第7話 「ガラスの舞台裏」
朝から、会場の空気は張りつめていた。
広いガラスホールのステージ裏では、スタッフたちが無言でケーブルを這わせ、照明を点検している。
汗を拭う間もなく、次々と指示が飛ぶ。
「星野玲さんのマイク、特注品をリハで使います。ほかの出場者は共用で」
淡々と告げられる言葉に、誰も異を唱えなかった。
それが、ここでの“普通”だった。
「……今年も、決まりなんだろうな」
音響ブースの若手スタッフがぼそりとつぶやく。
隣にいたベテランが小さく肩をすくめた。
「お前、初めての関東大会か。毎年そんなもんだよ。上から決めてんだ、最優秀。俺たちの仕事は、段取りを整えるだけさ」
「でも、見たんですよ。昨日のリハで出てた“伊豆の子”。詩って名前。あの子、すごかったですよ」
若手の目は真っ直ぐだった。
ベテランはしばし黙り、やがて溜息をつく。
「……そういう子、毎年いる。けどな、ここじゃ“上手い”だけじゃダメなんだ」
外ではリハーサルが進み、スタッフの無線が飛び交う。
機械的な声の合間に、誰かのため息が混じった。
光の向こうに立つ者と、影に埋もれる者。
ステージは、最初から二層に分かれていた。
その頃、控室の一番奥。
地方大会から同行してきた年配の審査員・川原は、書類の束を前にして腕を組んでいた。
審査表には、スポンサー企業のロゴがびっしりと並んでいる。
そこに添えられたメモには、赤い字でこう書かれていた。
> 「星野玲――推薦枠」
川原は静かに目を閉じた。
「推薦」という言葉の意味を、嫌というほど知っている。
上層部が推す者。
メディア露出、企業との契約、タイアップ。
どんなに“本物”が現れても、ここでは勝てない。
だが彼の頭には、昨日のリハで聴いた詩の歌声が残っていた。
技術ではない。心を震わせる何かが、あの少女にはあった。
川原は、ボールペンの先を握りしめる。
書きかけの採点表の隅に、ほんのわずかに“+1”と書き足した。
それが何の意味も持たないとわかっていても、せめてもの抵抗だった。
昼を過ぎると、会場の外では報道陣が列を作り始めた。
「星野玲、今年も来ますか?」
「関東大会なのに、全国紙の記者まで来てるぞ」
観客の大半は、すでに“玲を見に来た”人たちだった。
広報担当の若い女性が、スポンサー代表に確認する。
「詩さんという子、急遽エントリーされたようですが……」
「構わないよ。どうせ上がらない」
書類の山をめくりながら、代表はあっさりと答えた。
「星野玲を一位に。二位以下は話題づくりで振り分ける。地方色を出せば、あとで“多様性”の宣伝にもなるだろ」
彼の指が、詩の名前の上で止まった。
「……伊豆? いいね。観光局とタイアップ予定がある。
あの子を“惜しかった子”として紹介しておけ」
誰かの未来が、机の上のメモ一枚で決まっていった。
夕方、ホールの中では、照明リハーサルが始まった。
「玲さんのライト、3000ケルビンで統一。ほかは標準設定で」
若手の照明技師が尋ねた。
「統一って……他の子の照明、少し暗く見えますけど」
「いいんだ。主役を際立たせるための“演出”だ」
技師は唇を噛んだ。
光を操る仕事をしているのに、正しい方向へ光を当てられない。
だが、指示に逆らえば自分が消える。
“照らされる者”と“照らすだけの者”――その差は、いつも絶対だった。
一方、控室の隅では、詩が自分の歌詞カードを見つめていた。
まだ高校生の面影が残るその手が、少しだけ震えている。
声をかけたのは、同じ出場者の少女だった。
「緊張してるの?」
「うん。でも……ここに来られただけで嬉しい」
詩の笑顔は、まっすぐで、飾り気がなかった。
それがかえって、痛々しく映った。
少女は思わず視線をそらす。
自分はもう、最初から“負け”を知っている。
玲が来る限り、誰にも勝ちはない。
それでも、ステージには立たなきゃならない。
「がんばって」
少女が小さくつぶやくと、詩は嬉しそうに頷いた。
その笑顔が、まるで“希望そのもの”のようで、胸が痛んだ。
やがて会場に、ざわめきが走る。
ホールの入り口が開き、白いワンピースの影が差した。
「来たぞ……」
スタッフの一人が呟いた瞬間、場の空気が変わる。
それは歓声ではなく、“息を呑む音”だった。
玲が歩くたび、フラッシュが花のように咲く。
誰もが見惚れ、誰もが敬意を込めて道をあけた。
彼女がそこに立つだけで、すべての演出が完成してしまう。
舞台監督が呟く。
「……やっぱり、特別だな」
隣のスタッフが苦笑した。
「“特別に見せる”よう、俺たちが全部調整してるからな」
その夜、控室の隅で川原はメモ帳を閉じた。
「この大会、何かが変わる気がする」
彼の呟きに、若手スタッフが顔を上げる。
「え?」
「光が当たる場所に、もう一つの光が近づいてる。
星野玲に届かなくても――あの伊豆の子は、確かに何かを持ってる」
窓の外では、夕焼けがガラスの壁を赤く染めていた。
明日、誰が勝つかはもう決まっている。
けれど、誰の心に残るかは、まだ決まっていない。
そして翌日。
二つの太陽が、同じステージに立つ。
それが“偶然”ではなかったことを、この時まだ誰も知らなかった。
――静かに、夜が降りた。




