほとんど習慣的な行動として背中を撫でようとしたところ、ぱちんと手を払われてしまう。何を言っても無駄だろう。
こういう状態のとき、由岐は会話を中断したがっているわけではない。ただ心だけがついて行けずにいる。しばらく無言で待つ。そのあいだ僕は、なるべく空気に徹していた。
彼女が一人で立ち直るまでに十数分もかかっただろうか。やがていくらか冷静さを取り戻した彼女がまた耳を傾けだしたとき、でもさ、とやっぱり否定から入ってしまう僕だった。
実際、もう手の打ちようがないんじゃないかな。そりゃあ、こんなのが理想の終わり方なわけがないけど、これでも僕は結構、悪くない人生だったと思うよ。僕にしては頑張ったんじゃないかなって、わりあい真面目にそう感じてる。
由岐は顔を上げた。鼻をすすりながら「あなたは、本当に、カス人間ですからね」と真っ赤な目で睨みつけてくる。
うん、家族を持つのが夢だったんだけど、と会話再開。
「知ってます」
ある時点で、それを諦めたんだ。この世には、ただ人間の形をしているだけで人間でも何でもない、っていう奴がときどきいて、そいつらはまともな未来を掴めないんですけど、そしてそれはおまえなんですけど、って何だか自分自身を他人みたいに感じていたくらいの頃だ。たぶん死ぬまで孤独なんだ、って毎日考えてた。だから今、こうして目の前に人がいることだけでもたいへんな僥倖なんだよ。
「ひどい欺瞞です」
そうだね。
「じゃあ、どうするんですか」
未来ある若者が一時の情愛に惑わされて心中、ってのはあまり感心しないけれど、僕には未来が無いし。ちゃんと、最期まで走りきったじゃないか。
「あなたが走ってたことなんて一瞬も無い。それに、今ここで死ぬのも立派な途中放棄ですよ」
だけどほら、ロミオとジュリエットは、出会ったばかりでお互いを運命の相手と信じ込んで、最後には間抜けなすれ違いのせいで無意味に死んだだろ。あれは創作だから美しいお話になれているけれど、本人たちからすると本当に糞みたいな人生のアホみたいな最期だと僕は思う。それと比べたら、数年かけて慎重にお互いを知っていった僕たちはまだマシな、いや、むしろすごく尊い日々を過ごしてきたと言えるんじゃないのかな。
「良いように言わないでください」
良いように言うことを封じられてしまったら、僕はもうお手上げなんだけど。
「反論するのも馬鹿らしいですが、あの二人の死は、両家の争いに終止符を打ったじゃないですか」
偶然そうなったってだけだろう。僕たちの死だって、もしかしたら遠い国のどこかで起きてる戦争を止めるかもしれないよ。
「絶対にありえません。だいたい、架空の悲劇的な話のとりわけ悲劇的な部分と実際の人生を比較して何になるんですか」
何と比較したところで仕方ない、ってことを僕は言いたかったんだ。
「じゃあ普通に馬鹿みたいです」
それに、と彼女は言って、会話が一瞬途切れる。話題を巻き戻しているのだと思う。
「わたしたちは、お互いのことをまだ全然知らないと思います」
ううん。少なくとも僕は、きみがこの世で一番僕のことを分かってくれてる人間だと思うんだけど。
「他に誰もいないから、というだけでしょう」
うん、まあね。
「あなたはわたしのことを知らない」
知ってるよ。
「知らないです」
だいたいは、知ってる。
「知らないです」
きみは、あれだね。いろいろと難しく考えすぎてしまう性格だから、自分を、とても複雑怪奇で面倒くさい存在だと思い込んで、いつも頭を抱えているようだけれど、きみ自身でも覗けないような深淵なんて、最初から関係がないんじゃないかと僕は思うよ。
「はあ」
人は、大事なものを何かと内側にばかり位置づけようとするけれど、実は表にあらわれている部分だけが大切で、それこそがたぶん本質なんだ。きみはそこにかぎって見れば、これ以上なく単純で分かりやすい人だよ。なんて、こんなことを言ったら、この女はやっぱり機嫌を悪くするんだろうなあ。
「言ってます」
じゃあ、訊くけどさ、きみは僕のこと、恨んでる?
「当然です」
嫌い?
