これが私の王子様!?
「あの……」
そう言って、ちょっと遠慮がちに声をかけてきたのは、柑菜と同じ年頃と思われる、学生服を着た男の子だった。
もう合服の時期だから、上着は羽織っていない。
白いシャツにネクタイ、そして黒い学生ズボン。
「な、なに?」
柑菜はできるだけ怪しまれないようにそう言った。
自分が異分子だということだけは理解できる。
問題は、異分子であることを悟られてはいけないということだった。
どこの世界でも、異分子に対して人は警戒心を抱く。
柑菜がこれまでに読んできた空想小説の数々にも、いっさいの例外はなかった。
けれども、相手の男子高校生は、柑菜の心積もりや警戒心をすべて無駄にするようなことを言った。
「えっと……ここってどこなん?」
「は?」
別に、彼を馬鹿にしたつもりはなかった。けれども、彼はそう思ったらしく、ちょっと悲しそうな顔をする。
「ごめん……俺も変な質問をしているのはわかっているんです。でも、ここは俺の知っている駅じゃないみたいやから……」
「ど、どういうこと?」
慎重に柑菜は問い返す。相手が柑菜を試している可能性だってある。
柑菜が異邦人であることを疑い、それを確かめようとしているのかも。何より、このあまりにも人懐っこい笑顔が怪しすぎる。こういう笑顔を振りまく人間は、得てして人を騙そうとする者に多い。少なくとも、テレビドラマや映画の世界ではそうだった。
「えっと、俺は地下鉄からニュートラムに乗り換えて、コスモスクエアへ行く予定やったんです。でも、終着駅まで電車に乗ってたら、聞いたこともない駅に着いてしまって……」
そう言って、彼は困ったように笑う。
「俺、こんな駅知らんし。だから、ここはどこか教えて欲しくれへんかな?」
「……そ、そんなこと、私が知る分けないでしょ!」
柑菜は思わずそう叫んでいた。そんなこと、こっちが聞きたい。
「そ、そうですよね。変なこと聞いてすみませんでした。あっちの人にでも聞いてみます」
「え?」
彼はにこにこと笑いながら、何の警戒心も抱かずに、通行人に近づこうとしていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
柑菜は慌てて彼のシャツの裾を引っ張った。
「え?なんで止めるん?」
「だから!もう……あんたって馬鹿なの!?」
「俺……そんなに賢くはないけど……そこまでアホでもないで……?」
心底悲しそうな目で訴える彼に、柑菜は思わずため息をつく。
「とにかく……どこか人目につかないところに」
「え?なんで?何で人目についたらあかんの?」
「いいから早く!」
「は、はい……!」
◇
彼をつれてやって来たのは、ネットカフェだった。
柑菜たちがいた世界と違うのは、地名と地形が違うぐらいで、ネットカフェのような施設は普通にあった。
どうやら通貨は同じようで、互いの財布の中身を出し合った。
そして、いかにもカップルっぽい感じで二人用の席を確保し、無料のジュースをそれぞれに持って狭い部屋の中で向き合う。
「ええと……」
彼のほうは、すっかり戸惑ってしまっている。
「とりあえず、ジュースでも飲んだら?」
「ああ、そやな……」
ジュースの存在を思い出したかのように、彼はごくごくと喉を鳴らして飲み干していく。
「ちょっと、飲むの早すぎない?」
「喉渇いててん……」
「おかわり……取って来たら?」
「ああ、うん……」
そう言って立ち上がりかけて、彼は思い出したかのように柑菜を見た。
「名前、何ていうの?」
「私が先に言うの?」
「あ、ごめん……」
「何か……謝ってばっかりよね……」
「ええと……俺は喜多野息吹。イブって呼んでええよ」
「……私は森崎柑菜」
「へえ……カンナちゃんかぁ……」
いきなり名前……しかもちゃん付けかよ?
