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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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第2話 編集者からの手紙 ― 再び、筆を取る日 ―



 午後の光が、窓辺のレース越しに白石宗一郎の肩を照らしていた。老人ホーム「海の丘苑」は、午後三時になるといつも静まり返る。食堂のテレビも止まり、入所者たちは各々の部屋で居眠りを始める時間だ。


 宗一郎は、机の上の小さなノートを開いたまま、ペン先を宙に浮かせていた。書き出しかけの一文が途中で止まったまま、もう三十分は動かない。

 書くべき言葉はまだ、胸の奥で形を成していなかった。


 ノートの横には、封を切られた茶封筒が置かれている。差出人は「双葉書房 文芸編集部」。宛名の下には、彼の本名――「白石宗一郎」の名が丁寧に記されていた。

 編集者が気を遣って、作家名「桐原蒼」を使わなかったのだろう。もう誰も、彼を“先生”と呼ばなくなって久しい。


 封筒の中には、一通の手紙と、数枚の資料が入っていた。

 手紙の文面は、こう始まっていた。


 > 「桐原蒼先生の代表作『真理子』、映像化のご相談を再度申し上げます。

 > 先生がご健在のうちに、ぜひご判断を――」


 宗一郎は、苦笑した。

 あの作品だけは、長年、どんな誘いも断ってきた。

 物語の中で生き続ける“彼女”を、現実の光にさらしたくなかったのだ。


 けれど、老いというものは、心の頑なさを少しずつ削っていく。

 時折、夜の静けさの中で、あの海辺の笑顔が浮かぶ。

 もう一度だけ、彼女に“日の当たる場所”を見せてやりたい――

 そんな気持ちが、近ごろ胸のどこかに芽生えていた。


 彼は手紙を畳み、窓の外を見やった。

 海は見えないが、風の匂いに潮の気配が混じる。

 ふと、廊下を歩く介護士の声が聞こえた。


 「白石さん、お茶をお持ちしましたよ」

 いつものように、明るくて柔らかな声。

 担当の介護士・佐久間麻衣だった。


 「ありがとう。そこに置いてくれるかね」

 宗一郎は小さく微笑み、湯気の立つ湯飲みに手を伸ばした。

 麻衣は小さく会釈して部屋を出ていく。

 扉が閉まる瞬間、宗一郎はふと、彼女の背中に既視感を覚えた。

 細い肩、優しい仕草――どこか、あの頃の“彼女”に似ている。


 再び机に目を戻す。

 手紙の上に重ねた手のひらが、わずかに震えていた。


 「……映画、ね」


 ペンを取り上げ、ゆっくりとノートを閉じる。

 次の瞬間、彼の胸の奥に小さな炎が灯った。

 もう一度だけ、筆を持ってみようか――

 そんな衝動が、静かな午後の空気を揺らした。


 机の端に積まれた古い原稿用紙には、黄ばんだ紙の上にかすれた文字が残っている。

 ――“真理子”。


 宗一郎は、深く息を吸い込み、そして小さく呟いた。

 「真理子……君なら、どう思うだろうな」


 その呟きは、風に溶けて消えた。

 けれどその瞬間から、止まっていた時間が、ゆっくりと動き出していた。

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