第51話 二度目の舟
黒瀬は倉庫の入口に立ったまま、しばらく港を見ていた。
透は椅子から動かなかった。
父と母は一度、舟で三人を救い、岸へ戻ってきた。その三人の中には黒瀬もいた。
それでも二人は、もう一度舟を出した。
「二十七番に、人が残ってるかもしれなかったんですよね」
透が訊くと、黒瀬は頷いた。
「向かい側の高い場所から、灯りらしいものを見たという話が入りました」
「灯り?」
「懐中電灯かもしれない、と。ただ、あの天候でしたから、確かな話ではありません」
雨や水面の反射を見間違えた可能性もあった。
そのころには、港東側にいた人間の所在確認も進み始めていた。避難所に着いた人、親戚の家へ移った人、別の場所で保護された人が少しずつわかってきたという。
それでも二十七番の家だけは、確認が取れなかった。
「宮下トヨさん?」
「今から振り返れば、そうだった可能性が高いです」
「そのときはわからなかった?」
「世帯の名前まではわかっていました。ですが、誰が家に残っているのかまでは」
黒瀬はそこで言葉を切った。
透は二十七番の空き地を思い浮かべた。
家はもうない。
柿の木だけが残っている。
※
「二度目は、誰か止めなかったんですか」
「止めました」
黒瀬はすぐに答えた。
「私もです」
透は顔を上げた。
「黒瀬さんも?」
「一度目で戻ってきた舟には、かなり水が入っていました。風も強くなっていた。もう出すべきではない、と」
ほかにも同じことを言った人間がいたという。
朝を待つべきだ。
消防や別の応援を待ったほうがいい。
話はまとまらなかった。
「父さんたちは?」
黒瀬は港へ目を戻した。
「もう一度行くと言いました」
「なんで」
「私にはわかりません」
黒瀬の返事はそれだけだった。
透は続けて訊こうとして、やめた。
父と母が何を考えて舟へ乗ったのかを、黒瀬が代わりに説明できるはずもない。
「二人だけで?」
「はい」
舟には父と母だけが乗った。
さっきまで三人を運んでいた舟が、もう一度港を離れていった。
黒瀬は岸から見ていたという。
※
「二十七番までは着いたんですか」
「わかりません」
「誰も見てない?」
「少なくとも、私が知る限りは」
連絡する手段もなかった。
岸では舟が戻るのを待った。
雨が弱くなる時間もあったが、風は止まなかった。
黒瀬が細かな時刻を口にすることはなかった。
透も訊かなかった。
「戻ってこなかったんですね」
「はい」
黒瀬の声は変わらなかった。
翌朝になって、舟は港から離れた場所で見つかった。
父と母も、そのあと見つかった。
透は場所も状態も訊かなかった。
今、必要なのはそこではなかった。
「トヨさんは?」
「見つかりませんでした」
「家にも?」
「ええ」
「亡くなったって確認は」
「されていません」
前にも聞いた答えだった。
透は膝の上で手を組み直した。
死亡が確認されていない。
避難した記録も確かではない。
十五年前から、宮下トヨがどこへ行ったのか誰にもわからない。
※
「捜したんですよね」
「当時は」
黒瀬は頷いた。
「避難所、病院、親戚。それぞれ確認しました」
「町の外は?」
「私がすべてを把握しているわけではありません」
黒瀬はそこを曖昧にしなかった。
「その後も、ご親族へ尋ねたことはあります。ただ、私は役所でも警察でもありません」
透は頷いた。
黒瀬が十五年間一人で調べ続けていれば、何でも知っているという話にはならない。
「ハルさんは?」
黒瀬が透を見る。
「トヨさんが見つかってないこと、知ってたんですよね」
「知っていたと思います」
「思います?」
「事故のあと、何度か二十七番へ来ているのを見ました」
透は少し身を起こした。
「ハルさんが?」
「ええ」
黒瀬が土地を取得するより前のことだった。
空き家になっていたころ、ハルが一人で家の前に立っているところを何度か見たという。
「話しました?」
「一度だけ」
「何て?」
黒瀬は記憶を確かめるように間を置いた。
「トヨさんが戻ったら教えてほしい、と」
それ以上、ハルは話さなかったという。
※
透の中には、ハルの声が残っている。
トヨちゃん。あれは、うちが持っていったんよ。
黒瀬には中身を話さなかった。
「ハルさんとトヨさん、仲良かったんですよね」
「よく一緒にいました」
「家族ではない?」
「私が知る限りは」
そこも決めつけなかった。
透は立ち上がった。
「宮下家の親戚について、もう一度当たります」
「今からですか」
「期限があります」
黒瀬が何日目かを訊くことはなかった。
透も言わなかった。
倉庫の外へ出る。
港の日差しは強かった。
十五年前の夜と同じ場所だと言われても、透の目にあるのは夏の昼の港だけだった。
※
便利堂へ戻ると、梶が冷蔵庫の前に立っていた。
大きな瓶を中へ押し込んでいる。
「何してるんですか」
「麦茶入れとる」
「見ればわかります」
「ほな訊くな」
透は上着を脱いだ。
千鶴は配達へ出ているらしく、店にはいない。
梶が冷蔵庫を閉めた。
「黒瀬んとこ行っとったんか」
「なんでわかるんです」
「港のほうから歩いてきたやろ」
それだけだった。
透は机へ座った。
「梶さん。宮下トヨさんって知ってます?」
梶は椅子を引きかけて止まった。
「昔の宮下さんとこの?」
「知ってる?」
「顔はな」
透は椅子から身体を起こした。
「どんな人でした?」
「どんな言われてもな」
梶は座り、空の湯呑みを机へ置いた。
「ハルさんとよう一緒におった人や」
黒瀬と同じ話だった。
「十五年前のあと、見てません?」
「ああ」
「どこかに親戚は?」
梶が少し考える。
「町の外に妹がおったいう話は聞いたことある」
透はすぐには手を動かさなかった。
「どこです?」
「そこまで知らん」
「名前は?」
「知らん」
梶は面倒そうに眉を寄せた。
「昔の話やぞ。わしを電話帳みたいに使うな」
透は机から紙を取った。
「妹がいた、までは覚えてるんですね」
「たぶんな」
「たぶん?」
「確かめてから動け」
梶は自分で麦茶を注いだ。
透は紙へ何も書かなかった。
確かめてからでいい。
※
千鶴が戻ってきたところで、透は宮下家へ電話をかけた。
出たのはハルの娘だった。
透は葬儀の前に何度も連絡することを詫びたかったが、最初の言葉が出なかった。
少し間を置いて、本題から話した。
「お母さんの昔の友人について、もう一つ聞きたいことがあります」
『トヨさんですか』
透は受話器を持ち直した。
「知ってるんですか」
『名前は。母から何度か聞きました』
「トヨさんに、妹がいたって聞いたことありませんか」
電話の向こうで、娘はすぐには答えなかった。
『妹かどうかはわかりません。でも』
紙をめくる音がした。
『昔、母が年賀状を出していた人の中に、トヨさんと同じ名字の人がいたと思います』
透は机の紙へ手を伸ばした。
「残ってますか」
『母の住所録なら』
「見せてもらえますか」
『はい。家にあります』
透は時計を見た。
「これから伺っても?」
娘は少し考えてから了承した。
受話器を置く。
千鶴が向かいから訊いた。
「何かありました?」
「ハルさんの住所録が残ってる」
透は机の上の工具を端へ寄せた。
梶が麦茶を飲みながら言う。
「ほな早よ行け」
「言われなくても行きます」
「麦茶飲んでから行け」
透は冷蔵庫を開けた。




