魔力ゼロの転生令嬢、内側から魔法を作り直して人生を再構築する ~才能ゼロでも諦めない。自分の中から“魔法体系”を発明したら、気づけば最強でした~
## ■ プロローグ 灰色の終点
三十年、逃げ続けた。
引き出しの奥に、妹の結婚式の招待状がある。封を開けていない。手が届くところにある。でも手が伸びない。そういう三十年だった。
コンビニへの往復だけが外出だった。月に二度あれば良い方だ。母の声が扉の向こうから届くたびに、毛布を頭まで引っ張り込んだ。呼吸だけを静かにして——やり過ごした。
最後の外出はコンビニだった。レジを出て、信号が青に変わる。後ろから自転車の風切り音。足がもつれた。
どん、と空気が揺れた。
痛みはなかった。驚きだけがあった——これほど呆気ないのか、と。
〝ごめんなさい〟
誰に言ったかは、わからなかった。
最後の一秒、リナはたった一つのことを思った。
——招待状を、まだ開けていない。
その思いが尾を引いた先に、光があった。
-----
## ■ 第一章 血の中に火がある
「三女——魔力計測値、ゼロ」
医師カルバン・ルッツの声が、板張りの廊下を転がった。ざわ、と動揺の気配が広がる。
父アルフレッド・ヴァン・ソレイユは書類を静かに受け取り、一言も発しなかった。母エレナは泣かなかった。ただリナの頬を、ゆっくりと、長い時間撫で続けた。
その指の温度が。
前世のどんな記憶にも存在しない種類のものだった。
チャンスかもしれない、と思いかけた瞬間——リナは止まった。
違う。その思考回路が、ダメなんだ。
「取り返す」「証明する」「今度こそ」——言葉の裏には必ず〝失敗した過去〟がへばりついている。前世もずっとやり続けた。結果が四畳半だった。チャンスかどうかより先に、今この瞬間に何ができるかだけを考える。
魔力がない。ならば——作れないか。
一歳から、リナは身体の内側を観察し始めた。背骨の奥を、水脈を探す感覚で静かに聴く。前世に魔法の知識はなかった。でもこの身体には微かな「気配」があった。ぴりぴり、と神経の末端を引っ掻くような感触。微量だが、確かに動く何かが。
三歳の春、侍女ローラが窓を拭く隣で、リナは床の小石に指先を当てた。息を吐く。ゆっくりと。
——ぴく。
石が一センチ動いた。
「リナお嬢様、何かございましたか」ローラが振り返った。ふわり、石鹸の匂い。リナは小石をそっと掌に隠した。「なんでもないです」「もうすぐ昼食ですよ。お姉様方もお揃いになりますから」
その三日後——石は動かなかった。
指先から気配が消えていた。ぴりぴり、というあの感触が、どこかへ行ってしまっていた。リナは午前中ずっと石を凝視し続けて、それでも石は動かなかった。
怖かった。気のせいだったのかもしれない、という声が頭の中で鳴り始めた。やっぱり無理だった、という声も続いた。どちらも、前世で聞き続けた声だった。
でも。
今世では、一つだけ事実がある。三日前、石は動いた。
それは起きた。消えない。
五日後、リナはまた指先を当てた。今度は力を込めなかった。ただ聴いた。水脈を探す感覚で、静かに。
——ぴり、と信号が来た。
石が二センチ動いた。
誰も見ていなかった。リナはこっそり笑った。前世でも今世でも、めったにしない種類の笑い方で。
姉が二人いた。長姉セラフィアは七歳年上——氷のように整った顔と機械のように正確な魔法を持つ。挨拶だけは律儀に交わすが、それ以上の言葉を寄越したことが一度もない。次姉リリスは四歳年上で、考えることと喋ることの間に一ミリも隙間がない。
昼食の席でリリスはリナの横に座るなり言った。「ねえ三女ちゃん!今日の魔法授業で一番だったんだよ!先生が——」「おめでとうございます」「……返事が早すぎる!ちゃんと聞いてた?」「聞いていました。先生が褒めてくれた、というところまで」「続きがあるの!」
