帰る方法は!?
柑菜が何百ページ目かの空めくりをし、イブが何十回目かのアクビをした頃、篠原が教授室に戻ってきた。
「ごめんごめん、ちょっと学生に捕まって遅くなってしまった」
申し訳なさそうに、篠原が頭をかいている。
「いえ、突然押しかけたのはこちらのほうですから。先生は気にしないでください」
「いやぁ……本当に申し訳ない。お詫びにメシでもおごるよ。あんまり高いものは無理だけど」
「あ、あの……できれば屋内が……」
「え……」
柑菜の言葉の意味を図りかねて、篠原は首をかしげる。
「私たち、どうやら尾行されてたみたいなんです」
「それは……何だか物騒だね……」
「はい。理由はわかりません。でも、ひょっとしたら、私たちがこの世界へやって来たことに関係しているのかも」
「この世界?」
ますます不思議そうな顔をして、篠原は首をかしげる。しかし、すぐに椅子を指差した。
「話が長くなりそうだね。このまま聞こう。二人とも座りなさい」
◇
柑菜は駅を降りてからのことを、そのまま篠原に伝えていく。イブも自分がどうやって異変に気づいたのかを篠原に語った。
この手の話に慣れているのだろうか。篠原は不審がる様子もなく、ただ黙って二人の話を聞き続けた。
すべての話を聞き終えた後、篠原は軽く息を吐いた。
果たして彼は、柑菜たちのいうことを信じてくれたのだろうか。
しばらくの沈黙があった。篠原は、柑菜たちの話を頭の中で整理しているのかもしれない。
ようやく口を開いた彼の言葉は、柑菜たちを少し驚かせた。
「実はこの国ではないけれど、同じような例を聞いたことがあるんだよ」
「え?」
「この国やない?」
「うん」
そう頷いて、篠原はカバンの中から分厚い手帳を取り出した。
「ええと、どこだったかな……確か、去年の話だったと思うが……」
「去年……は2010年?」
「そうだね」
「こっちでも今年は2011年なんや」
「それは一緒みたいね」
こちらの世界に和暦はあるのだろうか……それを聞こうとしたとき、篠原のページをめくる手が止まった。
「あった、これだ……」
篠原が指差した箇所には、細かい、几帳面そうな文字で3行ほどのメモ書きがあった。
『異なる世界から来たと訴える者あり。こちらと一致する部分もあれば、まったく異なる部分もあるという。こちらの世界では見かけない役所が発行した証明書および、高性能の携帯電話を所持』
「地方へ講演に行ったときに、その地元の研究者から聞いた話だな。その研究者も誰かから聞いたみたいだったから、又聞きか」
「携帯電話……」
「俺、もってるわ」
「私も持ってる……先生、これが証明になる?」
二人がそろって出した携帯電話を、篠原は丁寧に受け取って検分する。
「ふむ……確かにこんなメーカーは見たことないな……しかも、かなりの高性能だ」
「そうなの?」
「翻訳機能まであるのか。これはすごいな。翻訳機能は確か、一部のメーカーっで現在開発中と聞いたことがあるけど」
「これは話しかけると、ちゃんとその言葉で答えてくれるねんで」
「へええ、ちょっと教えて」
篠原教授は、すっかりイブの携帯が気にいったみたいで、教えてもらいながら翻訳機能を試している。
「これがあったら、和英辞典なんてもういらないな」
「でも俺、実はあんまり使ったことなかってん。英語なんて、テストでもない限り、調べへんし。テストでは携帯使われへんし」
ひとしきりイブの携帯を楽しそうにいじった後、篠原教授は少し真面目な顔で柑菜たちに向き合った。
「君たちが、ぼくたちとは違う世界で来たことは確かなようだ。で、ぼくに何か手助けできることはあるのかな?」
「元の世界に帰る方法が知りたいの」
柑菜の言葉に、篠原は頷いた。
「出来る限り協力しよう。もっとも、今の時点ではほとんど手がかりなんてないんだけど。ちょっと長期戦になるかもしれないけど、それでもかまわないかい?」
「かまわないわ」
「かまへん。とにかく帰れるんやったら、いつまでも待つで」
「じゃあ、とりあえず家においで。尾行もあったみたいだから、タクシーを捕まえて帰ろう」
「先生のお家に行っていいの?」
「そら、助かるわ」
二人が声をそろえて言うと、篠原は何かを思い出したかのように少し顔を曇らせた。
