帰りたい
問題解決のために、篠原が真っ先に行ったのは、件の同じ事例の情報を提供してくれた人物に連絡を取ることだった。
そこから情報源を探してもらい、実際にそうやってこちらの世界に紛れ込んだ者が、現在どうなっているのかを調査してもらう。
篠原は調査の結果、紹介された海外のNPO団体の主宰者に、Eメールを送った。直接該当の人物と接触があったわけではないが、その接触のあった人物を知っているということだった。
メールは18時間後、返事があった。
「消えた?」
柑菜が発した言葉は、声が裏返ってしまっていた。
「およそ2週間ほど保護していたが、ある日忽然と姿を消したらしい」
「どういうことやろ……」
「前日までは普通に生活していたらしいな。けれどもその当日、この保護者が出かけている間にいなくなっていたそうだ」
「いなくなって……」
「ひょっとしたら、違う世界から来たということも、最初から狂言だったのかもしれない、とも書いてある……」
「そんな……」
実際に何が書かれてあるのか、詳しいことは柑菜にはよくわからなかった。すべてが英語で書かれてあって、部分的に理解できるところはあるものの、すべてを理解するためには辞書を片手に何時間も格闘しなければならないだろう。
ただ、このメールは、柑菜たちが元の世界に帰るために、何の役にも立ちそうにないことは明らかだった。
「ふむ……」
篠原はメールを何度も読み直し、そして頷いた。
「この保護した人は、相手の狂言だったと思い込んでいるみたいだね。どうりでその後の情報がまったく来ないはずだ。そこでこの事件は終わっていたんだ」
篠原の言葉に、柑菜はやり場のない憤りを感じた。
「そんな……私たちは嘘なんてついてないよ!本当に……こんな世界なんて知らない。私、こんなところで生まれ育ってなんかない!」
思わずそう叫んだ柑菜に、篠原は優しく微笑みかける。
「わかってるよ。ぼくは嘘だなんて思っていない」
「でも、なんでそんなふうにあっさり狂言やと思ったんやろうな。高性能の携帯電話を所持っていう情報が引っかかったりしいひんかったんやろうか」
イブの言葉に、篠原は頷いた。
「問題はそれだね。なぜこの保護者がいきなり宗旨替えをしたのか。ひょっとすると、何か良くない圧力がかかった可能性も捨てきれないな」
「良くない圧力……」
「君たちも尾行されていたのだろう?君たちのような人を何らかの事情で追う組織があるかもしれないということだ」
異邦人は迫害される……それはどこの世界でも同じことだ。そう頭で解っていても、こうして実際に消えた人の話を聞くと、何だか空恐ろしい。
いったい自分たちはこれからどうなってしまうのだろう。元の世界に戻ることは出来るのだろうか……。
「考えてばかりいても仕方がない。ぼくはもう少し情報を集めてみるよ」
「うん……お願い、先生……」
「消えたといっても、決して連れ去られたとは限らない。ひょっとすると、元の世界に戻れたという可能性だってあるんだからね」
「そうだね」
篠原の言葉に励まされ、柑菜もイブも笑みを浮かべた。
◇
二階にあがり、それぞれあてがわれた部屋に入って休むことにした。
けれども、柑菜はちっとも眠れそうな気がしなかった。
消えた人は本当にどこへ行ってしまったのだろう。元の世界に帰ることが出来たのだろうか。それとも……。
考えれば考えるほどに、悪い方向に思考が向いてしまう。
元の世界に戻るということが、どれほど難しいことか。こちらに来てしまったのが偶然とか奇跡なのだとしたら、もう一度その偶然や奇跡を起こすしかない。
でも、そんなものは、起こそうと思って起きるようなものではない。
だからきっと、戻ることのほうがずっと難しい……。
「もう寝よう……」
明日は朝から篠原のパソコンを借りて、情報を調べる予定だ。出来るだけ早起きをしたほうが、たくさんの情報を集めることができる。
それに、寝不足の頭で調べ物をするよりも、しっかり寝たほうが効率がいいに決まっている。
だから、早く寝ることが、ひいては柑菜が早く戻れることにつながるのだ。
そう自分に言い聞かせて、無理やりに目を閉じた。
◇