向かいでセラフィアがスープを静かに飲んでいた。目は合わせない。でも耳は向けている。そのことを、リナは三歳にして把握していた。
ある夜、廊下でセラフィアとすれ違った。灯りが少なくて、互いの顔がよく見えなかった。ぴたり、とセラフィアが止まった。「……書庫の本を動かしているな」「すみません」「謝っていない。確認した」
沈黙。ろうそくがゆら、と揺れた。「——オルドが来る前から読んでいたのか」「はい」
セラフィアは何も言わなかった。ただ少し間を置いて、また歩き始めた。
三歩進んだところで止まった。振り返らないまま、何かを一冊、廊下の端の燭台の横に置いた。こつ、と固い音がした。
「……読み終えたら戻せ」
それだけ言って、消えた。
リナは近づいた。薄い光の中で表紙を確認した——『魔素流動の基礎:辺境特例区域における変動理論』。書庫にあった三冊しかない希少本の一冊だ。
胸の奥で、何かが、ぽとり、と落ちた。
五歳の秋、家庭教師オルド・ミラーが来た。白髪交じりの初老。背が少し曲がっていた。帝都の魔法学院への赴任を断り続け、辺境の子供たちだけを教え続ける変わり者の魔法学者だ。靴が左右でわずかに違う色をしていた。
玄関でリナと目が合った瞬間、オルドは眉をわずかに動かした。値踏みではなく——面白がっている目だった。
「リナ様、まず一つ試させていただきます」そう言って、水の入った小瓶を取り出した。「これを一度だけ、揺らさずに五センチ持ち上げてください」
魔力ゼロの子供への試験としては、意地が悪い。リナは黙って瓶の前に手を伸ばした。
聴く。ぴりぴり、と信号を待つ。
——ぽく、と瓶が浮いた。五センチ。水はほとんど揺れていなかった。
「……本日は魔素流動の基礎理論から——」「先生、スウィングフロー理論はリートハルト辺境の気候だと効率が落ちますよね」
ぴたり、とオルドの口が閉じた。
「霧が多いから大気魔素の密度が不安定で、通常の循環式だと誤差が三割近くになります。東部魔法工学大全の第三十二巻に別の試算があったので、そちらを使った方がいいかと思って」「……あの書庫の鍵はどうやって」「ローラさんが毎朝同じ場所に置くので」「毎朝」「隠しているつもりではないと思います」
オルドはしばらく黙ってから、腹の底から笑った。「——では本日から、十年分の授業計画を変更しましょう」
七歳の誕生日、父の書斎に呼ばれた。革と羊皮紙の匂い。暖炉が低く燃え、外は霧雨だった。しとしと、と窓を叩く音。
「お前の魔力診断が変わった」アルフレッドは書類越しにリナを見た。「独自の魔力循環系を構築している。従来理論では説明できない手法で」「はい」「なぜ言わなかった」「言う必要があると思いませんでした」
こつ、こつ、と柱時計が鳴った。アルフレッドが指を組んだ。
「ヴェルドラ王国が辺境への圧力を強めている。ハウプト伯爵家がそれに乗じて我が領の獲得を狙っている。来春、評議会に交渉の申請を出す見込みだ」「……ハウプト家が辺境を」「魔力ゼロの辺境貴族三女は、辺境領弱体化の証拠として使われうる。お前が学院で実績を積めば、それが一つの反証になる。九歳で受験が可能だ」
廊下に出て、一人で考えた。父が推薦するのは利害の一致からだ。それでいい。方向が一致するなら動ける。そう結論づけながら——胸の奥で、もう少し別の何かを期待していた自分が、ぼんやりと見えた。見えたことに、少し疲れた。
その夜、オルドに報告すると、彼は一つだけ訊いた。「リナ様。魔法を学ぶのは、何のためですか」
間があった。リナはそれを正確に考えた。「逃げないためです、たぶん」
オルドはしばらく窓の外を見ていた。霧が窓ガラスをしっとりと覆っていた。
「……学院は、良い場所ですよ」「どういう意味ですか」「自分が何者かを、嫌というほど知ることになる——良い意味でも悪い意味でも、その両方で」
リナはその言葉の意味を、その時はまだ半分しか理解できなかった。
