曖昧模糊
智紀の家から約一キロ程離れた所に、智紀の実家はあった。
現在は長兄が宮司を務め、既に何代目かは忘れたが歴史のある神社である。
大通りに面した参道の入り口に自転車を置いた智紀はゆっくりと歩を進めた。
宮司である荒井家は自動車や徒歩も含めて参道以外に専用の入り口があるのだが、智紀はそこを通るのを嫌った。
学生時代から、末っ子という事もあり家には迷惑を掛けた記憶しかない。
二人の兄は真面目で頼れる存在だったからこそ智紀は、神社は二人に任せてしまえると思っていたし、高校卒業と同時に家を出たので、荒井家の門から家に入るのを遠慮していたといえる。
参道の石段を抜けて本殿の正面に出ると、拝礼をして、本殿の右手にある社務所に向かった。
社務所に入ると、祈祷受付の窓口を覗き込む。
「あら、智紀さん。どうしたの?」
「都さん御無沙汰してます。母さん居ますか?」
長兄の嫁、義姉の都が智紀に声を掛けた。
「お義母さま?今日は法話の日だから本殿じゃないかしら」
「ありがとう」
「智紀さん夕食は?食べていかれるの?」
「いえ、急ぐのでまた改めて」
「あら残念ねえ」
都は非常に残念そうな顔をしていた。智紀は都が苦手というか、そのおっとりとした雰囲気に弱かった。
あの堅物の長兄の妻は、こんな人じゃないと務まらないだろうなと感じていた。
社務所を出ると先程拝礼をした本殿に向かった。
本殿の正面ではなく、社務所から続く屋根付きの廊下を通り本殿の右手にある関係者入り口から本殿に入った。
「あら智紀、珍しいわね」
「母さん、お久しぶりです」
母の清音は夕方からの法話の準備に追われていた。
準備の手を休めて清音は智紀に話しかける。
「あんたが此処に顔を出すって事は、嫁でも連れて来たのかい?」
「いや違うんです」
「分かってるわよそんな事、どうせ何か取りに来たんでしょ」
清音は智紀の良き理解者であった。清音が荒井家の家系であり、婿養子で神主だった父や兄達は智紀のように霊的な感覚が鋭くなく、清音は智紀に近しい感覚の持ち主でもあったのだ。
智紀が戻ってくる時は神事についての事でしか戻らないのも清音は分かったいた。
「で、今回は何がいるんだい?」
「実は、比売神の…」
「あら、あんなのが必要なのかい」
そう言うと、清音は祭壇の裏手に回り何かを探しはじめた。
色々と木箱や何かを動かす音がした後に清音が出てきて、手に持っていた物を智紀に手渡した。
「他は大丈夫なのかい」
「はい、大丈夫です」
「多くは聞かないから、ちゃんと返しに来なさい」
母なりの気遣いと心配を含んだ言葉に智紀はやはりこの人にだけは頭が上がらないと思った。
清音は母親であるからこそ、智紀の事は分かっていた。小さい頃からやんちゃではあったが心根の優しさは人一倍である事、人の為に行動できる人間であるという事も。
「必ず返しに参ります」
智紀はそう言うと本殿を後にした。
典明は里美と会社に戻る前に菜摘へメールをした。
里美が早退する事もあり、菜摘を避けるというよりは仕事の行程を見直すと夕食を一緒に食べている時間が無いというのが現実だった。
メールを打ち終えると典明は里美に先に会社に戻るように伝え、書店に立ち寄った。
里美と一緒に社内に戻るのを菜摘に見られるのを後ろめたく感じているのと、里美の病状が気になり、少し調べたいと思っていたのだ。
体調不良と痣について因果関係があるような病状、症例は特に書かれていなかったので、典明は里美が言うように気が付かないうちにぶつけた物かもしれないと思い、会社へ戻る事にした。
メールを受け取った菜摘は取り乱した。
今日か、明日を逃せば典明は出張へ行ってしまう。
しかし自分の憶測だけで色々考えるのも、それを典明に言うのも何処か憚られる気がしたので強引に誘う事がどうしても出来なかった。
