植物に一番近い場所
この世には、植物に近い人と、遠い人がいる。
それは、植物を守ろうとするか、踏み荒らすかの違いだ。
都会の喧騒に疲れ果てた菜子(33)は、
ある日、すべてを投げ出して森の奥へと逃げ込んだ。
会社での上司の理不尽な扱い、友人たちの表面的な付き合い。
毎朝鏡に映る自分の疲れた顔・・・それらが彼女の心を壊すのは容易かった。
「人間なんて嫌いだ」
そう呟きながら、彼女は地図を頼りに、人の気配が消えた山道を歩いた。
陽光が木々の隙間から木漏れ日となって地面を照らしている。
湿り気を帯びた空気、土と葉の匂いが胸いっぱいに広がる。
ある日の午後、菜子は森の奥で小さな少年を見つけた。
るい(5)。
彼は木の根元に絡まった蔓に足を引っかけ、転んで動けなくなっていた。
服は泥だらけで、膝に擦り傷ができていた。
森と同化しているようにも見えた。
「大丈夫? 」
菜子が助けに入ると
少年は大きな黒い瞳で彼女を見つめ、ぽつりと呟いた。
「ありがと・・・お姉ちゃん優しいね」
「そんなことないわ」
「優しくて、静かで落ち着く」
「え・・・」
「でもね、僕は大丈夫なんだ」
「でも、血が出てる」
菜子が心配そうに顔を覗き込む。
「付いてきて」
そう言って少年は近くの木に近付き、手で触れた。
すると気が光を放ち少年を包み込んだ。
すると・・・。
「うそ、怪我が治った・・・」
「ね?」
彼は森に住む謎の少年だった。
どこから来たのか、親はいるのか、菜子が尋ねても、るいはただ微笑んで「ここが家だよ」と答えるだけだった。
この子は森の子どもなんだ。
先程の現象を見たら誰だってそう思わざるを得ない。
「僕はるい」
「私は菜子、よろしくね」
挨拶を終えると菜子は一際大きな木に案内された。
幹の太さは大人が三人で囲んでも届かないほど大きい。
他の木よりも一回りも二回りも大きいようだ。
根元にぽっかりと開いた洞は、まるで自然が作った入り口のようだった。
中を覗くと、そこには不思議な部屋があった。
木の内壁は柔らかさを感じるような自然で滑らかな作りで、
枯れ枝を蔓で編んだ椅子とテーブル、小さな棚、藁を詰めたベッド。
窓代わりの裂け目からは、太陽の柔らかな光が差し込む。
まるでこの木が祝福してくれているかのようだった。
朝、菜子が目を覚ますと、るいが小さな手で摘んだ野花がテーブルの上に置かれている。
「今日も元気でいてね」
その言葉に、菜子は自然と笑みがこぼれる。
都会では、誰もが互いを踏みつけ、傷つけ、すぐに忘れていく。
自分も同じだ。
忙しさを理由に家族の電話を後回しにして、友人の悩みを聞き流した。
ここにいるこの時間は、
なんて優しい時間なんだろう。
二人は一緒に畑を耕し、川で水を汲み、収穫した野菜を木の部屋で煮て食べる。
味付けは塩だけ。
それなのにどんな高級レストランより美味しく感じた。
夜は、ホタルの光で淡く照らされた木の空間で静かに本を読む。
心が少しずつ癒えていく。
朝は木漏れ日とクロウタドリの歌声で目覚め、夜は木の隙間から星空を見上げながらフクロウの鳴き声で眠りに着く。
そんな日々が続いた。
ある日、強い風が森を襲った。
畑の苗が倒れそうになる。
るいは小さな体で必死に支え、菜子は土を固めて根を固定した。
「一緒に守ろうね」
「うん!」
風が収まった後、二人は木の部屋で寄り添って座っていた。
外では、踏みつけられた草が、再びゆっくりと頭をもたげ始めていた。
菜子はもう、都会に戻るつもりはなかった。
るいと共に生きる。
この森で、植物のように強く、優しく、静かに生きていく。
植物に一番近いこの場所で。