-----
*同じ夜——帝都の評議会棟の一室で、ラジウス・ハウプト伯爵は書類に署名していた。傍らに立つ息子イグナーツへ、一言だけ告げた。「学院に入ったら、ソレイユ家の三女を注視しろ。障害になる前に、芽を摘め」。イグナーツは頷いた。表情は変えなかった。*
-----
## ■ 第二章 審判の三日間
ラディアン魔法学院の入試は三日間ある。筆記、実技、面接。三百名の受験生。
一日目の待合室は石造りで、ひんやりとした空気が充満していた。十一歳以上の受験者で席はほぼ埋まり、九歳のリナは端の席で背筋だけを真っ直ぐにしていた。どこかで誰かが貧乏ゆすりをしていた。その振動が椅子の脚を通してかすかに伝わってくる。古い石と羊皮紙と、大勢の緊張の混じった匂い。
「ねえ、ソレイユ家の人?」
隣の少年だった。整った顔。耳の後ろにペンを挟んでいた——手持ち無沙汰の時の癖だと後に知る。「そうです」「魔力量、何ランク?」「測定不能です」「下の方?」「わかりません。計器が対応していなかったと言われました」「へえ」
好奇心があった。馬鹿にする色は、少なくとも表面には出ていなかった。カイン・アルダンと後に知る人物だ。
待合室の奥では受験生たちが話し込んでいた。「ハウプト家の御曹司が来ているらしい」「ソレイユは辺境だろ、九歳が受けるのか」——リナはそれを、聞いていないふりをしながら聞いていた。
少し離れた席には、背の高い少年が退屈そうに頬杖をついていた。ツヴァイ・バルクハウゼン——帝都貴族の三男で、情報整理の才に長ける。彼はリナの方を一度だけ見て、また視線を外した。情報を整理している目だった。
帝都の大商会カリア商会の娘ネール・カリアは分厚い参考書を静かに読んでいた。飛び級資格を持つ農家出身のレオン・ヴィルは、緊張で顔を蒼白にさせながら隣の席に座っていた。
壁際に一人で立っている少女がいた。フィオナ・セランだ。評議会補佐家出身——つまり、ハウプト家の動きも知っている位置にいる。彼女はリナを見て一度だけ視線を止めた。それから何事もなかったように外を向いた。
「……あの、その計算式、合ってますか」レオンが小声で話しかけてきた。「合っていません。三行目で符号が逆です」「あ——」「試験には出ないと思いますが」「出なくても、気になって」
リナは少し考えてから、正しい式を紙の端に書いた。レオンは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げて、手帳に写した。それだけのことだったが、彼の顔の緊張が少し緩んだのが見えた。
最後列で、イグナーツ・ハウプトがリナを見ていた。隣のクラーラ・ベルンに小声で何かを言った。クラーラが静かに頷いた。二人の視線の意味を、リナはまだ確定させなかった。
二日目、実技試験。水を満たしたガラス管を五本、指定した温度に十秒間保つ。許容誤差±一度。
ぱん、と最初の受験生のガラス管が割れた。またぱん、と割れた。さらにまた。失敗音が続く中、リナは五本全てを維持した。誤差±〇・一度以内で。
ざわ、とざわめきが起きた。グレン・ハーヴェイ教授がペンを置いた。「リナ・ヴァン・ソレイユ。独自循環系——オルド・ミラーの生徒か」「そうです」「理論値を超えている。仕組みを説明できるか」
「魔力を一度分解して、周囲の気象魔素の密度に合わせて再構成します。辺境の霧の中で育ったので、不安定な環境への対応を先に覚えました」
グレン教授のペンが速くなった。ツヴァイがこちらを見て、静かにメモを取っていた。カインが耳の後ろのペンを取り出して、また戻した。
三日目、面接。部屋には二人の教授がいた。グレン・ハーヴェイと、アルテア・シルヴィア教授。白髪に近い銀髪で、言葉の重さを知っている種類の静けさを持っていた。指に古い傷跡があった——どこかで何かを失った人間の、記憶のような傷だ。
