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開巻劈頭

宜しければ御立ち読み下さい。

 ふと暗がりが広がる空から雨が落ちてきた。

 男は雨を避ける為に足早に駅からの坂道を登り、いつもの店に駆け込むと迷う事なく店の一番奥のテーブル席に腰を下ろす。


 いつものカレーと珈琲を頼み煙草に火をつけると、荒井智紀は料理が出てくるまでの間、テーブルに三枚の紙切れのような物を取り出す。

 紙切れをまじまじと眺めながら今日までの数日間の事を思い起こしていた。





「なんでなの?何で里美と付き合ってる事を隠してたの」


 目の前に座る男に女は、静かに、そして哀しく問い掛ける。


「すまない、隠してた訳じゃないんだ。ただ菜摘への気持ちはもう…」


「だったら言ってくれれば」


「それに里美と付き合う前から私に気持ちがないなら…」


  言葉に詰まり、言葉を失うように女は俯いた。

  彼女が飲み込んだ言葉の意味も含めて男も少し俯きながら、

「ごめん」とだけ発した。

  柏木典明は自責の念から、それ以上の言葉を藤田菜摘に伝える事が出来なかった。



 典明と菜摘は渋谷にあるベンチャー企業に同期で入社し、日々深夜まで新規プロジェクトの立ち上げなどで同じ時間を過ごす事が多かった。

 そんな中、仕事に打ち込む典明の姿に菜摘は惹かれ恋心を抱くようになっていた。


  菜摘は典明より三歳年上で少し長めの黒髪が特徴的で、容姿にせよ、振る舞いにせよ一般の女性より美しい部類であった。

 しかし内気な性格が災いしてか恋愛経験は多く無く自分から想いを伝えられずに居たのだが、典明が菜摘に告白することで二人の関係は同僚以上のものになった。


 仕事と恋愛の両立。

 お互いの気持ちも順調だと思っていた菜摘だったが二人の関係が少しずつ変わったと感じた。

 それは、半年前に中途入社してきた桐谷里美と典明が社員食堂に、


「相席」で昼食を摂っているのを見かけた時からだった。


「典明、今日里美とご飯一緒だったの?」


「ああ、たまたま席に空きが無くてね」


  典明と菜摘は、お互い余程な予定が無い限りは夕食を共にしていたので、菜摘は昼食の光景が気になり典明に聞いてみたのだった。


  「早番の昼食時間は混み合うのよね、私は早番の時は外に食べに出ちゃうんだ」


  菜摘は、典明の「席に空きが無くて」という言葉に微かな違和感を感じながら、

 その違和感を振り払うかのように、



  自分を納得させるかのようにしていた。



 だが、渋谷という立地もあり大半の社員が会社の社員食堂を利用せずにいる。

  その上、昼食時間は早番と遅番といった形で時間が分かれている為に社員食堂で相席になるような事はあまり考えられないのを菜摘は分かっていた。


  「里美は仕事に慣れたかしら?」


  「導入研修は菜摘が担当したんだっけ」


  「そうよ、何かあった?」

 