「嫌いです。本当はもっと優しくて、人のために涙を流してくれる、のび太くんみたいな恋人がほしかった」
ふうん、そうか。僕も、しずかちゃんみたいに若い女の子と一緒に住みたかったよ。
会話は上滑りしていく。言葉をかわしたり、意地悪く一方的にぶつけたり。そのようにして、どれほど堂々巡りを続けたか。この狭い部屋の外側には見えない敵ばかりがいるのに、見える人間も味方ではなかった。
今日はすこし喋りすぎた。頭がちょうどよく疲れて、何だか僕は、言わなくてはいけないのに言えずにいたことを、今なら口にできるかもしれないと思った。
僕たちは二人とも、人との適切な距離感をはかる能力が、産まれた時点でなのか成長過程においてか、とにかく欠落している。由岐とは不気味なほどお互いを侵しあってしまった。自傷をすれば相手も傷つく。僕たちは愛情を持たないにも関わらず、そんな現象を起こすことができるのだ。
まるで半身に話しかけるみたいにして、まどろむように不安定な頭で、心の底に沈んでいた言葉を吐き出していく。
……なあ、聞いてくれよ。未来とか希望とか、いつか見つかる夢だとか、そんなものあるはずがないじゃないか。僕やきみのような人が、新しく他の誰かを見つけることなどできるものか。この先もっと状況は厳しくなるぞ。悪いことは言わない、今、死んでおこうよ。お互い我慢して連れ添ってきて今さら僕だけが死ぬだなんて寂しいし、これ以上きみが生き続けて不幸になることを想像したくない、っていう気持ちもないとは言わない。
頭を使うなってあれ、撤回しておくよ。頭は必要以上に使わなくちゃいけない。あれは『子どもはそんなこと考えなくていいの』ってお母さんが我が子に諭すような意味合いの言葉なんだよ。きみは大人だ。大人は、現実を受け入れなくちゃいけない。
僕たちはもう、とっくに世界の部品ではなくなってしまったんだよ。どんなにぐるぐる回っても、何とも噛み合っていない歯車なので、ただその場で回るだけで、何も動かせはしない。何度も転んで血まみれになりながら、塔の周りをぐるぐる上っているつもりで、実は本当に騙し絵みたいな階段を回っているだけで、もちろん頂上を目指すことはできない
僕は座っていることができず、部屋を歩き回った。空転しているということですか。頭の中にそんな呟きがこだまする。由岐の声なのだけれど、背後に立つ彼女から現実に発されたものであるかの判断が難しい、妙な声色だった。まあ、そんなのは今どちらだって同じことだ。
ベーゴマを想像しただろう。でも違うよ。孤独に空転し続ける有様はまるでヨーヨーだ。あれくらい空しく回っている。最初から僕たちはぶつかりあってすらいない。気づいていただろ。きみが気づいていたことを僕は気づいていたよ。
他人は接触した時点で自分の延長になる。本当はこういう、相手を取り込むようなことは、もっとずっとお互いの心に踏み込んで、本気で想ったり求めたりし始めた時点で起こる現象なんだろうけど、そこは僕たち二人とも、極端で下手くそだからね。僕はきみの中にいる僕と話しているし、きみは僕の中にいるきみと話している。最初から一度も、本当の意味での会話なんてしていないのさ。
一気に言い終えると、僕はめずらしく興奮していて、そうだろう? と後ろを振り返った。
由岐が感情のない顔をして、包丁をこちらへ向けていた。
ああ、そうなってしまったかと、すこしだけ虚しい気持ちで彼女を見つめる。
――
「出て行ってください」
なんだか様子がおかしかった。いつもなら僕が気づいたときには飛びかかってきている。彼女が武器を手にするのは感情が急激に高ぶったときだからだ。その慣例から外れた態度がこちらに有事を予感させた。
絶対に出て行くものか、と思ったけれど、笑顔を作る。べつに刃物なんかで脅さなくたって、僕はきみが去れというのならそうするよと、ひとまずはそう言ったのだが、彼女の思惑はまるで違っていた。
「殺します」
安堵感すら覚える、聞き慣れた響きだ。
言うやいなや突進してきた彼女を、身を屈めてかわす。するとすかさず蹴りが飛んできて、もろに食らった僕は前のめりに倒れる。向き直ったところへ逆手の刃が振り下ろされた。避けきれないと判断し、掴んで止めた。右手で腕を押さえ、左手で拳を握る。
甘い同棲の日々は常に命がけではあったが、今回はことさらに危険な気配がした。激しい殺意を宿し、それでいて理性的に、まるで自傷行為のごとく。いつものようにただ暴れさせただけでは止まらない、と直感で理解できる。今の僕は、彼女が忌避する彼女の中のなにかと化していた。
欠けた窓から風が吹き込んでくる。衝動に任せた攻撃ではないためか、大して力がこもっていない。よほど油断しないかぎりこの状態から押し負けることはないだろう。
「どうして抵抗するんですか。あんなに死にたがっていたのに」