標準的な質問の後、アルテア教授が間を置いてから訊いた。「なぜ魔法を学ぼうと思いましたか」
リナは考えた。嘘をついても見抜かれそうだと感じた。「逃げないためです」「逃げない、とは」「以前——うまく言えませんが、何もできなかった時期があります。続けることができなかった。魔法を学ぶのは、その反論のつもりです。自分への」「自分への反論」「はい。逃げずにいられた事実を積み上げると、それが証拠になるかと思って」
アルテア教授は長い間リナを見た。何も書かなかった。グレン教授はペンを持ったまま止まっていた。「合格したら、最初に私の授業を受けなさい。話を聞かせてください」
廊下に出ると、カインが壁にもたれていた。「お前、受かったな」「部屋の外まで声が聞こえていましたか」「聞こえた」「……恥ずかしい」「そうか?俺は面白かったけど」
軽かった。馬鹿にする質感がなかった。廊下の奥でイグナーツが一度だけこちらを見て、視線を切った。表情は穏やかだった——穏やかすぎた。
-----
## ■ 第三章 信頼は地雷原の中にある
学院生活は、想定よりずっと複雑だった。
同室になったミラ・ティアーズは回復魔法の使い手で、よく喋り、よく笑い、よくリナの机の角に寄りかかりながら「今日何してた?」と訊いてきた。「勉強です」「何の?」「魔素密度の統計的変動モデルの検証です」「……リナちゃん、本当に返事が短いんだね」「そうですか」「今も短い!」
ミラはめげなかった。その明るさが攻撃性を持たなかった。むしろその無防備さが怖かった。傷つけてしまいそうで。
ある朝、廊下でフィオナ・セランとすれ違った。フィオナは立ち止まらず、声だけを小さく落とした。「あなた、一週間で院内の力学を読んだわね。イグナーツが早くもあなたのことを調べているから、気をつけて」「……ありがとうございます」「別に。面白くなりそうだから」廊下の角で消えた。
グループは自然に形成された。カイン、ミラ、ツヴァイ・バルクハウゼン、上級生のソール・グレイシャー。ソールは温度管理系の専門家で、口数が少なく、必要なことだけを正確に言う人間だった。最初の顔合わせで「データ管理は俺がやる」と言って、それ以上は言わなかった。それだけで充分だった。
ツヴァイが開口一番に言った。「ソレイユ三女は使えそうですね。グループ課題で組みましょう。成果は私の名前でまとめることになりますが——構いませんか」「構いません」
ツヴァイが少し意外そうな顔をした。「……正直な方ですね」「お互いに利害があります。持ちつ持たれつが最も正確に機能する表現かと」「貴族としては、もう少し回りくどく言った方が印象が良いですが」「参考にします」
横でカインが小さく溜め息をついた。「……そこは参考にしなくていいと思う」ミラが笑った。「ともかく始めましょう」とソールが言った。
一週間後、リナはグループから距離を置くことを考えた。
ツヴァイがリナの試算を自分の名前でレポートに組み込んだ時、「構わない」とはっきり同意したはずだった。利害の一致。でも夜になって、引き出しの奥に何かを押し込むような感覚が蘇ってきた。あの招待状と同じ感触だった。関わっていたら傷つく、という合図として機能しているあの感触。
朝になって、リナはグループの作業場に顔を出した。
カインが耳の後ろのペンを取って「遅い」と言った。ツヴァイが「昨晩のデータ検証、リナ様の視点がないと詰められませんでした」と言った。ミラが「リナちゃん!計算部分の連携、私だと全然わかんなくて困ってたんだよ」と言った。
誰も、昨晩のリナの不在を責めなかった。ただ必要だと言った。
それが、何かを少し緩めた。
アルテア教授の「魔法文明史概論」初回。黒板に一行だけ書かれた。〝魔法は何のためにあるか〟