そう思った柑菜の心の声は、しっかりと顔に表れていた。
「…………」
「ご、ごめん……カンナ……さん……」
「……カンナでいいよ。早くジュース取って来たら?」
「あ、ああ、うん……いってくるわ」
大阪の人って、どうしてこうも馴れ馴れしいのだろう。今日いまさっき会って自己紹介したばかりなのに、下の名前で呼び合おうとするなんて。
名字のほうで呼んで、なんて言うのも面倒だったから、カンナで良いとは言ったけど……。
柑菜は少し後悔していた。
◇
「ただいま!」
紙コップいっぱいに炭酸系のジュースを入れて戻ってきたイブ(とりあえず面倒だからそう呼ぶことにした)は、嬉しそうにストローでまた飲み干していく。
人懐っこい笑顔を浮かべながら、のんきに聞いてくる。
「それで……ここってどこなん?」
「ネカフェでしょ……」
「いや……そうやなくて……」
イブはまだこの状況をきちんと理解できていないようだった。いや……柑菜だってもちろん理解は出来ていない。
だが、柑菜の理解できていないと、彼の理解できていないはものすごく違う気がするのだ。
「たぶん私たち、違う世界にいると思う」
「へ?」
「異世界。ひょっとしたら、違う星とかそういう次元かも……」
「えええええええ?」
イブは本気で仰け反っている。どうやらそんな思考はまったく持ち合わせていなかったようだ。
「ちょっと声大きいから!」
「ご、ごめん……」
しゅんと小さくなったイブを見て、柑菜はため息をつく。
「とりあえず、ここネカフェなんだから、あんまり大きな声出さないで。ここ追い出されて他のお店にいっても、身分証なしで入れてくれるかどうかわからないよ」
「ああ、そやな……ごめんごめん……」
そう言って、またにこにこと笑う。どうも反省しているようには思えない。
「うーん……俺はずっと、電車に乗り間違えたんやと思ってた……」
「こんな駅、大阪にないでしょ」
「まぁ……そうやねんけど……実はニュートラムの駅とか、あんまり知らんねん」
「そうなの?」
「今日はたまたまバイトの面接で乗っただけやねん。コスモスクエアで面接やったから、そこで降りたつもりやってんけどなぁ……」
イブの話を聞きながら、柑菜は思う。ひょっとすると、自分たちと同じようにこの世界にまぎれてしまった人が他にもいたのだろうか。
イブを引っ張って夢中で歩いてこのネカフェに来てしまったけど。
もう少し慎重に、仲間を探したほうが良かったのかも?
「どうしたん?」
「あ、ううん……いろいろ考えてたの。ねえ、私のほかに同じような人、いなかったよね?」
「うーん……ようわからんねん。俺もちょっとパニくってたし……」
「役立たず」
「ご、ごめん……」
この男は……と柑菜は思う。謝ることに何の抵抗もないらしい。すぐに謝っては、にこにこと笑う。本当に正真正銘のバカなんじゃないうか。
見た目はそれほど悪くはないのだけど……やっぱりあか抜けてない気がする。もっとはっきり言うと、やぼったい感じだ。
もう少し髪をちゃんと手入れして、流行の服なんかを着れば、そこそこ見れるようになるのかもしれないけれど。
「とりあえず……どうする?」
「どうするって……とにかく情報を集めなきゃ。ここがいったいどういう世界なのか。通貨は同じみたいだから、財布のお金が尽きるまでは何とかなるわね」
「でも俺……超貧乏やねんけど……」
「私は少し持ってるけど……もとの世界に戻ったら、ちゃんと返してね」
「お、おう……バイトして返……って、面接~~~~!!」
「だから、大きい声出すな!」
「ご、ごめん……」
思わずきつい言葉使いになるのは、仕方がない。もはや気を使っている余裕など、柑菜にはなかった。気を使うことが必要な相手ではないということが解ってきたというのもあるのだけど。
「面接どころか、今日の宿はここよ」
「そ、そうか……」
ようやくそれに思い至ったように、イブは頭を抱える。
「とりあえず今晩はここで過ごして……明日までに必要な情報をネットで集めて……」
「それから?」
「そんなの、わかんないよ。でも……この状況を理解して、保護してくれそうな人を探すのは必要かも……」
「そやな……俺たちだけで元の世界に帰るのは難しそうやし……」