「殺されるのはごめんだ。だいたい僕を殺したら前科者になって、ゼロだった希望がマイナスになるよ」
「あなたが行方不明になって困る人間はいません。そうです。あなたは借金取りに殺されたんです」
「くそ、聡明な僕の言葉が意図せずヒントを授けてしまったようだな。けれどなぜ僕を殺す必要があるのかな。いや、いいや。言わずとも分かる」
僕は会話のうちに生まれた一瞬の隙をついて、由岐を突き飛ばした。紙のようだ。すかさず転がって距離を取った。出したままになっていた床から、ベーゴマをいくつか手にして立ち上がる。
「あっ、それ全部わたしのですよ」
うるさい、さえずるな。そもそも略奪に使ったコマからして全て僕のものなんだから所有権がそちらに移ることはありえないんだよ。
しばし睨み合いが続いた。さあっと音がして、にわかに雨が降り出した。窓を背にした華奢な体が薄暗い逆光に浮かぶ。手に提げた包丁も相まって、彼女の姿は鬼女を思わせた。
不意に、その刃身が稲妻のように閃いたかと思うと、由岐は姿勢を低くしつつ急接近してくる。
タックルだった。刃物を突き立てるのではなく、体勢を崩すのが目的のようだったので、真正面から受け止める。体重のない彼女の攻撃はとても軽く、取るに足らない。僕は吹っ飛んだ。
せめて栄養のある食事を取れていればこんなことには、と歯噛みしつつ立て直そうとするも、驚くほど素早い動作で刃物の切っ先が眼前に突きつけられ、ぴたりと動きが止まる。
もはや笑うことさえしない由岐の口から、
「あなたの内臓を残らず取り出します」
と耳を疑う猟奇的な台詞が放たれた。そんな、ご無体な。冗談にもならない。嫌に決まってるだろ、どうしてわざわざそんなことを。そう問うと彼女は、
「本当の意味であなたを、空っぽにしなければいけないような気がするんです。わたしを取り返すために」
などと意味不明な供述。
とはいえ実はさほどの危機感もない。なぜなら僕の本心は言葉とは違っていた。人の手によってもたらされる死そのものに、今さら嫌悪感などない。
ただ僕は今、彼女の一部としてにきびを潰すがごとく精算されようとしている。それは完全に取り込まれるということか、それとも追い出されるのか。どちらにせよ気にくわない。
「あなたみたいに惰弱な人間でも、やっぱり臓器は惜しいんですね。表にあらわれている部分だけが大切、なのでは?」
バカが。人体に表と裏どっちが大切もヘチマもあるか。内臓は要るに決まってんだろうが。
自分の体を親指でさした。これは、僕を僕たらしめている中身だぞ。何よりも大切だ。僕は今さら新しいものを手に入れたいとは思わないけれど、すでに持っているものを奪われるのだけは絶対に嫌だ。
それにしてもきみ、包丁で臓物を狙う仕草がなかなかさまになっているね。昔の男にでも同じことをしたのかい。
「わたし、精肉加工の仕事をしていたことがあるんです。すぐやめちゃいましたけど。この話は何度もしました」
そうだったね。もちろん覚えてるとも。
「狭い部屋で、動物の死体に囲まれて動物の死体を切るんです。ずっと立ちっぱなしで足が疲れるし、嫌だったのは、いつの間にか体のあちこちに肉の破片がくっついてるんですよ。髪は臭いもとれないし。包丁は、こんな家庭用のものとは比べものにならないくらい鋭くて、ちょっと間違って指が触れただけでも深く切れて、痛みも感じなくて、どくどく血が流れはじめたのをぼーっと見てるとき、もうわたしの血なのか豚の血なのかわからなくて、だんだん自分が大きな食肉の塊の一部みたいに思えてきて……」
ほら見たことか、人としての尊厳を完全にリムーブされてるじゃないか。だから労働はだめだと言うんだ。就労行為は今後、全面的に禁止だ! そんな僕の訴えを彼女は、最初から聞こえていないみたいに無視する。
「でもわたし、あなたを追い出したら、またあの仕事を始めようと思ってるんです」
ば、馬鹿な。やめなよ再就職なんて。分かった分かった僕が折れる。死ぬのが嫌なら、かまわない。二人でこの部屋でひたすら遊んで暮らそう。税金はごまかして家賃は待ってもらってもし水道が出なくなったらお互いの尿を口にして、いよいよ栄養失調で倒れるまでコマを回し続けよう。そして、今度こそ本当にどうにもならなくなったら、そのときまた死について考えようよ。それでいいじゃないか。
しかし、彼女はもはや言葉を返さなかった。ぐっと包丁が握り直されたのが分かる。これ以上の問答は必要ないというように、その口が真一文字に結ばれている。
戦うしかないみたいだね、ジュテームよ。
一歩後ずさると、一歩距離を詰めてきた。刃物のリーチは大したことがないとはいえ、この狭い室内で後手に回っては立て直すのが難しい。こちらが圧倒的に不利だ。
僕が忍者でなければの話だがな!