ネールが「経済的価値の根幹です」と答えた。フィオナが「力の体系であり、文明の礎です」と答えた。レオンが「戦争のためだと思います」と答えて、教室が少し笑った。タリア・ヴェルトが「秩序の維持のため」と静かに答えた。その声で、室内の空気が変わった。アルテア教授は全員の答えを黒板に書き連ねて、一言だけ言った。「どれも正しい。どれも不十分」
授業後、リナは呼び止められた。「入試で言っていたこと、覚えていますか」「逃げないため、と言いました」「手段の魔法は折れやすい。手段が崩れた時、一緒に折れる。覚えておきなさい」
その夜、眠れなかった。前世でも何かを手段にした。人間関係を手段にして、うまくいかなくて、全部やめた。今世での魔法も、逃げないための手段という位置づけになっている。では——目的は。まだ言葉にできていなかった。
十月、観測地点への移動中、ミラがリナの隣を歩いた。秋の道は落ち葉がさくさくと鳴っていた。霧がうっすらと森の縁に漂っていた。辺境の霧とは種類が違う——あちらはもっと重く、骨まで染みてくるような霧だ。
「ねえ。姉妹って仲いい?」「普通です」「普通って難しいよね。私、妹のマリアと全然合わなくて。向こうから嫌いって言ってくるし」「……大変ですね」「でも好きだから、嫌いって言われてもまあいっかって思ってる」「怖くないですか」「何が?」「嫌いって言われることが」
ミラは少し考えた。珍しく真剣な顔をした。「怖いよ。めちゃくちゃ怖い。でも——怖いのと、伝えないのは別の話じゃない?」
その答えが、リナの中に刺さった。
怖いのと、行動しないのは別。前世では怖いから扉を閉めた。怖いという感情と、動かないという選択は——別のものだ。「……ミラさんは、強いんですね」「強くないよ。諦めが悪いだけ」ミラは笑った。リナはその笑い方を、うまく返せなかった。
カインがリナの隣を歩いた。「お前、ツヴァイに使われてると思わないのか」「逆では。ツヴァイが私を使っています」「気にしないのか」「お互いに利益がある。使われているなら、その分だけ使い返せばいい」
カインがしばらく黙った。「……お前、信用してる人間が一人もいないよな」
答えられなかった。信用したいが、できていない、の方が近かった。先手を打って傷つかないようにする。三十年間それをやってきた。結果が四畳半だった。「……練習中です」「何が」「信用することが」
カインが少し間を置いた。「変な答え方するやつだな」批判ではなかった。観察だった。
-----
*同じ頃——帝都の内務省では、辺境ソレイユ領に関する報告書が回覧されていた。〝三女の学院における動向を継続監視中。阻害要因になりうると判断。対処を具申する〟。評議会補佐官のセラン卿はその写しを一部、娘フィオナへの書状に挟んだ。理由は書かなかった。*
-----
## ■ 第四章 底が抜ける夜
十一月の末、北棟で火災が発生した。
どん——という重い音が夜半に響き、次の瞬間には空が赤く染まった。ごん、ごん、と鐘が連続して鳴り始める。魔法実験室の制御暴走による事故で、軽傷者三名、建物の一部損傷。学院全体が騒然とした。
後で知ったことだが、北棟の区画はハウプト家の奨学生三名が担当していた。フィオナが「原因が出るまでは誰も得をしない火事ね」とつぶやいたことを、リナは覚えている。翌朝、タリア・ヴェルトはひとりで現場を見ていた。何かを確認するような目で。
問題はその翌朝だった。課題の最終提出期限が、施設点検の影響で一週間繰り上がると告示が出た。
「ソール先輩の整理データがない」ツヴァイが言った。「あれがなければ系統立てた提出ができません」
カインがリナを見た。「お前の分析ノート、見せてもらえるか。あれがあれば再構築できるかもしれない」
リナは動けなかった。
ノートは、見せられなかった。
分析データと、内面の記録が入り混じっていたのだ。魔素の計算式の間に、前世の後悔。〝誰かが部屋に来ても声が出なかった日が三百七十二日あった〟という記録。信用したいが信用できない堂々巡り。分けて書くべきだった。でも深夜に作業していると境界線が曖昧になる。誰かに見せることを、最初から想定していなかった。
