魔女
学園の自由を基調とした方針は授業にも及んだ。学園は二十代前半までの兵士を保有している関係から、幼稚園から大学までの学校施設を備えている。そこでは全国で行われているのと同様の授業が実施されているが、これに出席しなければならないという規則はない。また兵士たちは戦闘技能だけを求められている関係上、成績に関係なく卒業できる。そのため授業に出るか出ないかは本人の気分次第なのだが、授業を受ける兵士たちは少なくない。それは彼らが自分の意志に関係なく徴募された事とも関係がある。
学園に所属する兵士たちの多くは十代である。徴募されるまでは、ごく普通の学生として生活していた者が多い。学校の授業というのは学園に存在する数少ない日常の名残なのである。学生として授業を受けている時、彼らは自分たちが兵士である事を忘れられる。たとえ卒業より戦死する確率の方が高いと知りながらも、あるいは二度と自分たちの知る日常へ帰る事はないと理解しているからこそ、彼らは授業を受けるのである。
俺も例に漏れず任務の無いときは学生として振る舞っていた。しかし自分の指揮した任務が終わってからはしばらく、戦死者を出した事が頭から離れず授業に集中出来なかった。仲間を自分のせいで失ったという罪悪感は、簡単にぬぐい去れるものではない。要するに落ち込んでいたのだ。アイリに出会ったのは、そんな時だった。
俺は授業をしている教室を避けて、待合室のベンチに腰掛けていた。すぐ横には任務を斡旋する窓口がある。そこでは緊急性のない任務を斡旋していた。任務内容が張り出される掲示板には、天魔が関わっていると思われる現象の調査であるとか、あるいは天魔が撤退した後に残された使役動物の駆除であるとか、そういう熟練者であれば少人数で用の足りるものばかりが並んでいる。待機中の兵士たちは掲示板から自分の力量にあった任務を見つけ、窓口で申請し、転移装置を使って現地まで飛ぶのである。任務には手当が付くので、自主的に行う場合が多い。
そうやって任務へと赴いていく兵士たちを横目に見ながら、俺は掲示板を眺め続けていた。任務を受けるつもりはなく、なぜそうしているのか自分でも分からない。そんな風に呆けていれば自然と物事が解決するのではないか、と期待していたのかもしれない。あまりにも長い時間、ベンチの置物と化していたせいで窓口の係員に訝しがられ始めた頃、一人の女が俺に目を付けて近づいてきた。
「貴方、フリーなのかしら」と、女は訊いてきた。この学園においてフリーという言葉が指す意味は二つあった。一つは暇なのか、もう一つは兵士たちが独自に組織した戦闘集団に所属していないのか、という意味である。
「クドウさんの戦闘集団に所属しているが、彼らを待っているわけじゃない」
その答えに対して女が見せた反応は「ふぅん」の一言だけだった。
集団に所属している人間は連携を高める目的から、集団内の仲間で任務に当たるのが普通である。つまり女への返答は、俺が無目的に待合室のベンチを占領しているという事実を余すところなく伝えていた。
「それじゃあ私の任務を手伝ってもらえる?」
女が親指で掲示板を示した。優雅な立ち振る舞いの女が、そういう仕草をするのは何とも奇妙に映る。俺は口の片端をわずかに上げて失笑をやり過ごしてから、女の言葉に頷いた。俺達は互いに自己紹介をしないまま窓口で手続きを済ませ、転移装置へと入る。
現地へ到着した時、まだ閉じられていないゲートを見て俺は度肝を抜かれた。ゲートは天魔達が我々の世界に侵攻する際に使用しているものである。窓口で取り扱っていた事から考えて、おそらく天魔は引き上げた後なのだろう。だがゲートが開いているという事は、いつ再侵攻があっても不思議ではないという事を意味している。互いに力量すら知らない者同士、もっと簡単な任務を選ぶのだろうと思っていた俺は、いきなりその予想を裏切られた。
女の不可解な行動は続いた。天魔と戦闘する際は、まずゲートを壊して増援を断ち、それから取り残された敵勢力を殲滅するのが定石となっている。しかしながら女はゲートを壊そうとはせず、周囲の地形を確認するばかりだった。代わりに俺が壊そうとすると、女が止める。
「まだ早いわ」
女の瞳には、自信の色が湛えられている。好奇心でついてきた俺は、女の言動に不気味さを覚え、早くも後悔し始めていた。
ゲートのある高台からは、無人の町並みが見えた。遠くには天使達が使う特殊な障壁を見ることができ、この地域で人命の略奪が行われた事を如実に語っていた。
本来、俺たちの任務はそういった地域を作らない事にあった。そういう空間が増えていけば当然ながら人間は減少していく。だが技術力の差によって侵略を受けてからしか対処できない現状では、天魔達の侵略を完璧に食い止めることなど出来ない。年を追うごとに天魔達の侵攻は激化の一途を辿り、それに反比例して世界人口の増加率は減少していく。その先にあるのは悪ければ絶滅、良くても文明程度の後退である。これを食い止めるために俺達は組織され、命を落としているはずだった。にも関わらず、こうして侵略の完了した地域は世界中に虫食いのように存在している。俺達のしている事に、本当に意味はあるのだろうか。ついそう考えてしまう。唯一確かな事は、そうして高台から無人の町を見下ろし、黄昏ているだけでは何も起きないという事である。