「っ」
手裏剣もといベーゴマを投げつけた。みごと彼女の右腕にヒットして、小さく呻き声が上がる。鉛の塊であるそれはまさに銃弾。わずかなダメージであっても、手足に蓄積させれば動きを大幅に鈍らせることができるのだ。
風のように移動しながら、床に投げるのと同じ要領でコマをシュートしていく。ほとんどが狙った場所から外れたりかわされたりした。また彼女も床に落ちたコマを拾って反撃してきた。なぜかそちらは多くが僕の体に当たった。
足を引きずりながら、僕たちは部屋の中心を挟んでぐるぐると回る。彼女の視線が僕から外されることはない。目を逸らせば殺される。
このまま体力の削り合いでは、こちらが先に倒れてしまう。作戦変更だ。目的を悟られないようゆっくりと機会を窺いながら、甘んじて、というか、かわすことができずにダメージを受け続けた。
そして数分後、いよいよ僕は仕掛ける。
チャンスは一度だ。このときばかりはほんのすこし真剣になり、比較的結構集中し、わりと全力でコマを投げた。狙いは由岐の胸のあたり。だが、狂戦士状態の彼女の人智を越えて研ぎ澄まされた反射神経が体を勢いよく弾き、それを難なく横に避けてしまった。
後逸したコマが窓ガラスの脆い部分を突き破る。
一瞬その音に気を取られた彼女に、すかさず当て身。これは上手く行って、包丁を奪い取ることに成功した。
この期に及んで部屋の破損を気にせずにはいられない、そんな臆病さが命取りとなったな。素早く窓を開け、包丁を投げ捨てた。どうだ、もう僕を殺すことはできまい。一回冷静になろう。今日はもう寝よう、ゆっくり寝よう。僕もあらためて考えて、ちゃんと行動してみるよ。
「働くんですか」
働くわけあるか。
由岐はしゃがみ込み、機械のような動作で包丁の代わりを拾い上げた。壊れた時計の、割れたガラスの破片だった。そんなゴミで僕に立ち向かおうとはいい度胸だ。
彼女はひたすら腕を振り回す。すぐに彼女の右手は血まみれになっていく。
僕は子どものころ、落ちていたビンの欠片をきれいだからと拾い上げ、気がつくと手が切り傷だらけになっていたことを思い出した。数少ない楽しい記憶だ。もし僕が死ねなかったとしたら、この部屋でこうして繰り広げられた手に汗握る恋人とのじゃれ合いも、幸せな思い出になるのだろうな。
不意に、足にじわりとした痛みが走った。ガラスを踏んでしまったのかと反射的に思った。だが見てみると、小さなサメが数匹、腿のあたりにがぶりと噛みついているのだった。
気づけば由岐はガラスを取り落とし、立ち尽くしてこちらを見つめている。驚くでもない。何かをあきらめたような、親の仇が崖から落ちていくのを見つめるような、やりきれなさを含んで冷たく据わった目だった。その急激な温度の低下には寒気を覚える。
二人して棒立ち。手足が動かせないことに気づいた。びちびちと部屋を小魚のごとく跳ね回るサメたちが、どういうわけか僕の体にだけ次々と噛みついてくる。そして、一度噛みついた個体は離れる気配がない。しだいに僕の全身が小サメに埋め尽くされていく。噛まれる痛み自体は思ったほどでもないが、単純にダメージを受けている面積が大きいため、苦痛はそれなりのものだった。
ねえ、きみは動けるのかい。
「動けますよ」
助けてくれないかな。このままだと内臓まで食べられてしまうよ。
「無職に命を乞う権利があると思いますか」
その件だけれど、ちょっとこっちをよく見てほしい。全身をサメに噛まれているため就職活動が非常に困難な状態なのだ。そう、ハンデを負った若者の社会復帰を支援して頂きたいのです。
「自業自得でしょう」
どういうこと?