「……少し、待ってください」「一週間しかない」ツヴァイが言った。「リナちゃん、無理に言わなくていいよ」ミラが横から言った。
その一言が逆に胸を刺した。無理に言わなくていい——でも言わなければチームが困る。どちらの痛みも本物だった。
そこへ扉が開いた。
イグナーツ・ハウプトだった。クラーラ・ベルンを伴って、穏やかな顔で入ってきた。「ちょうどよかった」落ち着いた声だった。「ソレイユさん、あなたのノートを少し拝見できますか。参照資料として学院全体で共有していただければ、今期の全チームの評価向上に貢献できます。公益のために」
ぴん、と空気が張り詰めた。
「それは」カインが一歩前に出た。「チームの私的資料だ。公益の名目で他チームに見せる理由はない」「カイン・アルダン殿は、ソレイユさんの資料に何か問題でもあると?」「あるとかないとかじゃなく、権限がないって言ってる」
イグナーツがリナを見た。「ご本人の意思次第ではないですか」
リナは思考を切り替えた。感情を後ろに置いた。
イグナーツの目的は資料の取得ではない。ノートの内容を見て、リナの弱点を探ることだ。内面の記録が計算式の間に混在していることまで知っているかはわからない。でも知っている可能性がある。
「お断りします」
声が——揺れなかった。
「理由は?」「提出期限まで一週間あります。その間にチーム内で資料を整理する予定です。他チームへの提供は、その後に学院規定に従って検討します」
イグナーツが少し目を細めた。「……規定通りに、ね」「はい。他に御用でしょうか」
沈黙があった。クラーラが小さく溜め息をついた。二人は出ていった。とん、と扉が閉まった。
「リナちゃん——」「大丈夫です」「全然大丈夫じゃない顔してる」「……そうですか」
その夜、ミラは友人のテア・ロスマンのところに泊まりに行った。一人になってから、リナはノートを開いた。
分析データだけを別に綴じようとした。できる作業だった。でも手が止まった。
〝どうせ見られる。どうせ気持ち悪いと思われる。どうせ離れていく〟
前世の声が戻ってきた。引きこもっていた頃の声が、この身体に流れ込んでくる。別の人生を生きているはずなのに、同じ声が同じ速度で、同じところから湧いてくる。三十年分の沈殿は、転生しても消えなかった。
机の上に手を置いた。ぶる、と手が震えた。
扉がノックされた。「……リナ?」カインだった。「何ですか」「来なかったから。ミラが心配してた」「心配しなくていいです」「そういうのは本人に言え」廊下越しの沈黙。「……入っていいか」
リナは答えなかった。でも——鍵をかけなかった。
カインが入ってきた。部屋を一巡見回して、リナを見て、机の上のノートを見た。
最初、カインは言った。「見せてくれたら、できることがあるかもしれない」
それを聞いた瞬間、リナの手が固まった。
カインが気づいた。すぐに言い直した。「——いや、違う。俺には見せなくていい」
リナが顔を上げた。
「チームに必要なデータのページだけ、複写してくれたらいい。俺が引き取る。お前のノートは誰も見ない」「……なぜ」「なんで信用できないのか知らないけど」カインは窓の外を向いた。「今回は、俺がそっちに動く方が早い。効率の話だ」
感情の込め方がなかった。親切です、という顔もしていなかった。効率の話として言った。それが、なぜか楽だった。感情を受け取る準備ができていない時に、感情を押しつけられないことの——楽さだった。
「……三十分待ってもらえますか」「廊下で待ってる」
複写しながら考えた。信用を強制されていない。あなたは信用しなくていい、俺が動く。それは少し違う種類の言葉だった。それだけで、少し動けた。