女の作戦はまもなく始まった。俺はそれまでクドウが率いる集団としか任務に出た事はなかったが、女のやり方がひどく個性的だというのはすぐに分かった。女の戦法は追い込みと待ち伏せだった。町の複雑な地形を使って、曲がり角などの死角から攻撃する手法である。これ自体はごく一般的な戦法だったが、これをたった二人で行うところに女の異常さが顕れていた。
女は索敵すらせずに作戦を開始したにも関わらず、どのような経路で追い込むかまで事前に計算していたようで、俺は何丁目何番地の何処に、どの様に隠れるかまで正確に指定された。そして女は当然の様に俺が待ち伏せている場所へ、一匹しかいない魔物を追い込むのである。
もしこれをクドウや俺が行うとしたら十人単位の部隊を動かす事になるだろう。さらに熟練していれば四、五人で実行することも出来るだろうが、いずれにせよ二人というのは到底考えられなかった。作戦を実行するのが人間である以上、失敗をする危険性は常につきまとっているのである。しかし作戦中、女がそんな心配をしている様子は微塵もない。作戦も順調に進んでいる。口を挟むような隙が見つからない以上、俺はインカムから矢継ぎ早に飛んでくる女の命令に従って、移動しては待ち伏せ、死角から攻撃しては移動するを繰り返すしかなかった。
本来、待ち伏せからの奇襲に成功した場合、追撃して即座に殲滅するのが普通だったが、女はこれを明確に禁じていた。理由を尋ねても女は教えてくれない。
「作戦が終わる時に、すべて分かるわ」
女はそう言うだけである。その時になると、もはや不気味という印象を超えて、いっそ恐怖を覚えるほどだった。この女が何を考えて作戦を実行しているのか全く分からない。もしかしたら順調に進んでいるように見えるこの作戦は、奇跡的な確率で成立しているだけであり、女の思惑通りに進んでいるわけではないのかもしれない。冷静さの裏側には自殺願望が隠れていて、俺は間抜けにもその手伝いをしてしまった哀れな被害者という事になるのではないか。そんな事をチラと考えてしまう。作戦が進行するにつれて俺はとんでもない女と任務に挑んでいるのかもしれないという思いを強くしていったが、結果から言うとその予想は当たらずとも遠からずと言えた。
女が何を考えているのかが判明したのは、本人が言ったように作戦が終わる時だった。魔物が障害物の多い市街を避けて、公園へと飛び出す。公園は周囲よりも一段低いところに作られていて、入り口はスロープ状のものが東西に一つずつしかない。そんな場所に事前に回り込んでいた俺が魔物の進路を妨げ、追ってきた女が退路に陣取ると、たった二人だけで魔物を包囲する事が出来た。魔物がそこから逃げようとするならば、いずれかを斥ける必要があったが、すでに度重なる攻撃で幾重にも傷を負っている魔物の動きは鈍い。一人でも十分に対応できるほど弱っていた。もし出入り口以外から逃げようとすれば、急勾配を登るしかない。俺達の攻撃を避けながらでは、実質的に不可能な行動だろう。
だがそこで俺は、女が失敗をした可能性がある事に気がついた。俺達は包囲を継続する関係上、出入り口から離れる事が出来ない。対して魔物は何か目的があって移動していたわけではなく、ただ天魔達が引き上げた後に取り残されただけに過ぎなかった。用があるのは俺達の方であって、魔物はこちらをどうにかする必要はない。ゲートが開いている限り、魔物はそこから活動に必要なエネルギーを提供されている。なんとすれば傷が癒えるまでの間、ずっと居座り続けたところで支障は無いだろう。それに対してこちらは食事も睡眠も必要であり、増援も交代要員も居なかった。実質的な劣勢である。
ただそれは女の気にするところではなかったらしい。しばらくすると、魔物は壁に向かって走り出した。そして巨躯に見合わぬ器用さで公園の構造物に上ったかと思うと、壁を飛び越えていってしまう。俺にはどう見ても女が失敗した様にしか見えなかった。だが当の女は落ち着き払った様子でそれを眺めている。逃がす事まで計算に入っていたと言わんばかりである。つまり包囲は決して最終目的では無かったのだ。だとすれば、これまで行ってきた作戦とは一体なんだったのか。
しばらくの間、俺が解答を求めて見つめていると、女が魔物の去った方を指差した。「見て」と促した先にはゲートが見える。魔物はそのゲートへ向けて逃げたのだ。その事に気がついた時、俺は女が何をしていたのかをようやく理解するに至った。
「逃がしたのか」
ゲートは、それが放つ淡い光の中に魔物を受け入れたかと思うと、独りでに消滅した。