「そのサメは以前、あなたが釣ってきたんですから」
嘘つけ。そう簡単にサメなんか釣れるかよ。ここはどうぶつの森か? でもそういえば、確かに僕が持ち込んだような記憶もあるよ。消去法で言っても、そんな気の利いたことをしそうな人間が僕しかいないものな。
「自分で蒔いたサメ、ってことです」
うわ、それ言おうとしたのに。まあいいや、苦は楽のサメとも言うしね。この状態ならきみは僕を殺そうとしない、ってことも分かった。耐えがたい痛みは続いているけれど、そのくらいの代償は甘んじて受け入れようじゃないか。
人格が変わるほどの深刻なダメージを経て、僕は生まれ変わる。輝かしい第二の人生を、今ここからスタートさせるのだ!
その時、視界がぐにゃりと歪んだ。激しいめまいと吐き気が起こって、僕はなすすべなく部屋の床に倒れ込んだ。ちょうどベーゴマが散らばっているあたりだったので、背中にまばらな打撃を受ける形となり、その鈍痛に呻き声をあげる。
何が起きた?もともと貧血気味のところに、血を失いすぎたか。いや、サメの牙は突き刺さったままなのに、卒倒しかかるほど流血するものだろうか。
ぼんやりと考えを巡らせている僕を見下ろし、由岐は悪戯っぽく言った。
「それ、毒ザメですよ」
納得せざるをえない。
首だけを動かすと、仰臥する僕の周りに散乱したベーゴマが、どうにも副葬品を思わせるのであった。
――
殺風景な部屋で目を覚ます。
意識のわずかな空白を挟み、なお感覚は保たれていた。
窓や時計がないせいで時間感覚が失われていることも手伝ってか、担がれているのかと思ったくらいだ。多少は頭に霞がかかったような感じもあったのだが、それは覚醒したてだからだとじき理解する。
「どう?」
ここはカメラで監視されており、入ってくる白衣の女性は僕が目覚めたことを把握している。
彼女は僕の面倒を見ている田崎という女だった。あからさまな悪意は感じさせないものの、周りにとってとんでもないことを平然とやってのけてしまいそうな、どこか不気味な物腰をしている。若く見えるが、それなりに歳がいっているのは雰囲気で分かる。
何だか苦手な、生理的不快感を催させる顔なので、話すときは俯くか頭頂部を見るようにしていた。視線をあえて上に向けるのは、彼女の胸が平均より大きく、その性的魅力に惹きつけられていると勘違いされるのが癪だったからだ。どうでもいいことだけれど。
「内容をどの程度、思い出せる?」
紙とペンを渡してきた。書け、ということなのだろう。記憶の度合いとは関係なく、順序立てての書き物自体が不得手なのだが、自分のための日記であるから取り立てて苦もなかった。
近寄ってきた田崎からは、相変わらず押しつけがましい女の匂いがする。特別に僕の嗅覚との相性が悪いのか、むせかえりそうなほどだ。そういえば、あの夢の中では匂いがしなかった。そのことを補足しておく。普段はどうだっただろうと考えたが、それは判然としない。
「僕を眠らせて、別室に運んだわけではないですよね」
ペンを走らせながら質問してみる。彼女は手を振って否定した。
夢の出来事だと思わせておいて、実際は疑似的に再現されたアパートの一室で、役者の女性と殺し合いをさせられたのではないか。そう疑ってしまうほどの体験だったというだけで、もちろんそれをする合理的な理由はない。
外見を似せただけの役者が、由岐の人格や行動をあの精度で再現することなど出来るはずがない。あれは間違いなく僕の頭の中に記憶されているままの彼女だ。
「正直、驚きました。本当に先ほど体験したことみたいです」
彼女の名前を褒めました、睨まれました、不思議でした、と綴っていく。これでは単なる夢日記だ。とにかく、意識が鮮明であったということを記録する必要があるはずだ。もっと些細な情報を記した方がいいだろうか。普通の夢で忘れてしまう部分はどんなところだろう、と思案するも、ピンとこない。
「明晰夢の感覚はあった?」
「いえ。はっきりとは」
「そう」
うまく行ったことを確認してか、田崎は機嫌が良さそうだ。僕は記憶に関する研究における実験体としてここへ来た。今回は、薬のデータを取る一環で夢を見てもらう必要がある、としか事前に説明されていない。
「どういうことなんですか」
「ま、簡単に言えば、夢に手を加える実験ね」
「それは分かっています」
「夢は普通、曖昧なものよね。目覚めた時点でほとんど忘れているし、残った記憶も、手に溜めた水が漏れるように、すーっと忘却されていく」
お母さんのように説明しはじめてくれる。