「とりあえず、ネットで検索して。こういう妙な状況に対応できそうな人で、なおかつかなりのお人よしそうな人」
「わ、わかった……」
私たちはパソコンに向き合い、無言になってネットサーフィンを始めた。
◇
「見つかった?」
「うーん……」
柑菜とイブはもうかれこれ数時間もの間、パソコンとにらめっこしている。
手元には、ネットカフェで無料サービスのカレー。
柑菜はすべて食べきることが出来ず、イブは二度もおかわりをした。
無料だとはいえ……あまりにもその味は酷かった。
それをおかわりできるイブを、柑菜は正直少し見直したかもしれない。
「カンナのほうはどうなん?」
「何人かは……でも、正直言ってどれも胡散臭くて怪しい……」
「そら、超常現象の研究かとか、そういうのんは怪しいもんやろ……」
「でも、出来たら怪しくなくて、真面目に研究してて、その上で……」
「お人よし……やろ?」
「うん、それが絶対条件」
とにかくこの状況の自分たちを救ってもらうには、できるだけお人よしな人物でなければならない。
間違っても、柑菜たちを警察や、秘密機関に突き出したりしないような。
柑菜たちにひどく同情してくれて、無条件に保護と協力を約束してしまうような、そんな馬鹿みたいなお人よしでなければ、この状況で助けを求めることは出来ない。
「あ……」
画面を見ながらイブが呟くので、柑菜も画面を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「この人とかどう?」
「大学の教授?」
柑菜はパソコンの画面に映し出される教授のプロフィールに目を向ける。
篠原康弘。L22区大学心理物理学部客員教授。超心理学会会員。著書も多数。年齢はおおよそ40台前半から後半。教授にしては若い。けれども、年をとりすぎているよりはフットワークが軽くて良いかもしれないと柑菜は思った。
「いいかも……お人よしそうな顔もしてるし」
「ほら、これ。貧困地域を援助するNPOの代表なんかもしてる」
「しかも、大学の場所も遠くなさそうね」
「もといた世界でいえば、たぶん神戸ぐらい?」
「L22地区ってなってるけど、そのあたりなのかな?」
確かに、地図を見れば神戸といえそうな場所だ。実際の神戸とは、やはり地形も地名も違うけれども。
「朝になって電車が動いたら、すぐに行ってみよう」
「あ、でも俺もう金が……」
「私が出すよ」
「ご、ごめんな……本当にもとの世界に戻ったら、きっちり利子つけて返すから……」
「銀行のキャッシュカードが使えたら、もう少し余裕があるんだけどなぁ……」
「キャッシュカードは……どうやろな……」
「でも、定期は使えたんだよ?」
「切符も普通に改札を通ってたな、そういえば……」
「とりあえず、明日試してみよう」
「ああ、そやな……」
目標が見つかると、安心したのか少し眠くなってくる。
「まだ始発の時間までは少しあるし。ちょっと寝とこか?」
「うん……そうだね……」
◇
ネットカフェの座席なんかで眠れるだろうか……そう思った瞬間に、柑菜はもう眠りに落ちていたようだった。
目を覚ますと、そろそろ始発が動き出そうかという時間だった。
イブはもう起きていて、紙をぺらぺらとめくっている。
「おはよ……早かったんだ?」
「ああ……あんま寝れんかったから。せやからこれ。大学教授の資料と大学への道のりをプリントアウトしといたで」
そう言って、イブはプリントアウトしたものを柑菜に差し出した。
「すごい……ありがとう。そこまで頭が回らなかったよ」
「まあ……覚えていけばこんなもんいらんのやろうけど。俺、そんなに記憶力良くないしなぁ……」
「ううん……すごく助かると思う。ありがとう」
柑菜がそう言うと、イブは少し照れくさそうに笑った。
確かにほとんど寝てないのだろう。笑った目が充血していて、何だか泣き笑いしてるみたいに見えた。
「寝不足で大丈夫?」
「ま……何とかなるやろ。電車で寝てまうかもしんけど」
「寝てるといいわ。私、いちおう寝てから、ちゃんと着くまで起きてる」
「頼むわ。たぶん、寝てる」
そう言って、イブはまた赤い目を細めて笑った。