「ああ……ただ、ちょっと問題が……」
「な、なに、問題って?」
「ええと……その……先月からちょっと一人暮らしなもんで……あまり大したもてなしが出来ないんだが……」
「先月から?」
「まあ、その……嫁に逃げられたんだ……」
気まずそうに頭をかく篠原に、柑菜たちも返事をすることが出来ず、さらに気まずい空気が流れた。
◇
タクシーを使えば、大学から篠原の家までは10分もかからなかった。
これなら歩いても良かったかもしれないが、万が一、尾行がうろついていることを考えると、やはりタクシーが安全だったのだろう。
篠原が柑菜たちの状況を理解してくれたのはとてもありがたいことだったし、家にかくまってくれることも、ありがたい。
たとえこの国でなくとも、同じような例があるというのなら、帰る方法だって見つかるかもしれない。
タクシーを降りると、閑静な住宅街だった。
そのうちの比較的小ぶりだけど、瀟洒な一軒家の門扉を篠原は開ける。
「へえ……すごい。先生ってお金持ち?」
「いや。この家は小さいし、駅からも離れてるから。だからこの家はしがない大学の客員教授の給料でも買えるんだ」
「そうなんだ……」
「さあ、どうぞ。掃除はまあ……適当にしてるけど。花なんて洒落たものは飾ってないし、冷蔵庫はほとんど何も入っていないけど」
「お邪魔します」
「お邪魔しまーす!」
家に入ると、確かにひと気がなかった。何だか少し、篠原の背中が寂しそうに見えるのは、気のせいばかりではないだろう。
「2階の部屋が2部屋あいてる。いちおう客間だから、ベッドや布団はある。それぞれ使うといいよ」
「はい、ありがとうございます」
「ぼくはちょっとスーパーに買い物に行ってくるよ。さすがにお客さんがいるのに冷蔵庫がカラじゃ問題だ」
篠原はそう言って笑い、自転車に乗ってスーパーに向かった。
◇
「なんつーか……ホンマにお人よしそうやなぁ……」
「今のところはね」
「やっぱ、まだ信じてないんや?」
「そりゃあね。あんたはそんなに簡単に人を信用できるの?」
「まあ……疑い出したらキリないやろ?それやったら、とりあえず信じれそうなもんは信じたらええんちゃうかなぁと」
「おめでたい性格してるよね」
「よく言われるねん」
何だか妙に得意そうに答えるイブに、柑菜はうっとおしそうにため息をついた。
「でも、ホンマに帰れるんかな……」
「帰るわよ、絶対」
「そんな方法……あるんかな……」
「探してもらう。もしくは探す」
柑菜の返事に、イブは思わず吹きだした。
「俺よりカンナのほうが帰りたい願望が強そうやな」
柑菜はイブをにらみつける。
「だって……来年、受験なんだよ?」
「行きたい大学とかあるんだ?」
「もちろん」
「へええ、どこ?」
「東京の大学。絶対、東京に戻るつもりだったのに」
そう答えた柑菜を見て、イブはちょっと寂しそうな顔をする。
「大阪は嫌いなんか?」
「嫌いっていうか……ここじゃないって感じ……」
「ここじゃない?」
「私の居場所は……ここじゃない。大阪にいると、常にそう思うの。まあ、高校は神戸だったんだけどね。それに、大学でいっぱい勉強したいことがあるの。留学もしたいし」
「そら、帰らなあかんなぁ」
そう言って、イブはにこにこと笑った。
「だから、もしも帰り道の切符がひとつだったら、私に譲ってね」
「まあ……そんときは譲ったってもええわ」
「まじで?」
「俺は特に……夢もないし。大学もいかへんやろし」
「友達は?家族は?」
「友達にはできれば会いたいけどなぁ……まあ、家族は……どっちでもええわ」
イブの言葉に、柑菜は驚いて目を見開いた。
「家族……どっちでもいいの?」
「うん。たぶん、両親も俺のことどころやあらへんし。いなくなってちょうど良かったんちゃうかな?」
そう言って、イブはちょっと寂しそうに笑った。
「どうして?」
「そんなこと聞くん?」
逆に問い返されて、柑菜は思わずはっとした。ひょっとすると、これはイブにとって聞かれたくない質問だったのかもしれない。
「あ、ごめん……ちょっと深入りしすぎたね。忘れて。答えなくて良いよ」
柑菜の言葉にイブは答えなかったが、怒っている様子はなさそうだった。ただ、寂しそうな顔のままで笑っていた。