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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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第4話 静かな再会 ― ペンと映像の狭間で ―



夜更けの静けさが、宗一郎の書斎を包んでいた。

机の上には、編集者・高梨が置いていった茶封筒。

中には「映画化企画書」と記された厚い書類の束がある。


宗一郎は湯呑を手に取り、冷めた茶の香りを確かめるように一口含んだ。

そして、封筒を開く。

製作会社のロゴ、監督の名前、配給予定の映画館リスト――

その整然とした文字列の中に、「キャスト候補一覧」というページがあった。


視線が止まる。

主演候補:「星野玲」。

宗一郎は眉をわずかにひそめ、小さく呟く。


「……知らない名だな」


ページをめくる指が、不意に止まった。

ヒロインの名前が目に入る――「真理子」。


その瞬間、胸の奥で何かが静かに疼いた。


---


かつての記憶が、潮風とともに蘇る。

若き日の宗一郎――まだ「桐原蒼」という筆名で活動していた頃。

取材旅行で訪れた海辺の町。

港の近くの古い喫茶店で、彼女と出会った。


柔らかい声の女性。

「はじめまして、真理子です」


宗一郎はその名を自然に信じた。

彼女は何かを隠しているようでもあり、しかし笑うと不思議な透明感があった。


海沿いを歩きながら、彼は尋ねた。

「いい名前ですね。“真理”って字、どこか希望がある」

すると、彼女は微笑んだ。

「そうね……“真理”って、信じたいもののことかもしれない」


あの笑顔を見た瞬間、宗一郎はその名を胸に刻んだ。

その“真理子”という名前が、後に小説のヒロインへと生まれ変わる。

――それが偽名だったと知るのは、ずっと後のことになる。


---


現実に戻ると、宗一郎は静かに息を吐いた。

「もう一度、書けるだろうか……」


原稿用紙を前にペンを取る。

だが、手がわずかに震え、インクが紙ににじんだ。


「……あの頃の海の匂いが、もう思い出せない」


窓を少し開けると、冷たい夜風が入り込む。

潮の香りに似た匂いがして、遠くで波音の幻が響いた気がした。

宗一郎はその音に耳を澄ませながら、ゆっくりとタイトルを書き記した。


«『再会』»


その筆跡は、かつての若き自分の文字にどこか似ていた。


---


一方その頃――

東京・双葉書房の会議室。


編集者・高梨は、部長と映画プロデューサーの打ち合わせに同席していた。

壁のスクリーンには、鮮やかなポスター案が映し出されている。


«映画『真理子』

主演:星野玲(予定)»


高梨は思わず声を漏らした。

「……え、もう主演、決まってるんですか?」


部長は笑って肩をすくめた。

「世の中、夢を見せるのも仕事だ。オーディションなんて“お祭り”みたいなもんさ」


高梨は苦笑いを浮かべながらも、どこかに釈然としない違和感を覚えた。

――夢を見せるために、現実を少しねじ曲げる。

それがこの業界の“日常”なのかもしれない。


---


その夜。

宗一郎の部屋では、机の上のランプが淡く灯っていた。

白い原稿用紙の一行目に記された『再会』という文字が、静かに光を返している。


同じ時間、東京の街の片隅。

星野玲は小さなアパートの鏡の前で、脚本を手に台詞を練習していた。

「――“真理子”は、きっと諦めなかった」


その声には、まだ誰も知らない強い意志が宿っていた。


宗一郎と玲。

遠く離れた二人が、それぞれの夜に“物語”と向き合っている。

まだ出会っていない二つの運命が、静かに交わる瞬間を待ちながら――。

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