複写したページを廊下に持っていくと、カインは黙って受け取った。「明日の朝までに整理する」「……ありがとう」
カインが少し止まった。「徹夜になるかもしれないけど、まあいい」「睡眠は大事ですよ」「余計なお世話」「あなたが言い始めたことを言い返しているだけです」
間があった。カインがわずかに口元を動かした——笑ったとも違う、でも怒ってもいない種類の動き方で。「変な奴だな」「……よく言われます」「言われたことないと思うけど」「そうかもしれません」
それだけだった。でも——少しだけ軽くなった。
翌朝、再構成データは完成していた。ツヴァイは「完璧です」と言った。表情に珍しく本物の安堵があった。ミラは「カインすごい!」と叫んだ。ネールが「おめでとうございます」と静かに頭を下げた。
ソールから療養先の手紙が届いた。〝自分のデータは別ルートで送る手配をした。すまない〟——字が少し乱れていた。
提出は締切の一日前に終わった。グレン教授から「今期最高評価候補」という通知が来た。リナはそれを読んで、不恰好だが本物の笑い方で笑った。「笑えるじゃないか」とカインが横で言った。「今も短い!」とミラが向こうから叫んだ。
それだけのことが、それだけのことだった。でも——充分だった。
-----
## ■ 第五章 怖いのと、引き下がるのは別
提出から三日後、イグナーツが廊下でリナを呼び止めた。
放課後の西棟。石の廊下に夕日が斜めに差し込み、鳩がぽつぽつと鳴いていた。人の通りが少なかった。壁際にタリア・ヴェルトが本を開いていた——偶然にしては、位置が良すぎた。
「ソレイユさん。先日は礼を失した。お詫びを」
リナは待った。この人間は謝罪を目的に来ていない。
「あなたの実技スコアを、正直に言えば——理解できていません」イグナーツの口調が変わった。「独自循環系というのが実際に存在するのか。再現可能性の検証がされていない」「正当な疑問です」「では説明できますか」「できます。ただし今ここで口頭でするものではありません。グレン教授を通じて正式に申請してください。その方がお互いに有益です」
イグナーツが少し黙った。「……あなたは、怖くないのですか」「何が」「私は相応の後ろ盾がある。あなたを潰せる立場にいる。それを知っていて、なぜそんなに落ち着いていられる」
「怖いです」
イグナーツが目を細めた。
「ただ、怖いのと引き下がるのは別の話なので」
ミラから聞いた言葉が、ここで出てきた。怖いのと、伝えないのは別。前世では怖いから全部やめていた。今世では——怖いまま、立っていることができる。
イグナーツはしばらく沈黙した。それから、口元をわずかに動かした。「面白い。強がりではなく、本当にそう思っている」「強がりではありません」「——わかりました。正式ルートで申請します」「公正な方法なら」
イグナーツは去った。廊下の角で消えた瞬間、リナは壁に手をついた。ぶる、と膝が震えた。どっどっ、と心臓がうるさく打っていた。怖くなかったというのは嘘だった。でも——声は揺れなかった。足は動いた。
タリアが本を閉じて、近づいてきた。「……あの人、初めてまともに折れましたよ」「折れた、とは思いません。撤退したんだと思います」「どう違うんですか」「折れた人間は戻ってきません。撤退した人間は、次に別の手で来ます」
タリアが少しだけ目を細めた。「……あなたは、それが怖くないんですか」「怖いです」「それでも」「それでも」
タリアは少しの間、リナを見た。「——なるほど」何も言わずに歩き去った。その背中を見送りながら、リナは「この人は、同じ問いを自分にもしている」と思った。
三日後、フィオナがリナを捕まえた。「イグナーツが態度を変えた。あなたは何をしたんですか」「何もしていません。規定通りに話しただけです」「それが難しいんですよ、あの人相手には」フィオナは少し目を細めた。「あなたは稀なタイプですね。感情を排除しているわけでもなく、感情に流されているわけでもない」「練習中です」「何の」「人間関係が」
