ナカマ
「連絡をしていたL22地区大学の篠原と申しますが」
インターホンごしに篠原が来訪を告げると、すぐに施設の職員らしき女性がやって来た。
「お待ちしておりました。どうぞ」
柔らかな笑みを浮かべ、女性は篠原たちを中へと招き入れる。
「私はここの施設長をしております。神部ゆきと申します」
神部はそう言って、穏やかな微笑を浮かべた。とても優しそうな印象の人だと柑菜は思う。複雑な事情で施設にやって来た子供たちの面倒を献身的に見ていると、あんなマリア様のような穏やかな顔になるのだろうか……。
「突然の申し出ですみませんでした。ご迷惑ではなかったでしょうか?」
「いえ。こども基金の竹内さんのご紹介ですし。竹内さんにはいつもとてもお世話になっているんです。その竹内さんが、とても信頼できる良い教授だと」
「いやぁ……そんな……」
照れくさくなったのか、篠原は少し顔を赤くして頭をかいている。
こども基金の竹内というのは、孤児院の子供たちを支援するための募金を集める慈善団体で、集められた基金はここの子供たちが高校を卒業するまでの学費にあてられるのだという。
篠原は難民支援のNPOの主宰をしている関係で、こうした慈善団体にネットワークが広い。
今回の来訪は、この竹内を通じ、件の子供の親につながる情報があるかもしれないという理由を伝えてあったのだ。ただし、つながらない可能性も大いになるので、過度な期待はしないで欲しいとも伝えてある。
「智寛くんにはお客様があることを伝えてあります。私は席を外したほうが良いでしょうか?」
「そうですね。出来れば、私たちだけで話をさせていただけると」
「わかりました。ではお部屋を用意しておりますので、そこに智寛くんを連れて行きますね」
席をはずして欲しいという意思を伝えても、神部はいっこうに気を悪くしたり、不安を感じた様子はなさそうだった。
それだけ竹内という人物を信用し、ひいては篠原を信用しているということなのだろうか。
◇
「では、私はちょっと用事を済ませてきますね。智寛くん、お客さんにきちんとご挨拶してね」
智寛を部屋につれてくると、神部はすぐに扉を閉めて出て行った。
「こんにちは、智寛くん」
「……こんにちは」
年は12歳ぐらいだろうか。警戒した様子の子供の目が、篠原たちに向けられる。
「ぼくは篠原といいます。こっちのお姉さんは柑菜さん、こっちのお兄さんはイブくん」
「…………」
「智寛くんは、こことは違う世界からやって来たんだって?」
篠原の問いかけに、子供はずいぶん間を置いてから返事をした。
「……うん」
「そうか……大変だったね」
「おじさんたち……僕の話を信じるん?」
子供は怪訝そうな顔をして大人たちを見上げ、首をかしげた。
「実はね。このお兄さんとお姉さんも、たぶん智寛くんと同じ世界からやって来たみたいなんだよ」
「……え?」
篠原の言葉に、智寛は驚いたようにぱっと顔を上げた。
「神戸とか大阪ってわかるか?」
「わかる……」
「東京とか神奈川は?」
「わかるよ!」
智寛は嬉しそうに笑い、そしてすぐに目に涙をいっぱいためた。
柑菜は思わず跪き、その頭を優しく撫でてやる。
「ずっと一人で……大変だったね。でも、もう大丈夫だよ……」
「うんうん……」
「誰も信じれてくれなかったんだよね?病人扱いしたり、変な子だって言われたり……」
「うん……うん……」
智寛はこらえ切れなくなったように声を上げて泣き出し、柑菜に抱きついた。
あぁ……この子は帰りたいのだと、柑菜は思った。柑菜も帰りたい。本当は自分が泣き出したいのだと、智寛の背中を撫でてやりながら思った。
◇
滞在時間のほとんどは、智寛とイブと柑菜が、それぞれ自分たちのいた世界からこちらへ来た時の話をすることで費やされた。
智寛がこちらの世界へやって来たのは、約一年前のことなのだという。
母親と買い物に出かけ、そこで欲しかったおもちゃをねだろうと、おもちゃ売り場に駆け出したところでこの世界にやって来たらしい。
気がつけば周りの世界は一変していた。おもちゃ売り場などというものはなく、代わりに現れたのは役所のロビーだったのだという。
彼はそのまま役所の人間に引き渡され、この孤児院にやって来た。
最初は親が見つかるまでの間という話だったのだが、いつまで経っても親はやって来ない。
