第13話 審査員の視線 ――運命の判定
鳳雅シンフォニア・ドームの夜は、昼間とはまるで別の表情を見せていた。
照明が落ち、客席のほとんどが暗闇に沈むと、舞台中央だけが静かに光を宿して浮かび上がる。
初日の全演奏を終えた空気は、温度を失ったように冷たく、しかしどこか濃密な余韻を孕んでいた。
審査員席では、いよいよ本日の採点作業が始まろうとしていた。
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■ 風間隼のノート
風間隼は、手元のノートをゆっくりと開く。
佐久間詩、星野玲、小林悠……それぞれの名前の横に、彼自身の評価と短いコメントが並んでいる。
(“音程の揺らぎは、弱さに非ず”……)
そう書き込んだ自分の文字を見て、風間は小さく息をついた。
詩の声は未完成だ。まだ粗さもある。
だがその未完成こそが、誰にも代えのきかない色彩を放っていた。
一方で、星野玲の評価ページには、ほとんど迷いがない。
“技術点、表現力ともに満点領域。完成された透明感。”
(だが……完璧だけでは、時代は動かない)
風間はペンを置き、目を閉じた。
ステージに立つ二人の姿が、鮮やかに浮かび上がる。
玲の光、詩の影。
そのどちらが欠けても、この大会は成り立たない――
そんな確信が胸の中にずっと残っている。
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■ 審査会議の始まり
「では、本日の採点と講評のまとめに入りましょう」
主任審査員の落ち着いた声が、会議室に煙のように広がった。
審査員たちは順にコメントを述べていく。
会議室には厚い遮音材が使われており、外のざわめきは届かない。
その密室で、音楽の未来を左右する“判定”が静かに進む。
「北海道代表・小林君は、安定した伸びのある声でしたね。特に高音の抜けが良かった」
「ええ、全国レベルとして十分。ですが、表現面ではまだ安全圏に留まっている印象です」
「次に、静岡代表・佐久間詩さん」
その名前が読み上げられた瞬間、風間の耳が少しだけ熱を帯びた。
「昨日のリハーサルよりも、今日のほうが声の色が深かった。あれは……成長ですかね?」
「“成長しながら歌っている”とでも言うべきか。あの揺らぎは、彼女自身の物語性だ」
「ただし……技術の未熟な部分はまだ否定できません」
議論は白熱した。
しかし、その全てを風間は冷静に聞きながら、自分の意見を伝える準備を整えていた。
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■ 風間の一言
「私は――佐久間詩という存在を、もっと大きく見ています」
会議室の空気が変わる。
審査員たちの視線が一斉に風間へ向けられる。
「技術的に見れば、もちろん星野玲さんは頭ひとつ抜けている。完成されているとも言える。
しかし……“音楽が届く瞬間”を作り出すのは、必ずしも完璧な声だけではありません」
風間は手元のUSBを指先で軽く弾いた。
「佐久間詩の歌には、弱さの形をした強さがあります。
不安、揺らぎ、迷い……それらを抱えたまま一歩前に進む声です。
人を動かすのは、技術ではなく、その“歩幅”だ」
一瞬、沈黙が訪れる。
そして、主任審査員がゆっくりと頷いた。
「……彼女を上位候補に残す、ということでよろしいですか?」
「はい。その価値があります」
風間は揺るぎなく応えた。
会議室には、静かな共感の気配が流れた。
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■ 詩の控室
その頃、佐久間詩は一人で控室にいた。
ペットボトルの水を握りしめ、窓の外に沈みゆく光を眺めている。
今日の自分の歌はどうだったのか。
ちゃんと届いたのだろうか。
玲のステージは圧倒的だった。
比較されることを思うと、胸の奥が苦しくなる。
けれど――
(でも、私は今日、自分の声で歌えた)
その一言が、自分自身を支えていた。
ノックの音が響く。
「詩ちゃん、入るよー!」
田村紗江が顔を出し、明るい声で言った。
「今日の詩ちゃん……めっちゃ良かったからね?」
「……ほんとに?」
「ほんとに。私、感動したもん」
紗江の笑顔は、ホールよりも強い光を宿していた。
詩は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
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■ 発表を待つ夜
初日の審査結果は、明朝に代表者へ告知される。
つまり――
今夜は誰もが眠れない夜だ。
控室の廊下では、他の出場者たちが小声で話し合っている。
緊張に満ちた足音が行き交い、静かな夜の空気に熱を残していた。
詩は深呼吸し、最後に一つだけ願いを心で呟いた。
(どうか……私の声が、明日へつながっていますように)
その願いは小さく、しかし確かな光となって胸に灯る。
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■ そして、運命の朝へ
風間隼は会議室を後にし、ひとり夜のホールを歩いた。
照明の落ちた鳳雅シンフォニア・ドームは、巨大な楽器のように静かに眠っている。
「――さて、明日が本当の戦いだ」
風間の横顔は、審査員ではなく、未来の才能に賭ける“音の職人”のものだった。
大会二日目。
審査結果の発表と、新たな演奏が始まる。
光と影が交差する物語は、次の幕へ進もうとしていた。
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(第13話・了 → 第14話「結果発表 ――運命の朝、動き出す声」へ続く)