「じゃ、いこっか」
「そやな。地理もようわからんし。早めに行っといたほうがいいな」
イブの言葉に頷いて、柑菜はカバンを持って立ち上がった。
◇
ネットカフェを出た柑菜とイブは、さっそく電車に乗り込んだ。ニュートラムと思われるこの電車が、なんと乗り換えなしで目的のL22区まで運んでくれるらしい。
というよりも、そもそもこの世界には乗換えというものが存在しないらしい。
すべてが一本の線でつながっていて、電車は迂回したり戻ったりしながら、一本の路線ですべての区を回るように出来ている。
本数はそこそこあるものの、場所によっては非常に時間がかかる。
「これって……面倒やなぁ……」」
「そう?」
「だって、別の路線が走ってたら、乗り換えればすぐの駅やのに……こんなに遠回りして……」
「でも、乗り換えなくていいから楽じゃん」
「そうだけどさ……」
どこか居心地悪そうに電車の外を眺めるイブにかまわず、柑菜はハードカバーのページをめくった。
当分の間は電車の中にいるのだから、乗り越しを気にすることなく本を読むことができる。
「あの……」
せっかく物語に入っていこうとしているのに、耳障りな声が隣から聞こえる。
「なに?」
「その本なに?」
「何って見ればわかるでしょ?」
「ええと……恋愛小説」
「そんなものに見える?ファンタジーよ。剣と魔法の。作者は佐々木勇。けっこう有名なシリーズなのに……」
「うーん……俺、本とか読まへんからなぁ……」
話にならないといった様子で、柑菜は軽くため息をつき、再び本に目を落とす。
イブの視線が、自分と本とに向いていることには気づいていたけれど。
夢中になって物語を読み進めていくうちに、隣からは寝息が聞こえ始めた。
(まぁ……無理ないか。寝てないって言ってたし……)
微妙に体重が柑菜に寄りかかってきていることも、この際だから許してやろうと思う。
彼が睡眠と引き換えにプリントアウトしてくれた情報で、ひとまず柑菜は動くことが出来ているのだから。
(なんだろう……)
イブはもう眠ってしまっているのに、何故だか視線を感じる。
慎重にその方向に視線だけを動かしてみると、スーツ姿の男の人が柑菜たちを見ていた。
(制服着てるからかな……この時間はまだ通学する人も少ないみたいだし……目立つのかも……)
柑菜はそう思い、再び本に目を落とした。
◇
「起きて、次の駅だよ!」
柑菜に乱暴に揺さぶられ、イブはようやく目を覚ました。眠り始めてからもう2時間以上になる。一度も目を覚まさなかったのには、柑菜も少し呆れた。
「あぁ……どこやっけ……」
「L22地区。もう次の駅だよ」
「そっかぁ……」
そう言って、イブは大きく伸びをしながらアクビをした。
電車が駅に到着する。
「ほら、降りるよ」
「ふぁい」
アクビ交じりの返事をして、イブは慌てて柑菜の後を追った。
「どっちかなぁ……」
きょろきょろと辺りを見回すイブにかまわず、柑菜はすたすたと迷うことなく歩き出す。
「場所わかるん?」
「何のために地図をプリントアウトしたのよ?」
「ああ、そうか……」
「北はこっち。だから、大学はこっち」
「なるほど!」
まるで今やっと気づいたというようにイブは手を打った。
「はぁ……プリントアウトするぐらいだから気が利くと思ったけど、やっぱりマヌケはマヌケなのね……」
「ご、ごめん……」
「ほら、早く。大学の授業が始まる前に校門で待ち伏せしよう。篠原教授の講義は、今日の朝一からあるみたいだし」
「何でそんなこと知ってるん?」
「昨日、彼のブログを見たの。そこに、明日は朝一から大学の講義って書いてあった」
「なるほど!」
まったくもう……とぶつぶつ言いながら、柑菜はため息をつく。
どうせなら、もっと頼りになりそうなパートナーなら良かったのに。たとえば、エルフ王子のような。
ついでに言うと、迷い込んだ世界も、本のように剣と魔法の世界だったら良かったのに。
それなら柑菜はこの困難を甘んじて……いや、喜んで受けて立ったのに。
そんなことを言っても仕方がないのはわかっているから、口に出して言ったりはしないけれど。
◇
大学の方向向かって歩きながら、柑菜はふと視線に気づいた。
