ここはどこ!?
「はぁ……遠いなぁ……」
ため息をついた少女、 森崎柑菜は、地下鉄御堂筋線を大国町で降りた。
柑菜の通う高校は、JR神戸線沿線だ。
JR梅田駅から高校の最寄り駅までは、さほど時間はかからないのだが、問題は地下鉄に乗ってからの乗り換えの多さだった。
もうずいぶん慣れた乗り換えだとはいえ、面倒なのは面倒だ。
JRの最寄り駅から梅田に出て、そこから地下鉄御堂筋線に乗り換え、さらに大国町で四つ橋線に乗り換える。
彼女はつい一ヶ月前までは、東京の八王子に住んでいた。
そこから高校へは、距離や通学時間でいえば、今の高校よりもさらに遠かったけど、乗換えがない分、遠いとはあまり感じなかった。
大阪へ引っ越してきて、新しい高校に通うようになり、柑菜は乗り換えの煩わしさをはじめて体験することになったのだった。
八王子にいた頃の彼女は、その通学時間のほとんどを読書で消化していた。
柑菜は本を読むのがとてもすきなのだ。
けれども、こうも乗換えが多くては、重いハードカバーの何ページも読み進むことが出来ない。
数ページ読んでは乗り換えになり、栞を挟んで本を閉じる。
こんなことを繰り返しているから、大阪へ来て、柑菜の読書のペースはがくんと落ち込んだ。
「東京のほうが良かったなぁ……」
もちろん、東京だって、乗り換えの多い人はたくさんいる。
柑菜も高校を卒業して大学へ通うようになれば、そうなっていた可能性もある。
けれども、それは別に今……高校2年の柑菜が経験しなくても良いのではないかと思ったりもする。
四つ橋線のホームに、柑菜の乗る住之江公園行きが到着する。
柑菜はそれに乗り、またしばらく読書にふける。
今度はいちおう終点まで行けばいいのだから、乗り越す心配だけはなかった。
「いいところだったのにな」
座席に座るなり、本を開き、夢中で活字を追った。
◇
柑菜が読んでいるのは、普通の少女が異世界に迷い込む冒険ファンタジーだ。
ごく普通の少女が、ある日突然、剣と魔法の世界に紛れ込んでしまう。
エルフがいて、ドワーフがいて、そして獰猛なオークがいる。
魔法が身を守り、魔法によって攻撃され、馬に乗り、剣を振るう。
ちょうど物語は、彼女とその仲間のエルフが、追いかけてきたオークたちに囲まれているところだった。
エルフが弓を使い、少女は剣を使う。
この世界に紛れ込んで覚えた剣の腕は、今では低級のオークぐらいなら蹴散らせる程度には上達していた。
襲い掛かってきたオークを剣で斬りつけ、続いてエルフの背後から迫り来るオークもなぎ倒す。
けれどもまだ、オークたちの数は減らなくて……。
そこで電車はがくんと停車した。
地下鉄四つ橋線の終点、住之江公園駅だった。
「はぁ……またいいところだったのにな……」
ため息をつきながら、きっちりと栞を挟み、柑菜は地下鉄を降りる。
長い階段を上り、さらに通路を移動して、今度は地下鉄ニュートラムに乗り換える。
◇
ニュートラムのホームで、柑菜は肩の上で切りそろえた髪を軽くかきあげる。
制服は、ちょっと珍しい形のセーラー服で、それはとても気に入ったのだけど、髪をきっちりと三つ編みにしてくくるか、肩につかない長さまで切らなければいけないという校則は、聞いた瞬間、うんざりした。
母親になだめられ、切りに行くことにしたのだけど、せっかく伸ばしていたのに無残に切りそろえられた髪を見て、思わず涙がこぼれた。
柑菜が通う高校は、関西でも有名なお嬢様学校で、校則は特別厳しい。
転勤が決まったとき、父親が上司に勧められて、この高校を選んだのだ。
高校生という難しい年頃なのだから、少々厳しい学校に入れたほうがいいというのが上司の弁で、父親は素直にそれに納得したという形らしかった。
都内でも屈指の進学校に進んでいた柑菜には、入れない高校のほうが少ないぐらいだったから、編入はまったく問題がなかった。
問題は、入ってからだった。
関西人は人懐っこいとは聞いていたけれど……。
他人との心地よい距離というのが、関西人と関東人とではずいぶん違うような気がする。
関西弁が気安く、一気に距離を縮められているように感じてしまうからかもしれないけれど。
転校して一ヶ月。
柑菜はなかなか新しい学校に馴染むことが出来なかった。
「あと、一年半……」
どうせ来年になれば、受験がある。
関西でも屈指の進学校なのだから、まわりもきっと人のことどころじゃなくなるだろう。
自然に距離は広がるに違いない。
実質的にはあと半年を何とか我慢すればいい。
そう自分に言い聞かせながら、柑菜は毎日を過ごしていた。
ニュートラムがホームに入ってくる。
このニュートラムで、ようやく乗り換えは終了だ。
あとはここから6駅目のポートタウン東で降りればいい。
柑菜は再び本を開いた。
◇
物語はさらに白熱していった。
オークに囲まれたヒロインは、エルフの長の息子である……いわゆるこの国の王子とともに、絶体絶命のピンチだ。
エルフの王子が、精霊の力を借りるために不思議な呪文を唱える。
呼ばれた精霊たちが、オークと激しい戦いを繰り広げる。
精霊が足止めをしてくれている間に、二人は逃げ出した。
エルフの王子がヒロインを馬に抱え上げ、馬は地を駆ける。
足止めをしてくれた精霊たちはどうなったのかな……。