「いや、しっかり菜摘のDNAを受け継いでいる気がするよ」


  「それは、誉めて貰ってるのかしら…」


  「勿論さ、仕事の要領が良くて助かってるかな」


 典明はグラスに残ったビールを飲み干しながら菜摘に感謝の意とも取れる笑顔を見せる。


  「私たち、そろそろ一緒に暮らさない?」


 典明の笑顔に菜摘はつい自分が口にはしないであろう言葉を発していた。


 菜摘もあと半年も過ぎれば二十九歳になる。

 今まで結婚など意識した事がなかった菜摘だったが典明の妻になること、幸せな家庭を築くことを最近は考えるようになっていたのだ。


 勿論、今は心の何処かで里美を遠ざけたいと思っていたのかもしれない。


「考えとくよ」


 典明はそう言うと、本来伝えなければならない事を言えずにいる自分に後悔しながら会計伝票を手に取り菜摘に出ようと目で促す。

 菜摘は典明の返答に不安にならずにいられなかった。その不安が現実であることをまだ気が付かないまま、


 渋谷駅で二人は別れそれぞれの家路についた。





 その日、里美は寝付けずにいた。

 五月も初旬だというのに寝苦しい暑さと、昼間のことで目が冴えてしまっていた。


「桐谷のこと?そうだな、嫌いじゃないかな」


「本当ですか!柏木さん」


「何でそんな事を聞くんだ?俺が嫌な態度でもしてたかな?」


「いえっ違うんです。私、」


「ん?安心しろ桐谷、嫌いじゃないし寧ろ好きな方だよ」


「えっ…」


 里美は、典明の言葉に戸惑いながら、


「また一緒に、ご飯食べてもいいですか?」


「全然構わないよ、今度美味いランチでもいこうか?」


 典明は性格的に分け隔てない性分であり、社交性を伴っていた為こういった会話は普通に出来てしまう。

 菜摘は、男性への免疫が少なかった為に典明のその性格に惹かれたとも言える。


 ただ、不安そうに見つめながら話す里美に典明は異性としての里美を意識していたのは確かだった。


「あの…柏木さん」


「うん?なに?」


「私、柏木さんの事好きです」


 里美は入社当初から典明に密かに好意を寄せており、会話が出来る事や同じプロジェクトに参加できた事を素直に喜んだ。


「桐谷、俺よりいい男なんて社内に沢山いるぞ」


「私、柏木さんがいいんです。もし、柏木さんが迷惑じゃなければ…」


 少しの沈黙ののち、そして菜摘への気持ちが既に冷めている自分を再確認して典明は、


「桐谷みたいな子にそう思って貰えて嬉しいよ、俺も桐谷を好きだったよ」



 今思い返すと、昼食に社員食堂でそんな会話をした事を考えると里美は顔が赤くなりそうだった。

 それでも典明との昼食、会話を思い出すだけで胸の高鳴りを里美は感じてしまい寝付けないでいた。


 ベッドに入りながらも眠れない里美は、天井をぼんやりと見つめていたのだが、

 天井の右隅、窓の上の辺りに黒ずみのような何かが居るような気になった。


 意識をそちらに向けてみたが何も無かった。


「気のせいね、早く寝ないと明日も早いんだった」


 里美はそんな独り言をいいながら目を閉じると、不思議と眠りにつくことができた。



 里美は夢を見た。

 古ぼけた旅館の一室。

 そこに顔はぼやけて分からないが男性がいるのが分かる。

 その男性と何か会話をしているのだが里美には聞き取れない。

 そして、先ほど寝付く前にぼんやりと見えた黒ずんだシミのような物が男性の背後に現れ男性を飲み込んでいく。


 男性が壁に飲み込まれ、消えゆく手前で里美は目を覚ます。

 体は汗をかき不快感で堪らない感覚に里美は襲われた。

 不快感を伴ったまま時計へ目を向けると時計の針は七時五十分を指してる。


「えっ!目覚まし鳴らなかったのかな?遅刻しちゃう」


 と、先ほどの不快感など忘れて朝の支度に取り掛からねばならなった。

 早々に支度を整えなければとベッドから飛び起き、着替えをしようとした時に肩に出来た小さな痣に気が付いた。

 だが、出社時間の方が気になってしまいあまり気に留めずに出勤したのだった。





 荒井智紀は朝十時の少し前に目を覚ました。

 インスタントコーヒーを淹れると煙草に火をつけてひと息ついていると、電話が鳴る。


「はいはい出ますよ」


 智紀は電話に向かって喋ると受話器を取った。


「智紀!何してるのかしら?クライアントが待ってるのよ」


「すまん今起きたんだ、三十分だけ待ってくれ」


「何で貴方はそうも冷静なのかしら。仮にも私は元請けの、」


「喋ってる時間がもったいないぞ蛍子」


 智紀は相手の言葉を遮ると電話を切り、そそくさと支度を始める。

 愛用のデニムを履き、シャツを着込むと洗面所で歯磨きをしながら手櫛で髪の毛を整えて玄関を出る。


 フリーランスで販促企画の仕事をする智紀は、仕事を斡旋してくれる近江蛍子からクライアントとの顔合わせをセッティングされていたのだ。


 智紀の住まいから今日のクライアント先までは自転車で15分ほどだった。

 腕時計を覗き込んだ智紀はぽつりと


「きっかり三十分」


「きっかり三十分ね」


 クライアント先のエントランスで智紀を待ち構えていた蛍子は智紀の顔を見るなり、そう呟いた。


「だから言ったろ」


「遅刻したのにその態度には、ある意味関心するわよ」


 蛍子は肩をすくめ、厳しい目線で智紀を見る。


「仕事ができるクリエイターみたいだろ」


「はいはい、とにかくクライアントがお待ちよ。仕事ができるって所を見せて頂戴」


 蛍子は呆れ顔で答えエレベーターに智紀と乗り込み、目的階に向かう。

 目的階に着くと、見た感じ二十五、六歳の男性が二人を待っていた。


「お待たせして申し訳ありません。今回担当させて頂く荒井です」


 蛍子は男性に智紀を紹介すると、男性は智紀に名刺を差し出し、


「今回は宜しくお願いします。担当の柏木です」


「仕事が立て込んでしまって遅れてしまいました。荒井と申します」


 智紀は名刺を受け取りそう言うと、ちらりと蛍子を見る。

 蛍子はぎろりと智紀を見ていた。

 智紀は、さっと柏木に目線を向け直して名刺を渡す。

 一通りの挨拶を終えると柏木は、二人を社内に招き入れる。

 若い社員が目立つ社内は活気のある印象だったが、智紀は社内に「ある」異質な何かを感じていた。



「これは、鬼か…まだ小さいようだが」


 蛍子と柏木には聞き取れない程の小さな独り言であった。

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