フィオナはしばらく何も言わなかった。それから、ほんの少しだけ笑った。「じゃあ、私も練習台にさせてください」
その申し出の意味を、リナはすぐには理解できなかった。でも、受け取ることができた。「……よろしくお願いします」
その翌週、ヴァレリア研究教授が廊下でリナを呼び止めた。「リナ・ヴァン・ソレイユ、春の大陸合同観測に参加を推薦したい。辺境特有の気象魔素データは希少で、グレン教授とアルテア教授の推薦状も出ている」
リナは一拍おいてから答えた。「参加します」
即答だった。一年前の自分では、ありえない速度だった。
帰り道、カインに伝えた。「春の合同観測に推薦された」「へえ」「参加することにしました」「驚かない。お前ならそうすると思ってた」「……なぜですか」「前より少し、外を向いてる気がするから」
カインはそれだけ言って歩き続けた。リナはその背中を三秒ほど見た。何と言えばいいかわからなかった。でも——嫌な種類の沈黙ではなかった。
-----
## ■ エピローグ 積み重ねという名の魔法
冬になった。
辺境の山に雪が積もった、と母エレナから手紙が来た。
〝リナ、元気ですか。お父様がリナの評価を聞いてきて、何も言いませんでした。でも夕食のスープを一口多く飲んでいたので、それが答えだと思います〟
リナはその手紙を三回読んだ。父の言葉は今も解読が難しかった。でもエレナはその沈黙を翻訳してくれた。翻訳できる人間が間にいることが、こんなにありがたいのだと知った。前世では、その役割を誰も担えなかった。
廊下でセラフィア姉とすれ違った。向こうから来た。すれ違う直前、セラフィアが小さく言った。「……最近、あなたの名前をよく聞くようになった」
それだけだった。立ち止まらなかった。リナも振り返らなかった。
でも、胸の中に何かが、ぽとり、と落ちた。
重くはなかった。温かかった。あの廊下で、暗がりの中に一冊の本を置いてくれた時と、同じ温度だった。
アルテア教授の授業の終わりに、リナは手を挙げた。「先生、手段の魔法は折れやすいとおっしゃいましたね。では、何を目的にすればいいのですか」
教授は少し目を細めた。「答えは人によります。でも、あなたの場合は——もうわかっているのではないかと思います」
リナは黙って考えた。
今世では、指が動いた。足が動いた。声が出た。怖いまま立っていることができた。誰かの言葉を受け取って、少しだけ開いた。
目的を言葉にするとしたら。
〝逃げずにいた事実を、積み重ねること〟
それが答えだった。
まだトラウマは消えていない。前世の声が戻ってくる夜はある。信用する前に扉を閉めそうになることは、これからも続くだろう。カインを信用して傷つく日が来ないとは言えない。ミラの無防備さを傷つけてしまうことがないとは言えない。春の大陸観測で、知らない人間と知らない霧の中に入ることになる。
でも。
昨日より今日、一センチだけ先に進んでいる。それを誰かに証明する必要はない。積み重ねは、自分の中にある。
リナは窓の外を見た。学院の庭に薄く雪が積もっていた。辺境の山と、同じ雪だった。
魔力を指先に集め、小さな光球を一つ作った。
——ぽわ、と温かく、掌の上で輝いた。
三歳の春、小石がぴく、と動いた。五日後、また動いた。あの日から積み重ねてきたものが、今この掌の中にある。それは誰かに認めてもらう必要がなかった。最初から——自分のためのものだった。
光球を、宙に放した。細い光の筋が冬の夜に溶けていくのを、しばらく見ていた。
プロローグで——招待状を、まだ開けていない、と思った。
今は。
扉を、開けた。
その事実が、掌の光より、ずっと温かかった。
春には、大陸の向こうへ行く。知らない魔素がある。知らない霧がある。知らない人間がいる。全部怖い。
全部、行ける気がした。