それが気になって、柑菜のぺーじをめくる手が早まっていく。
ある程度離れたところで、精霊たちが戻ってきた。
オークは足止めをしてきただけだから、できるだけ遠くへ逃げるように言われる。
精霊に礼を言い、王子は馬を急がせた……。
さらに先を読み進もうとして、柑菜は時間が少し経ちすぎたのではないかと思った。
おそらく最寄駅は過ぎてしまったに違いない。
終着駅に着いて、そこからUターンをするのはよくあることだった。
だから諦めて、柑菜は本に目を戻した。
オークの追っ手を振り切った二人は、仲間のエルフやドワーフたちと無事に合流する。
ひとときの休息。
魔法も何も使えない自分は、常に足手まといになっているのではないかと悩むヒロイン。
それをさりげなく優しく励ますエルフ。
(こんなに素敵な人が現実にいたらいいのに……)
柑菜はヒロインが羨ましかった。
こんな世界とは無縁の、森と泉と精霊と……そして素敵なエルフとかわいらしいドワーフたちの世界。
この世界に行ってみたい……。
でも、すぐにそんなことは現実には起きないのだと思う。
これは物語だから、こんな夢みたいな世界にいけるのだ。
結局のところ、柑菜とは無縁の世界なのだ。
そう考えると、何だかちょっと熱も冷めてきた。
◇
がくんと軽い衝撃があって、電車が止まる。
どうやら終着駅に着いたみたいだ。
本に栞を挟んで、柑菜は立ち上がった。
おそらく、向いのホームの電車が先発のはずだった。
「あ……れ……?」
電車の発射時刻を見るために見上げた電光掲示板を見て、柑菜はしばらく呆然と立ち尽くした。
「どこ……?」
そこに書かれてあった駅名は、柑菜の知らない……聞いたこともない駅名だった。
本来であれば、『コスモスクエア』という駅名でなければならない。
なのに、この駅にはコスモの字も、スクエアの字もない。
「A5ターミナルって……こんな駅あったっけ……?」
ニュートラムのどの駅名を思い出してみても、そんな名前の駅名はなかったと思う。
ひょっとして、柑菜が知らない間に、コスモスクエアの先に新しい駅が出来たのだろうか。
そう思って、A5ターミナルの前の駅を調べてみる。
「B2ターミナル……?」
やはり、聞き覚えのない駅名だった。
「なにこれ……」
もしかすると、自分は寝ぼけているのだろうか。本を読んでいたつもりが、実は眠っていたなんてことは、何度かあったし。
そう思って、柑菜は首を二、三度ぶんぶんと振ってみる。その上でほっぺたをつねってみた。
「痛い……」
どうしてこんな味気ない名前の駅に来てしまったのだろう。柑菜は路線図を見つけてそれを食い入るように見つめる。
その路線図に記されている駅名は、すべてが数字とアルファベットの組み合わせのもので、ポートタウン東とか、大国町とか、住之江公園とか、そんな名称はひとつも見つからなかった。
「ここ……どこなの?」
周りを見てみると、ばらばらと人の姿があった。
いたって普通の人だし、宇宙人や変人には見えない。
よくよく見ると、ニュートラムのホームとは微妙に色や建物の形が違っていた。
やはりここは、柑菜の知っている駅ではないということだけは確かなようだった。
「どうしよう……」
柑菜は困り果ててカバンから定期入れを取り出した。定期は梅田からポートタウン東までとなっている。おそらくこの定期では改札を出ることは出来ないに違いない。
「試してみるか」
とにもかくにも、こんな場所でずっと突っ立っているわけにはいかない。何とかして自分の家に帰る方法を探さないと。
◇
柑菜はケースから抜き出した定期券を見つめる。
これであの改札を通ることが出来るだろうか……。
思い切って前へと歩き出し、定期を改札に通してみた。
「あ……」
定期は難なく出口のほうに吐き出されている。
柑菜は慌てて改札を通り過ぎ、持ち主を待つ定期券を抜き取った。
「不思議……どうして通れたのかな……」
そう思いながら定期をケースにしまう。
これがあれば、お金を使わなくても移動することが可能かもしれない。
「うーん……」
改札を抜け、駅を出てみると、そこはやはり、柑菜の知る街ではなかった。
近くに海があり、洒落たビルが建つベイサイドシティっぽい雰囲気はそのままだ。
けれども、ビルの形や色が違ったり、なんといっても地名が違う。
柑菜がコスモスクエアへやって来たのは、ほんの数日前の話だ。
たった数日の間に、地名やビルの形や色までが変わるはずもない。
「本当にどうしようかなぁ……」
柑菜は途方にくれてしまう。家へ帰りたくとも、家がある駅がないのだ。おそらく家がある街もないだろう。マンションだって似たようなものはあるかもしれないけど、それはきっと柑菜が住むマンションじゃない。
とりあえず、駅周辺のマップのようなものがある場所へと歩いてみる。
確かに周辺マップはあるけど、それは柑菜が知っているものとはやはり微妙に違っていた。
大阪湾の形も、微妙に違う。
淡路島やと思われる島の形も、柑菜の記憶とは少し違っていた。そしてそこにもC23区という、なんともそっけない地名がつけられていた。
ただ呆然と立ち尽くしたまま、柑菜はため息をつく。
その時だった。
背後から肩を叩かれて、柑菜は飛び上がりそうになるぐらいに驚いた。