夢の中の出来事は、まるで現実の経験であるかのように知覚されているのに、覚醒と同時にその現実感は急速に薄れて失われる。そういったものの個人差について考えたことはなかったが、僕の経験でもそれはその通りだった。
「なぜ、映像として見ていたはずの夢をすぐに忘れてしまうのか。理由の一つ、眠りには周期がある。簡単に言えば浅い眠りと深い眠り。浅い眠りの時に人は夢を見るけれど、その記憶は定着せず、深い眠りのときに忘却するの。夢を比較的覚えているときと全く覚えていないときがあると思うけど、これは目覚めるタイミングによるということ」
「はあ」
「そして、二つ目として言われているのが、夢の情報は支離滅裂に過ぎるという点よ。記憶は生きるための道具。失敗や間違いが記憶されやすいのも、同じことを繰り返さないように。夢は現実からあまりに乖離している。そこでの出来事をいちいち覚えていたところで、生存活動における糧にはならない。脳の記憶を司る部分は、不必要と判断した情報をすぐ捨ててしまうわ。単純に、繋がりのおかしい情報は定着しにくいということもあるけどね」
なんとなく主旨が分かってきた。咳払いをして、田崎は続ける。
「じゃあ、眠りの周期を操作して、さらには夢の内容自体をどこまでも現実に近づけていくことができたとしたら、どうなると思う?」
ペンを止め、紙に走り書きした文字をあらためて最初から追ってみる。先ほど僕の見ていた夢は確かに、体感としての現実らしさ以前に、有機的な筋書きがあった。
「夢は記憶から形成されるわ。定着している記憶としていない記憶がごちゃごちゃに混ざることで、抽象的かつ支離滅裂な映像になるのね。けれどもし、その記憶のかけらが出来るかぎり具体的に破綻しない形で繋がるよう、人為的に操作することができれば」
夢の中での感覚を、脳の取捨選択によって希釈されることなく、鮮明なまま現実へと持ち越すことができる、というわけだ。言わんとすることは分かった。しかし、投薬だけでそのような現象が引き起こせるなどとは信じがたい。
挙手する。
「ハイ、質問があります」
おまえ僕の体に何かしただろう。と言いかけて引っ込め、「この実験は結局何がしたいんですか」と曖昧に訊いた。田崎は答えをためらうように唸った。そもそも、実験動物として無理やり参加させられている立場の僕に、何も教える必要などないはずなのだが。多弁が性格の問題なのか目的あってのものなのか判断しかねる。
「仮想現実、疑似体験、そのために本人の記憶や夢という既存のメカニズムを利用する。極限まで噛み砕いて言えばそういう話ね。あくまで目的のための過程に過ぎない検証だけれど」
そうして答えが返ってくると、逡巡さえもわざとらしく感じ、デコイ的な情報を与えられている印象を受けた。それだけで不信感が膨らむ。何もかもが嘘臭い。しかし、僕は破顔しておく。
「それはすばらしいですね」
手を打つ。
「僕は昔、死ぬことばかり考えてたんです。気がついたら未来がなくなっちゃってたし、やり直すには死ぬしかないから。死ぬのはやっぱり怖かったですね、ましてや今は一人だし。でも、そうか、仮想現実っていう逃げ道があったな。すごいな」
指を突きつけると、機械的に手で払われた。女の人を指でささない、とお説教をくらう。僕は礼儀を知らないわけではなく、それを行動に反映する機構が役に立っていないだけなので、いくら言い聞かされても無駄なのだ。構わず喋り続ける。
「もともと社会とか大して重要じゃないんですよ、なんかおかしいと思ってた。現実逃避って言葉にも、当然のように現実は尊重すべきという前提がありますけど、おかしい。こんな、肉体のおまけに仕方なく存在しているものが尊いだなんて、単なる思い込みでしかない」
いつか由岐に話したのと逆のことを言っているという自覚はあった。
「ネットゲーム中毒のような台詞ねえ」
「登場人物は全員NPCですけど」
区別がつくか否かは問題ではない。むしろ区別をつけずに済む世界として完成させることを、どうせならば目指してほしいと思う。僕の精神はそれに耐えうる気がするのだ。
彼女は渋い顔を作ってみせた。
「今の時代、誰も明るい未来なんてものを信じてはいないからね。誰もが現実から目を逸らすための道具だけを求めてる、って感じ。でも、逃げ出すことはできないから。植物人間だって誰かが横で管理してなきゃ死体になるし、SFのように知性が肉体を捨てるというのも、結局は社会の中での話だと私は思うのよね」
一通り夢の内容を書き終え、紙とペンをまとめて田崎に返した。彼女は文字に目を走らせはじめる。思わず嘆息した。殺風景すぎる部屋で手持ちぶさたになり、空中に視線を泳がせた。
