綿裏包針
午後八時、
人もまばらになった社内に菜摘はいた。責任者という立場もあり私情ばかりに囚われている訳にもいかず、部下からの連絡事項や指示に追われひと段落したところだった。
ふと典明の部署を見ると明かりはついているが典明の姿は見当たらない。里美の姿もだった。
部署に残っていた顔見知りに声をかけた。
「お疲れ様、今日は柏木君は?」
「藤田さんお疲れ様です。柏木さん今日は上野店に行ってますよ」
「そっか、桐谷も一緒なのかしら」
「桐谷さんは体調が悪くて、早退しましたよ」
菜摘は安堵していた。確証も無い嫉妬心なのに、二人が一緒じゃないと聞いて安堵していた。
声を掛けられた男性社員は怪訝な顔で菜摘を見ていた。
「分かったわ、ありがとう」
「藤田さん大丈夫ですか?何だか疲れているみたいですが」
「大丈夫よ、お互いそろそろ帰らないとね」
菜摘はそういうと自分のデスクに戻り、パソコンを閉じて帰り支度を始めた。
明日も典明からは夕食は一緒に出来ないと言われていたから、不安そのものが無くなった訳では無いはずなのに今日の不安が排除されただけで、菜摘は安堵しているという、それだけ自分が精神的に追い込まれているという事には気がついていなかった。
「里美は早退か…」
菜摘はそう呟くと、自分でも気がつかなかったが笑みを浮かべていた。
里美の体調が戻らなければ、二人が一緒に出張する事は無い。
菜摘は心の何処かで里美の体調が悪化することを願っていた。
帰り支度を整えた菜摘は化粧室へと立ち寄った。
「えっ、何よこれ」
菜摘の顔は酷くやつれていた。他の社員に心配されるのも無理はなかった。元々、色白の菜摘なのだが、それは蒼白といったような、血色の無い顔だった。
自分に漂う悲愴感のようなものを受け入れたくはなかった。
「ガタ」
化粧室の奥で音がした。菜摘はそちらに振り向くが誰かが居る様子は無い。
とにかく早く帰って休まなければと鏡に向き直した時、菜摘は恐怖で硬直した。
「願い…聞き届け…」
耳元で囁かれてなお、掠れた小さな声は聞き取りにくかった。
菜摘は声が聞こえた方を向くが、勿論なにも居なかった。
菜摘は怖くなり、足早に会社を後にした。
「里美ちゃん、朝よ。体調はどう?」
里美はいつの間にか眠りについてしまっていた。
母親のドア越しに聞こえる声で目を覚ました。昨日の痣はどうなっているのか、見るのが怖かった。
それ以上に全身から虚脱感のようなものを感じて動くことが億劫で、起きることが出来なかった。
母親の問いに大丈夫と答えたものの、体は気怠く、今日は休みたいと思っていた。
ベッドから手を伸ばして鞄を取ると携帯電話を取り出した。
電話帳から会社の連絡先を検索すると、電話を掛けた。電話は会社の庶務課に繋がり、里美は病気の為に休む事を伝えると電話を枕元に置き、天井を見上げ某然としていた。
「明日には体調よくなるのかな」
里美は独り言を呟き、毛布に潜り込んだ。
里美の病欠を出社して知った典明は里美の携帯に電話をしたが、電話には出なかった。
明日からの出張は大丈夫なのか不安ではあったが今は安静にするのが良いだろうと思い、里美から折り返しの連絡が来るのを待つことにした。
典明より少し遅れて出社した菜摘は、昨夜の出来事が脳裏をよぎり出社を躊躇した。しかし、今朝は昨夜より顔色も悪くなく、菜摘は余り気にしないようにと思い出社した。
出社した菜摘は、やはり典明の事が気になり、典明のデスクの方を覗いてみた。
典明が居るのは分かったのだが、無意識に里美のデスクの方も見ていた。
里美の姿が無い。
菜摘は自分のデスクに戻るとパソコンを立ち上げた。
会社の業務管理ソフトには社員全員の出社状況が一覧になっていた。菜摘は里美の名前を探し、休暇になっているのを確認した。
このまま、明日も里美が体調を崩したままなら典明と出張に行く事はない。菜摘は願ってしまっていた。
いや、願ったのだ。それは、何処かで里美という存在が居なくなれば、自分は安心できる、典明を誰かに奪われる事もないという願望だった。
午前中の仕事を終えて典明は昼食に出ようとエレベーターホールに向かった。
エレベーターホールに向かいながら、里美の携帯電話を鳴らしてみたが、やはり里美は出なかった。
仕方なく電話を切り、エレベーターを待っていると菜摘が声を掛けて来た。
菜摘は典明が昼食に出ようと廊下を歩いているのを見かけて追い掛けていたのだ。
「お疲れ様、私もこれから昼食なんだけど一緒に食べれない?」
典明は悩んだ。里美の事が心配であり菜摘と一緒に食事をする気分では無かったが、断る理由も見つからない。
典明が返答に躊躇していると、典明の電話が鳴った。
画面を見ると里美の名前が表示されていたので、典明は菜摘に「すまん」と片手を挙げて少し離れて電話に出る。
「柏木さん、朝も電話に出れなくてすみません」
電話越しでも元気が無い事が伝わる。
「大丈夫か、里美。明日からの出張は無理しなくていいからな」
「すいません、何か足引っ張ってしまって…」
「足なんて引っ張ってないから、とにかく大事にしてろ」
「柏木さんに優しくしてもらえて嬉しいです」
「何言ってんだ、とにかくゆっくり休めよ」
里美は冗談めいた事を言っていたが、声に活力が無く典明は笑えなかった。
典明はとにかく里美の声が聞けて安心していた。
電話を終えて、菜摘が居た方を振り返ったが菜摘は居なかった。
さっきの「すまん」で食事を断念して出掛けたのだと典明は思っていた。
菜摘は聞いていたのだ。
典明が「里美」と呼ぶのを。
菜摘にさえ、社内では藤田さんと呼ぶ典明である。それは勿論他の女子社員においても典明は下の名前で呼ぶことは無い。
菜摘は確信した。それは憶測でも何でも無い、紛れのない事実。
その場に居ることが出来なかった。
エレベーターに飛び乗り、外へ出ると近くにある小さな神社の境内まで走った。
泣いている所なんて誰にも見られたく無かった。
境内のベンチに腰を掛けるとハンカチを取り出し、涙を拭った。
それでも涙が止まらなかった。
菜摘は典明と出会ってからの日々を思い返す。お互い部署が変わってからは、社内で話すことは減ったけれど、休日には人並みなデートをして、仕事の夜も夕食や二人の時間をできるだけ過ごしてきた。
菜摘は思った。
里美が居なければ。
典明の近くに里美が居なければ。
私達は今までのように続いていける。
「典明は誰にも渡したくない」
そう思い涙を拭う。
顔を上げた菜摘は目の前の雑木林に黒い人のような何かがいる事に気が付く。
「案ずるな、私が…」
昨日トイレで聞いたものと同じ声。菜摘は慌てて、聞きただす。
「あなたはいったい?」
返事は無かった。ただ黒い影から角の様な物が二つ見えただけだった。