神鬼遭逢
会議室に通された智紀は少し俯きながら気配を感じ取ろうとしていた。
そんな智紀の様子を見て、柏木典明は智紀に声を掛ける。
「荒井さん大丈夫ですか?体調でも悪いのでは?」
「あっ、大丈夫ですよ。お気になさらずに」
智紀は手で典明の言葉を制止ながら、周辺の雰囲気を察知しようとしていたが、会議室内からではフロアにその存在が「ある」という事ぐらいしか分からなかった。
智紀はまだその存在が小さな物である事を再確認出来たので、それ以上その事を考える事を止めた。
典明は今回、新規事業のPR企画を蛍子の会社に依頼し、それを智紀が請けた形になっていた。
一週間後に大阪で行うイベントについて典明が主旨説明をしていると、会議室の扉を叩く音がする。
扉が開くと一人の女性がコーヒーを三人分持って室内に入って来た。
「桐谷ありがとう。近江さん荒井さん、ご紹介します。今回のイベントの補助をしている桐谷です」
「桐谷です、宜しくお願いします」
里美は挨拶と同時に元気良く礼をした。
蛍子は初々しいその姿に笑顔になりながら「よろしくね」と里美に挨拶をした。
一方、智紀はというと挨拶には程遠いしかめっ面で里美を見ていた。
蛍子も典明も智紀が里美に挨拶をするのを待ったが、智紀はいっこうに挨拶をする気配がない。
里美も智紀がただ自分を見ている事にどうして良いのか分からずにいた。
「桐谷さん、最近怪我でもしましたか?」
挨拶ではない典明の言葉に里美は一瞬動転したが、
「怪我です…か…」
「はい、まあ何と無くそう思っただけなんですけどね」
「突然何を言い出すかと思えば、何と無くで挨拶もろくにしないなんて目も当てられないわよ智紀」
蛍子が智紀の態度に釘を刺す。
「いえ、いいんです。そういえば朝起きたら肩に痣があったんです」
「えっ?」
蛍子と典明は里美の言葉に動きを止めた。智紀はにやりと笑みを浮かべ、それ見た事かと蛍子を見た。
蛍子はたまたまでしょと言わんばかりに智紀を睨む。
「でも痛みがなかったので、すっかり忘れていました」
「痛みがない。桐谷さん、その痣見せてもらえませんか?」
「智紀、貴方どさくさに紛れてセクハラしてるんじゃないわよ」
「蛍子、俺はそういう意味で言ってるんじゃないんだが」
「じゃあどういう意味なのよ」
智紀は色々説明するのも面倒だと感じ、「冗談だよ」と自分の発言を撤回して、里美に改めて言い直した。
「桐谷さんの顔色が優れない気がしてね。もし痛みが出るようなら病院へ行った方がいいよ」
「はい、ありがとうございます。気に掛けておきます」
里美はそう言うと一礼して会議室を後にした。
里美が退室すると智紀は何食わぬ顔で典明に企画の概要を話すように促し、淡々と仕事の打ち合わせをはじめた。
「智紀のスイッチが入ったわね」
蛍子は安心した。マイペースで手を焼く事の多い智紀だが、仕事への集中力には全幅の信頼を寄せていた。
約二時間ほどの打ち合わせを終えて、智紀達が会社を出たのは午後の二時前だった。
「智紀、なんで彼女の怪我の事が分かったの?」
「男の勘てやつだよ」
「それを言うなら女の勘でしょ」
蛍子は、渋谷駅までの道程を自転車を押して歩く智紀と向かいながら、先程の会議室での一幕について智紀に聞いてみたのだが、智紀ははぐらかした。
「まあいいわ、仕事に穴を開けないのとクライアントに迷惑掛けないのと、期待以上の仕事をしてくれれば私は文句は無いわよ」
「相変わらず蛍子は注文が多い事で」
「私が言ってるのは社会人の基本みたいなものじゃないの!」
「とにかく、頼んだわよ」
蛍子はそう言うと横断歩道を足早に渡り、智紀に一度手を振ると渋谷駅の人混みに消えて行った。
それを見送った智紀は自転車に跨り、家路につこうと道玄坂を走っていると新しいラーメン店を見つけた。
ラーメンとカレーがあれば暮らせていけるんじゃないかと云う位に智紀は目がなかった。
智紀は自転車を止め、店内に入ると券売機にある「お勧め」と書かれた濃厚つけ麺を購入し席についた。
ラーメンが出てくる間も食事中も智紀は仕事の事ではなく里美の事を考えていたのだ。
あの会社に入った時に感じたのは確かに鬼の気配。
まだ微かな気配であった為、あまり気にするような事ではなかったのだが、里美に会った時にその考えを変えざる得ないという事。
肩についたという痣は、鬼に掴まれた物だろうと推測できた。
しかし、智紀は悩んでいた。
鬼とは、日本には古くから伝記、伝承に伝わる妖怪であり、悪いもの、怖いもの、恐ろしいものを表現した物とも言われている。
鬼の語源は、一説には隠「おぬ」という言葉が語源とされており、元々は目に見えない物、この世の物ではない事や様を表すとも考えられていた。
誰もが思い描く鬼は角があり、金棒を持ったあの鬼のイメージが強い。仏教的側面から捉えられたイメージが一因といえるのだが、実際の鬼とは人の心に棲む悪き感情の具象化だと智紀は考える。
人の妬みや僻みに歪が生まれ、そこへ物の怪としての鬼が生まれる。
妬みや僻みは人の持つ感情の一種である為、それによって鬼の気配が発生する事は少なくない。
ただ、多くの人はその感情を対象となる人物との和解や別の物事へ意識を向かわせる事で負の感情を増大はさせない。
故に鬼の気配も生まれては消えて行き、物の怪の類いにまではならないのであった。
智紀は、小さな鬼の気配は社内の誰が持つ、そういった感情が生んだものだと思っていた。
だが同時に桐谷里美の肩に出来た痣の事を聞き、もしかすると里美自身が鬼を生んだ人間の可能性があると考えていた。