普通の人間ならば、そうなのだろう。本当は、どんなに生々しくても夢は夢で、覚めたとき虚しくなければならないはずなのだ。だが、僕は特別である。
僕にとってはそもそも現実の人間もみんなNPCみたいなものだ。そういうハンデを負っているのだ、というふうに理解してきた。一般的な価値観からしたら絶望的なことであるのかもしれないが、僕はそのような自分自身をいつしか、これ以上なく前向きな形で受け入れていた。
「うん、協力ありがとう」
田崎は夢日記を、とても細部まで把握したとは思えない速度で読み終えると、おもむろに顔を上げた。一段落ついたというように息を吐いてから、唐突に、信じられないことを口にした。
「じゃ、これから仕事だね」
「は? 今、働いたばかりじゃないですか」
「わけのわからないことを。寝てただけでしょ?」
僕はこの施設において、実験動物であると同時に働き手でもあった。体を休める時間を利用して人体実験に付き合わされるため、自由に動けることはほとんどない。寝起きだからということだけではないだろうが、今日は特に全身の虚脱感が酷かった。
ついて来て、と部屋のドアが開放される。
いや、おかしい、拒否します。ストライキだ。労働条件の改善を要求する。狂っているだろうこんなことは。得体の知れない薬を打たれて、しかも過酷な肉体労働をさせられて、これじゃまるで奴隷じゃないですか。
「奴隷よ。過酷といったって毎回、大した仕事じゃあないでしょう。あれだけ負債抱えてて内臓を奪われないだけありがたいと思いなさい。肉体を維持できなかったら、夢を見ることだってかなわないのよ」
僕にとっては過酷なんだ。いやだ、働きたくない。こっちは中学生女子なんだぞ。戦時中かここは。って似たようなものか。そうだ、田崎先生、ミニ四駆で遊びましょう。あれはスイッチを入れて、コース上に置いて手を離して発進させたら、あとは何にもしなくていいから、忙しい人たちのあいだで流行っているみたいですよ。
「本当にきみは、良い歳をした大人のわりに、子どもがするような遊びが好きなのね。昨日、読み物をあげたじゃない」
そう、その件もだ。思い出した。あの漫画はなんなんだ。可愛らしい女の子たちが学校で穏やかに何でもない触れ合いを繰り広げる、誰も傷つかない絵本のような作品だと思ったのに、実は主人公だけが現実を受け入れられないきちがいで、平和な日常はすべて妄想、本当は世界が滅びていました。なぜあんな意地悪をするんだ! 僕は感受性が豊かで繊細だから怖くて眠れなくなってしまった。優しい物語を読ませてください。
「現実逃避の中で現実逃避をするあたりが洒落ていると思ったのだけれど」
まあいいわ、と彼女はこちらの言葉を適当にかわしつつ、有無を言わさぬ力で腕を掴んで、僕を部屋から引っ張り出した。抵抗するとそのまま腕をひねられる。やめてください、わかりました、自分で歩きます、歩きますから。
僕の戦闘力は、栄養失調の死体そっくりな女と武器持ちでぎりぎり互角に渡り合える程度である。女とはいえ健康な大人を相手に、飛び道具もなしでかなうはずがないじゃないか。
やっと手を離してもらい、しぶしぶ田崎の後について廊下を移動していく。筋肉痛がひどく、歩くのにもそれなりの辛抱が要った。
どこまでも二人ぶんの足音だけが響く人気のない廊下だったが、途中で通りがかった部屋から突然、人の叫び声のようなものがした。そして僕は、その声の主のことが無性に気になってしまった。
思わず立ち止まって中を窺った。ドアの穴から内部を覗けるようになっているあたり、本当に動物扱いだなと思う。
部屋はやはり殺風景で、ここにもカメラがついていた。しかしベッドのないところが僕のいた部屋とは違う。代わりにイスがあって、中央で男が一人、何やらわめき散らしながら暴れていた。
「あれは精神異常者ですか」
僕がこう訊いたのは、この施設全体がきちがいの隔離病棟のような雰囲気をまとっているからだった。
「いえ、彼はきみよりも精神的には健康な人間よ。同じく実験に付き合ってもらってるの。彼の視界には憎むべき敵が焼き付いていて、それと喧嘩してる。起きながらにして夢を見ている、白昼夢の状態ね」
否定から入ったために、一瞬もっともらしいことを言ったようにも感じた。だが白昼夢とはすなわち幻覚であり、まるっきり人為的に異常者を作ったのだという意味に他ならなかった。
