【第3話 訪問者 ― 過去を知る若き編集者 ―】
昼下がりの陽が、施設の中庭を斜めに照らしていた。
白石宗一郎は、日課のようにベンチに腰かけ、湯気の立つ紅茶をゆっくりと口に運ぶ。
そこへ、職員が慌ただしく近づいてきた。
「白石さん、お客さまがいらしてますよ。出版社の方だそうです」
宗一郎の眉がわずかに動いた。
出版社――その響きが、遠い昔の自分を呼び覚ます。
「……出版社、か」
胸の奥に沈めていた記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。
応接室のドアが開くと、スーツ姿の若い男性が立っていた。
整った髪型に、まだどこか緊張の残る笑み。
手には出版社「双葉書房」の封筒と、小さな花束を抱えている。
「初めまして。双葉書房の高梨翔と申します。突然の訪問、失礼いたします」
「……まあ、座りたまえ。ここは殺風景だが」
宗一郎は少し苦笑しながら、対面の椅子を指した。
高梨は深く頭を下げてから、口を開いた。
「先生が、映画化の件を承諾されたと伺いました。本当に……本当に、うれしく思います」
「承諾、ね。あれは正式なものだったのか。誰かが勝手に決めたのかと思っていたよ」
宗一郎は半ば冗談めかして言ったが、その声には長年の距離感が滲んでいた。
高梨は真剣な表情で、言葉を続けた。
「僕は文芸誌の編集を担当しています。正直に言うと、桐原蒼――いえ、『真理子』という作品が、もう一度世に出ることに強い意味を感じています。
僕の祖母が、あの小説の大ファンだったんです。祖母の本棚には、いつも『真理子』がありました」
宗一郎はわずかに目を細めた。
祖母、という言葉が心に引っかかる。
世代が、もうそんなに変わってしまったのか。
「君の祖母が……そうか。あれを読んでいたのか」
「ええ。祖母の名前も、“真理子”なんです」
高梨は照れくさそうに笑った。
宗一郎の胸の奥で、何かが静かに弾けた。
――“真理子”という名前が、まだこの時代を生きている。
その事実だけで、世界が少し色づいた気がした。
「君は若いのに、古いものを大切にするのだな」
「いい作品は、時間に負けないと思っています」
高梨の言葉に、宗一郎はゆっくり頷いた。
その瞳に、久しく感じなかった熱が宿る。
やがて会話は尽き、高梨は席を立った。
「これは映画企画の資料です。よろしければ、ご覧ください」
封筒を机に置き、深く一礼して出ていく。
扉が閉まると、静寂が戻った。
宗一郎はしばらく動かず、ただ封筒を見つめていた。
やがて、震える指でそれを開く。
中から一枚の資料が滑り落ちた。
――主演候補:星野玲。
宗一郎の唇が、かすかに笑みを形づくる。
「……まだ、誰かが“真理子”を演じようとしているのか」
窓の外、夕暮れが赤く滲んでいた。
机の隅に置かれた一枚の白い原稿用紙。
宗一郎はそれをそっと引き寄せ、鉛筆を取る。
「……もう少しだけ、この世界にいようか」
その言葉は、風に溶けて消えた。
しかし、確かに新しい物語の始まりを告げていた。