振り返ってみるのが一番手っ取り早いけど、何だかそれも憚られてしまうような、ちょっと危険な予感。
柑菜は立ち止まり、カバンの中から手鏡を取り出した。
「どうかしたん?」
「ちょっと……目にゴミが入ったみたいだから」
「え?大丈夫?」
「うん……」
慎重に、自分の目を確かめるように装いながら、柑菜は手鏡で背後の視線を感じた方向を映す。
(やっぱり……)
先ほど、電車の中で柑菜たちを見ていた男。
その男が、一定の距離を保ち、立ち止まっている。
今は柑菜たちを見ているわけではないが、尾行してきているのは明らかだった。
何しろ、駅を降りてからもう結構な距離を歩いているのだ。
同じ駅で降りた人たちは、もうてんでばらばらに散ってしまっている。
電車の中で柑菜たちを監視するように見つめ、その上で同じ場所を歩いてきているというのは、どう考えてもおかしかった。
「ね……ちょっと道変えよう」
「え……なんで?」
「いいから……普通に歩いて。ゆっくりね」
「あ、ああ……」
戸惑いながらも、イブはおとなしく従う。こちらが尾行に気づいたということを悟られてはいけない。
さりげなく撒いてしまわないと……。
◇
男はけっこうしつこかった。柑菜たちが脈絡なく歩いたり、立ち止まったり、店の中に入ったりするのを、等間隔を保ちながらずっとついてくる。
間違いなく尾行されているのだ。
どこかであの尾行を撒かなければいけない。
けれども、こちらの地理に明るくない柑菜には、どこをどう行けばいいのかわからない。決断ができなかった。
ただの変質者や、こちらの世界にも補導員などがいて、制服を着た柑菜たちを追いかけてきているのならまだ良いけれど。
それでも捕まれば面倒なのは解っていた。
柑菜は位置を確認する。
大学とはすっかり反対の道を歩いてきてしまっている。
けれども、大学へ行くことはばれないほうがいいと思う。
とにかくあの尾行を撒かなければ、大学へ向かうことが出来ないということだけは事実だった。
「イブ……走れる?」
「あ、ああ……ええけど……」
「けっこう長い距離になるけど」
「まあ……体力には自信あるで」
「よし、走るよ!」
柑菜はいきなり駆け出した。イブもその後をすかさず追う。
背後の追っ手も走り出しているのが見えた。
体力勝負だ、と柑菜は思う。
こちらは体力に自信のある10代二人。あちらは年齢的には40台前半から後半。どれだけ鍛えていたとしても、10代の体力にかなうことはない……それにかけるしかなかった。
相手がたとえば、脅威の体力の持ち主だったり、もしくはアンドロイドなどの反則的な生き物だった場合は、柑菜たちの負けだ。
諦めて捕まって、今度は相手の狙いが何なのか確かめてみよう。
それを確かめる間もなく危害を加えられてしまう可能性だってあるけれど。
とにかく、今は逃げ切ることだ。
大学の方向だけを見失わないように、柑菜はわざと入り組んだ道を選び、遠回りするようにして走り続ける。
振り向けば、まだ小さく相手の影が見える。
少しずつ、大学に近づいていきながら、とにもかくにも相手を振り切ることだけを考える。
問題はイブの体力ではなく、柑菜の体力だった。
イブはまだ息も上がっていない。けれども、運動音痴ではないにしろ、運動部に所属していたわけではない柑菜にとって、これだけの距離を走るのはけっこうな重労働だった。
「大丈夫?」
心配そうに声をかけてくるイブは、まだまだ余裕そうだった。
「だ、大丈夫……まだ追いかけてきてるよね?」
「あのスーツのおっちゃん?追いかけてきてるわ……まさかあれって、俺たちを尾行しとったん?」
「うん……電車の中からずっと見てた……」
「敵かな、味方かな……」
「あんまり味方っぽくない気がする……」
「そやな……味方やったら尾行したり追いかけてきたりせぇへんわな……」
ちょっと会話をしてしまったせいで、柑菜の息はすっかりあがってしまった。
(頑張って……私の足……)
「ほら」
イブが手を伸ばしてくる。柑菜はすぐさまその手にすがった。
「俺、まだ余裕やから。いざとなったら背負って走れるで」
「あ、ありがとう……」
彼と出会って初めて……ちょっぴり頼もしいと思った瞬間だった。