「部屋の景色もまるで違うものに見えてる。といっても、たとえばホログラムのベッドで実際に高さを得ることなんかできるはずもないから、寝転がろうとしたら床に頭をぶつけてしまうし。うっかり監視の目を外しているあいだに死ぬかもしれない。なかなか悠々自適な仮想生活とはいかないわね」
ほとんど他人事のように言う。
「全部が幻なら、培養液に脳を浮かべているのと変わらないじゃないですか」
田崎はこちらを見て、「そうではないのよ」と言った。その時、ドアを内側から激しく殴りつけたような音がして、僕は心臓を鷲掴みにされた心地になり、思わずその場から飛びのいた。
興味にかられて再び中を覗くと、男と目が合ってしまい、息を呑む。だがそれも一瞬で、彼の視線は見えない敵を追って明後日の方向へ逸らされた。観察するにどうやら、先ほど部屋に置いてあったイスを持ち上げ、ドアの方向へ向かって投げつけたらしい。
「現実をゲームやドラマに置き換えて、主人公になったつもりで乗り切る。そんな映画があったわね。きみにもそういう経験、あるんじゃないかしら」
「は?」
「この技術が完成すると、たとえば美女のために花束を運んでいるように思い込ませて、実際はレンガを運搬させたりもできる。全く違う景色を見せていれば、土を掘って埋める作業でさえも幸せなものになるはず。そんな多幸感に浸からせて肉体労働の苦痛を軽減する、というのが、一つの用途として提案されているの。脳みそだけでは労働力にならないでしょ?」
へえ素敵、ドラえもんみたいですね、とはならない。夢が膨らむだろうとでも言わんばかりに語っているが、脳をつついて強制的に笑わせ奴隷の精神的苦痛を遮断して生産効率を向上させる、というような非人道的ロボトミー技術に布をほんの一枚かけただけで、やっていることがそれと全く同じに思える。のび太君は未来の道具で幸せにはなれない。
もはや彼女の言葉の何が本当で何が嘘なのか、僕には判断することができない。幸せな物語という幻想を無理やり流し込まれながら労働に励むなど、それじゃあまるで、勤勉な社会人じゃないか。
さてお喋りはここまで、と田崎は歩き出した。僕もあわてて後をついていく。また今日も働かされる。記憶のアパートで恋人とじゃれ合っていた時の浮き立った気持ちは、いつの間にやらきれいさっぱり霧散していた。
嫌だ、働きたくない。
そうだ、ハワイに行きたい。いっそ幻覚でもいい。大きなサメの背中で、ひれを枕に眠らせてくれ。どうして僕の尊厳を無理やり剥ぎ取って、まるでそうしなければ生まれてきたことに最初から意味がないとでも言うように、社会のため活用してしまおうとするんだ。どうして、おとなしく楽しい夢だけを見させていてくれないんだ。
もしかして自分も最終的には、そのような虚しいマヌーサ労働を強制されることが、この施設においてすでに決定しているのではないか。
いや、もっと不吉な予感が頭をよぎった。
すこしのためらいはあった。だがおそるおそる、それを口にしてしまう。
「まさか、僕もとっくの昔に夢遊病患者になっているんじゃないですよね。今こうして視界に映っている日常の風景も、実際はまるっきり別のものだったりして」
その言葉で振り返った田崎の表情は、呆気にとられたようでもあり、感情が消え失せているようでもあった。無言で僕の顔を見つめていた。
やはり、訊いてはいけないことを訊いてしまったのだろうか。額に汗が流れる。気づけばあの男の叫び声が聞こえなくなっている。どこか嘘臭いリノリウムの廊下は、彼女の背後にどこまでも続いているように見えた。ひょっとすると、とうとう禁忌に触れてしまった僕は、この長い長い夢から覚めようとしているのかもしれない。
しばらくして、田崎の顔が突然くしゃっと歪んだ。
ぎょっとした。一体どうなってしまったのかと思った。だがよくよく窺ってみれば、どうやら彼女は笑ったのである。
「そんな幸福、手にする権利があると思う?」
小さな子どもに言い含めるように。
「せいぜい楽しかったころの記憶がこぼれ落ちてしまわないよう、慎重に生きていきなさい。今後、幸せを新たに知覚することなんて、きっと一生できないと思うから」
それだけ言って田崎は、また先を急ぎはじめてしまう。
憮然として、しばらくその場に立ち止まったまま、彼女の背中を見つめていた。
考えちゃいけないんです、何も考えちゃいけない、考えたらあかんのやで、ポジティブとかオプティミズムとか、そういうものですらなく、ただひたすら無になり、かぎりある未来に向かって、たまに悩んでいるふりだけしながら、元気にとことこ歩いていこう。
自分で自分にいろいろ言い聞かせた。
こうして僕は最強になった。