柑菜が目を覚まして階段を下りると、すでに篠原とイブは起き出して朝食をとっていた。
「おはよ、カンナ」
「おはよう……」
寝不足の目をこすりながら席に着くと、篠原がコーヒーとパンをテーブルにおいてくれた。
「こんなものしかないけど」
「ありがとう……でも、食欲なくて……」
「あまり寝れなかった?」
「うん……コーヒーだけもらうね」
「じゃ、パンは俺がもらってええか?」
そう言いながらも、イブはもうパンを手にとって口に放り込んでいる。そんな様子を半ば呆れ気味に見ながら、柑菜はコーヒーを口にする。
「このコーヒー、美味しいのね」
柑菜が言うと、篠原は少し得意げに微笑んだ。
「いちおう豆にはこだわりがあってね。コーヒーだけはうまく入れる自信があるんだよ」
確かに、味も香りも専門店にも負けていないと思う。そんなコーヒーをがぶ飲みしておかわりまでしているイブには、さすがの篠原もちょっと呆れ顔だったけど。
「先生、イブには水道水でいいと思うよ」
「えええええ?なんでやねん!」
「あんた、せっかく先生が丁寧にいれてくれたコーヒーなのに味わってないでしょ」
「味わってるわ!」
イブはむきになって言い返してくるけど、どうにも怪しい。
だいたいあのネカフェのカレーをおかわりしてた時点で、柑菜はイブの味音痴と雑食を確信していたのだ。
◇
「それじゃあ、行って来るけど……誰かが来ても出る必要はないよ。訪ねてくるような宛なんてないし」
「了解」
「でも、もし奥さんが来たらどうするん?」
イブの言葉に、篠原は苦笑いする。
「合鍵を持って出ているはずだから、その時は勝手に入ってくるだろう。事情は私に電話して聞くようにと伝えておけばいいよ」
「先生もいろいろ複雑ね……」
柑菜の同情するような視線に、篠原はさらに苦笑した。
「まあ……とりあえず、行って来るよ」
◇
篠原が出かけると、二人はさっそくパソコンに向かう。篠原の書斎にはデスクトップのパソコンが2台、ノートパソコンが1台あった。
そのうちのデスクトップ1台を柑菜が使い、ノートパソコンのほうをイブが使う。
書斎もパソコンも自由に使っていいというあたり、篠原はプライベートに関してあまり頓着がないようだった。
部屋の中の書類や書棚も、そしてパソコンのデータも、特に整理をした様子もないし。
あまりの潔さに、柑菜も驚きを通り越して呆れてしまうほどだった。
(こんなだから……奥さんに逃げられたのかな……)
何故、奥さんが家出をしたのか、理由は篠原が語らないから解らない。でも、理解できるような気もした。
「なんか情報あったか?」
「まだ何も。調べ始めたばっかりだもん。そんなに簡単に見つかる分けないでしょ」
「まあ、それもそうやなぁ」
カチカチとキーボードを叩く音が響く。その合間に、イブのマヌケなアクビの声が聞こえてくる。
「もうちょっと気合入れなさいよ!」
「入れたいねんけど、眠なってきたわ……昨日あんまり寝られへんかったのに、何で今眠いんやろ……」
「そんなの私が知るわけないじゃん。眠いんだったら、ちょっと寝てきたら?」
「部屋に戻ったら、たぶん寝られへんねんな。ここで寝てもええ?」
「い、いいけど……イビキかいたりしてうるさくしないでよね」
「まあ……保障はできひんけど……とりあえず寝るわ……」
イブはノートパソコンの上に顔を突っ伏して、すぐに寝息を立て始めた。
「もう……寝れるなら夜に寝ればいいのに……」
柑菜は今もやはり眠くならない。今夜もちゃんと眠れるかどうか……。
いろんなことが神経を刺激して、朝も夜も何だか落ち着かない。旅行に来てる時と似たような感覚かもしれない。
旅行は自ら選んで異邦の地に行くのだから、それが苦痛になることもない。けれども今の柑菜は、まったく望んでなんかいないのに旅をしているようなものだ。正確には、旅をさせられているというか……。
「はぁ……」
これがいったい何なのか。柑菜たちが元の世界に帰る方法があるのか。それを調べたくても、いったい何から調べればいいのかさえ解らない。
それでも柑菜はキーボードを叩き続ける。
そうすることで、いつかヒントの欠片にでもたどり着けるかもしれない。