いつしか彼は、捨てられた子供という立場になり、周りから同情の目で見られるようになった。
最初のうちは何度も何度も加古川のショッピングセンターにあるおもちゃ売り場にいたのだと訴えた。けれども、『加古川』などという地名はこの世界に存在しなかった。
彼は自分の名前をきちんと伝えたけれども、その名前も戸籍にはないと言われた。
いつしか、彼のいうことを信用する大人はいなくなった。
智寛は幼いながらも、自分が自分の知る世界とはまったく別の世界へ紛れ込んでしまったことを理解した。
「お母ちゃんは、僕を捨てたりなんかしてへんのに……」
智寛はそう言って、また目に涙をいっぱいためた。
智寛にとって辛いのは、母親を悪く言われることだった。親が智寛を捨てたから、智寛はこの施設にいるのだと、周りの人間はそう思っている。
けれども、智寛はそうでないことをちゃんと知っている。きっと母親は自分のことを探しているだろう。泣きながら。
「お母さん……きっと今頃心配してるだろうね」
柑菜が言うと、智寛は涙をぬぐいながら頷いた。
「うん……絶対心配してるわ……」
柑菜とイブも、それぞれどうやってこの世界にやって来たのかを話す。二人の場合は同じ電車に乗り、同じ時間に同じ場所からこの世界へやって来たから、話はそれほど広がりはしなかった。
「考えてみたら、俺らって恵まれてたんかなぁ。たった一人でこんな世界にやって来たわけとちゃうからなぁ」
「そうね……」
「柑菜お姉ちゃんはどこに住んどったん?」
「私は南港って言ってわかるかな?大阪の南港」
「うん、インテックス大阪とかあるとこやんな?お母ちゃんに連れられていったことあるねん」
「そっかそっか」
「めっちゃ遠かったわ」
「そりゃあ、加古川からだったら遠いだろうなぁ」
柑菜は笑う。加古川といえば、大阪駅から新快速に乗っても2時間ちょっとかかるのではないだろうか。
「イブお兄ちゃんはどっから来たん?」
「俺は大阪市。西区やな。知ってるか?」
「うーん……何があるんやろ……」
「ドームがあるぐらいかなぁ」
「ドームは知ってる。お父ちゃんと一緒に野球観にいったことあるわ」
「甲子園のほうが近いやろ」
「なんかお父ちゃんが、会社の人にチケットもろたんやって。それで連れて行ってもらった」
得意げに言って、智寛は笑う。最初に警戒していたのが嘘みたいだ。今はすっかり子供らしい笑顔を取り戻している。
きっと、もともと我慢強い子なのだろうと柑菜は思う。明るく振舞うのは、柑菜たちに心配をかけまいとしているのかもしれない。
気がつけば、陽はずいぶんと傾き、窓から西日が差し込み始めていた。
「先生、そろそろ時間?」
柑菜が聞くと、篠原は頷いた。
「そろそろ戻らないと、今夜中には戻れないな……」
それを聞いた智寛が、とたんに悲しそうな顔をする。
「お姉ちゃんたち、また来てくれる?」
「うん、来るよ絶対」
「絶対来るわ。どうせ俺ら毎日暇してるし」
二人してそう答えると、智寛は安心したように笑った。
「絶対やで!約束!」
小指を差し出してきた智寛に、柑菜も小指を絡ませる。そして指きりげんまんをして、思い切り強く指を離した。智寛はイブにも指を差し出して、同じように指きりげんまんをする。
「約束……絶対に守ってや!」
施設から駅に向かう柑菜たちを、智寛は姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。
◇
それから三日後、T56地区こどもの家の神部から、篠原に連絡が来た。
智寛が突然、いなくなってしまったのだという。
電話を切った篠原は、深刻そうな顔をしている。
「智弘くんがいなくなったの?」
「いなくなるって……どこも行くとこなんかあらへんはずやのに……」
柑菜もイブも、顔色を失っていた。ついこの間会ったばかりの同胞。無邪気な笑顔は、今もすぐにまぶたに浮かんでくる。
「施設の人にもさっぱり理由がわからないそうなんだ」
智寛はいつものように施設を出て学校へ出かけたらしい。そしてそのまま戻らなかった。
「どうして……」
「元の世界に戻った……とか……そんなことはないんかな……」
「解らない……」
「来るときかて突然やった。それやったら、突然戻ってもおかしないんちゃうかな?」
「それはそうだけど……」
けれども、柑菜は胸騒ぎがしていた。
本当に智寛は『戻った』のだろうか……。