里美は会社に戻ると早退申請を出して帰り支度をはじめた。
木曜からの出張申請も同時に提出し、木曜からの出張は休めないので早く体調を戻さなくてはと決意を新たにし、会社を出ようとした。
その時、誰かに肩を掴まられる感覚があり後ろを振り向いた。
だが誰も居なかった。
気のせいか、やっぱり体調が悪いのかと思い、そそくさと家路についた。
里美の家は二子玉川から少し歩いた所にあり、娘の早い帰宅に母親が心配そうに声を掛ける。
「里美ちゃんどうしたの、今日は早いのね」
「うん、体調が悪くて早退してきたの」
「仕事が辛いの?無理しないでね」
「そんなんじゃないよ。仕事は順調だよ」
里美は母に、自室で休むことを伝え二階の自室へ入った。
化粧を落とさなくてはとか色々思っていたのだが、気が付かないうちにベッドにもたれかかったまま寝てしまっていた。
何時間眠りについたか分からないが、里美は肩に走る酷い激痛で目を覚ました。
寝ていた姿勢が悪く肩を痛めたのかもと思ったのだが朝の痣のこともあり、鏡で肩を見てみようと思った。
鏡に肩を出して見て、里美は震えが止まらなかった。
「なに、この痣」
朝に見た時は小さな痣だったのに、それは更に大きくなり、胸元まで広がろうとしていた。
そして、痣の中心は火傷のように皮膚がただれている。
しかし、先程のような痛みは一切感じない。それがまた不思議でならなかった。
里美はそれから言葉を発する事が出来ず、恐怖と不安からベッドに潜り込み丸くなるような姿勢で震えていた。
自分の身体に起こっている事を受け入れられず、何故こうなったのか原因についても思い当たることがなかった。
「さて、鬼の出処が誰かだが」
里美の状態を考えると里美自身が鬼を生んだ者という事は、最早考えられなかった。
そうなれば、里美が怨みや妬みの対象であり、そして、その感情が予想外に大きくなっている。
彼女を苦しめる鬼の存在、鬼を生み出した人間の心を解かない限り、鬼は更に大きくなり最悪は里美を取り憑き殺しかねない。
負の感情に具象化された鬼のような物の怪は、鬼そのものへ攻撃したとしても一時的な足止めにしかならない。
具象化させた人間の感情を解き放たなければ鬼は消え去らないのだ。
「原因を探りに行くか…」
智紀は悩んでいた。典明の会社に入り一人一人の感情を読み取るという事が出来るだろうか。
里美の状態を考えれば、既に大きな感情を生んでいるので難しい事では無いとも思えたが、会社に入り込む理由を作るのが面倒とも思えた。
智紀が珈琲を飲み、あれこれ考えていると電話が鳴った。
「さっきはお疲れ様、智紀、木曜からの現地打ち合わせは来る?」
「いや、それどころじゃないんだけどな」
木曜から蛍子は大阪現地で打ち合わせと言っていたな。ぐらいに思い出していた。
しかし、智紀としては里美を何とかしなくてはという事もあり、今は大阪へは行くべきでは無いと思っていた。
「会場の概要は資料にあるし、無理にという訳じゃないしね。たださっき確認したら柏木さんの所は、柏木さんと桐谷さんが現地に行くっていうから、現地で話を詰めるのに智紀も来れるならと思って声を掛けたのよ」
「桐谷さんも来るのか?」
「ええ、そう言ってたわよ」
「蛍子、俺も行くわ。新幹線と宿の手配を頼む」
「やっぱり桐谷さんの事が気になるの、ああいう若い子が好みとはね」
「そんなんじゃないっての」
「分かってるわよ、客に手を出すような人じゃないって事ぐらいは」
蛍子のからかいに電話越しに殴りたい衝動に駆られたが、智紀は里美から原因を探れる良い機会だと思った。
「じゃあ手配しておくから、新幹線の時間には遅れないでね」
「はいはい、気をつけますよ」
電話を切ると、智紀は大阪で里美に憑いた物の怪の解決の糸口が見つかればという思いと、それまで状況が悪化しない事を祈った。