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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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3/14

【第3話 訪問者 ― 過去を知る若き編集者 ―】



昼下がりの陽が、施設の中庭を斜めに照らしていた。

白石宗一郎は、日課のようにベンチに腰かけ、湯気の立つ紅茶をゆっくりと口に運ぶ。

そこへ、職員が慌ただしく近づいてきた。


「白石さん、お客さまがいらしてますよ。出版社の方だそうです」


宗一郎の眉がわずかに動いた。

出版社――その響きが、遠い昔の自分を呼び覚ます。

「……出版社、か」

胸の奥に沈めていた記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。


応接室のドアが開くと、スーツ姿の若い男性が立っていた。

整った髪型に、まだどこか緊張の残る笑み。

手には出版社「双葉書房」の封筒と、小さな花束を抱えている。


「初めまして。双葉書房の高梨翔と申します。突然の訪問、失礼いたします」

「……まあ、座りたまえ。ここは殺風景だが」

宗一郎は少し苦笑しながら、対面の椅子を指した。


高梨は深く頭を下げてから、口を開いた。

「先生が、映画化の件を承諾されたと伺いました。本当に……本当に、うれしく思います」

「承諾、ね。あれは正式なものだったのか。誰かが勝手に決めたのかと思っていたよ」

宗一郎は半ば冗談めかして言ったが、その声には長年の距離感が滲んでいた。


高梨は真剣な表情で、言葉を続けた。

「僕は文芸誌の編集を担当しています。正直に言うと、桐原蒼――いえ、『真理子』という作品が、もう一度世に出ることに強い意味を感じています。

僕の祖母が、あの小説の大ファンだったんです。祖母の本棚には、いつも『真理子』がありました」


宗一郎はわずかに目を細めた。

祖母、という言葉が心に引っかかる。

世代が、もうそんなに変わってしまったのか。


「君の祖母が……そうか。あれを読んでいたのか」

「ええ。祖母の名前も、“真理子”なんです」

高梨は照れくさそうに笑った。

宗一郎の胸の奥で、何かが静かに弾けた。


――“真理子”という名前が、まだこの時代を生きている。

その事実だけで、世界が少し色づいた気がした。


「君は若いのに、古いものを大切にするのだな」

「いい作品は、時間に負けないと思っています」


高梨の言葉に、宗一郎はゆっくり頷いた。

その瞳に、久しく感じなかった熱が宿る。


やがて会話は尽き、高梨は席を立った。

「これは映画企画の資料です。よろしければ、ご覧ください」

封筒を机に置き、深く一礼して出ていく。


扉が閉まると、静寂が戻った。

宗一郎はしばらく動かず、ただ封筒を見つめていた。

やがて、震える指でそれを開く。

中から一枚の資料が滑り落ちた。

――主演候補:星野玲。


宗一郎の唇が、かすかに笑みを形づくる。

「……まだ、誰かが“真理子”を演じようとしているのか」


窓の外、夕暮れが赤く滲んでいた。

机の隅に置かれた一枚の白い原稿用紙。

宗一郎はそれをそっと引き寄せ、鉛筆を取る。


「……もう少しだけ、この世界にいようか」


その言葉は、風に溶けて消えた。

しかし、確かに新しい物語の始まりを告げていた。

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