画竜点睛
典明と里美は品川駅の新幹線ホームにいた。昨夜はお互いにほぼ睡眠をとれていなかった。
また、二人は昨夜の事を思い出すと自然と言葉数が少なかった。
「里美、昨日は…」
「はい…柏木さんは休めましたか」
「正直ほぼ寝てないかな」
典明が苦笑いを浮かべていると、背後から肩を叩かれた。
「柏木さん、おはようございます。同じ電車だったんですね」
蛍子が智紀と別れてホームに降りると典明と里美の姿が見えた。蛍子は先ほど智紀に二人の事を託された事もあり、出来るだけ近くにと思い典明達に声をかけた。
「里美さんもおはよう。肩の痣は良くなった?」
「おはようございます。お陰様で良くなりました」
実際には痣は小さくはなったが消えては居なかった。
蛍子は智紀の事をどれくらい知っているのだろうか。里美は気になった。
「近江さんは荒井さんとは昔からお知り合いだったんですか?」
「彼とは大学時代からの付き合いよ」
「荒井さんて少し変わった方ですよね」
蛍子は里美の言わんとする事を理解していたが、敢えて受け流した。
「そうね、初対面の人に失礼な事を平気で言うような奴だからねえ。彼には手を焼かされてるわよ」
「確かにそうですね」
里美は期待した答えと違ったので、それ以上質問するのを諦めた。
新大阪行きの新幹線がホームに入って来た。蛍子は二人に特に変わった様子が無いのを確かめたので、
「私は七号車なので、また現地なりで」
というと会釈をして二人の元を離れた。
蛍子は、この気苦労はラーメンだけでは足りないな。と思っていた。
参道を抜けて、本殿前に出ると清音が智紀を待っていた。
智紀は清音に挨拶をすると菜摘を清音に紹介した。菜摘を見た清音は菜摘に起こっている事をある程度、理解していた。
「鬼かい、かなり強いね。中は準備出来ているけど、あんた一人で大丈夫かい」
「はい、何とかなると思います」
清音の俗に言う霊力的な物は智紀を遥かに凌ぐ物である。清音の助けがあればかなり楽にはなるだろうが智紀は、あまり家族を巻き込みたくはなかった。
智紀の返事を聞いた清音は、本殿の扉を開けて二人を中に入れた。
「事が終わるまでは誰も近付かないから、しっかりやりなさい」
智紀は「はい」とだけ返事をして、閉まる扉を見届けると、扉に一枚形代を貼り付けた。
「藤田さん、ではお座り下さい」
「これから何をするんですか?」
「貴女に巣食う鬼と戦うんですよ。今、貴女の中に居る鬼を滅さないと貴女が危険ですからね」
本殿中央に菜摘は座る。その周り、四方を注連縄が渡り、ろうそくが立てられている。
智紀は清音が既に用意してくれていた御幣を手に取ると、座る菜摘の頭上に数回振りかざした。
「藤田さん、あなたは誰かを憎いと最近思いましたよね」
「いえ、私は…」
「貴女の心の内を閉ざしては駄目ですよ。貴女は誰かを憎いと思い、誰かを取り戻したいと考えていたはず」
智紀は具体的な名前は言わなかった。菜摘自身の独白、認識、思考こそが般若との切り離しには必要だった。
「私は…私は…」
菜摘は言葉にする前に涙を流した。智紀に指摘され、里美の存在を憎いと思っていた事を醜いことだと感じていた。
「私は桐谷里美を憎いと感じていました。そして柏木典明を…」
自分が持っていた感情を言葉にすると涙が止まらなくなった。
智紀は菜摘の態度を見て安心した。菜摘は菜摘で苦しみ、自分の感情に戸惑い、それを醜い物と感じていたからだった。
「良かった。彼女の感情が般若を抑えてくれている。では、仕上げに入るとするか」
そう言うと護符を一枚取り出した。
「ご慈悲を、多紀理毘売命」
涙を流し、俯く菜摘の頭に護符を当てると菜摘はバタリと倒れこむ。と、同時にろうそくの火が一瞬大きくなり消えた。
どれだけの間か分からないが意識を失った菜摘が目を覚ました。
それに気が付いた智紀が声をかけた。
「藤田さん大丈夫ですか」
「私は、一体」
「もう大丈夫ですよ。あらかたは終わりましたから」
そういうと護符の貼り付いた般若の面を菜摘に見せた。
「貴女が心に抱えた思いが、この般若を生み出しました。この般若は貴女の知らないところで桐谷さんと柏木さんを襲っていました」
「そんなことが…」
「はい、でもあまり気に病まないで下さいね。貴女は桐谷さんを憎いと感じただけであって、それにはそれなりの理由も存在したはずです。それがたまたま鬼を作っただけですから」
確かに人を憎む事は正しい事では無いが、それは誰でもが持つ感情のひとつであるのも確かな事なのだ。
「それに藤田さん、般若は日本では嫉妬や恨みの代表的な鬼にされてますが、本来般若という言葉は智慧を表す言葉なんですよ。それは何かを悟った智慧。藤田さんご自身も何処かで分かっていたんですよ。自分が持った嫉妬心では彼を振り向かせる事も、桐谷さんを恨むのも筋違いだってことを」
「ごめんなさい」
菜摘はそれ以上言葉にできず、泣き崩れた。
「柏木さんが戻られたら、自分の気持ちを吐き出してぶつけて下さい。自分の心を見つめ、相手の心を理解しようとしてみて下さいね」
出張から戻った典明は、智紀に呼び出され渋谷の喫茶店にいた。
菜摘について何かの報告があるのだろうかと思っていた。約束の時間になっても智紀は現れなかった。その時間に現れたのは一人の女性だった。
「菜摘…」
菜摘は典明の向かいに座るとぎこちない笑顔をこぼした。
「なんでなの?何で里美と付き合ってる事を隠してたの」
菜摘は典明への未練を断ち切ろうと、自分の思いを典明にぶつけた…
「蛍子か、出張おつかれさま。この前言ってたラーメン、カレーじゃ駄目か?」
「カレーねえ、まあ美味しいって言うなら許すわよ」
「うちの近所に土曜日の昼間にしかカレーを出さない店があって、それが格段に美味いんだよ」
「智紀、ご馳走してくれるのは嬉しいけど、なんで私があんたのとこまで行かなきゃいけないの?迎えに来なさい!迎えに」
「やっぱり、注文が多いな蛍子は」
珈琲を飲み終えた智紀は煙草の火を消して、テーブルに出していた護符をしまうと席を立った。
外に出ると、夕立は止んでいた。
ここまでお付き合い頂きありがとうございます。
今回は能の葵上、源氏物語の第九帖を題材に作りました。拙い文章、内容にお付き合いくださり感謝です。