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『真理子という名前』  作者: 蔭翁


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第10話 音の始まり ――それぞれの光と影(完全版)




朝のスタジオに、ピアノの音が響いていた。

全国大会のリハーサル初日。

出場者たちは順番にステージに立ち、音響や照明の調整を行っている。


佐久間詩は、手にしたマイクを見つめたまま動けなかった。

「全国大会リハーサル」と書かれた看板の前。

緊張が喉を締めつける。


(落ち着いて。ここまで来たんだもの……。)


心の中で何度も呟きながら、舞台袖で深呼吸する。

控室から流れてくる他の出場者の歌声が、空気を震わせていた。

どれも完成度が高い。まるでプロのようだった。


スタッフが声をかける。

「静岡代表、佐久間詩さん。次、お願いします。」


「は、はいっ……!」


ステージに一歩踏み出した瞬間、

まぶしいライトが全身を照らす。

目を細めながら、詩は観客席を見渡した。

そこには審査員席、制作スタッフ、カメラマン――

そして、風間隼の姿があった。


(あの人……昨日ロビーにいた人だ。)


詩の記憶の片隅に、優しい眼差しの男性が蘇る。



---


イントロが流れ始めた。

静岡大会のときよりも、少しテンポが速い。

ピアノの旋律が澄んでいて、空気が透き通るようだった。


詩はそっと目を閉じ、息を吸い込む。


♪――遠くの空に まだ見ぬ光を探してる

 ひとりじゃないと やっと気づけた日から――♪


声が響いた瞬間、スタジオの空気が変わった。

完璧ではない。音程も微妙に揺れる。

けれど、その“揺らぎ”にこそ心があった。

彼女の歌には、人の痛みと優しさが混ざっていた。


歌い終えた瞬間、静寂。

スタッフたちは顔を見合わせる。

誰かが小さく呟いた。


「……届いたな。」


風間隼はペンを置き、わずかに微笑んだ。

「やっぱり。生きた“声”だ。」


彼は記録用のメモにこう書いた。


> 「音程の不安定は弱点ではなく“心の余白”として響く。

魂を感じさせる素材。スター性の原型あり。」





---


控室に戻る途中、詩は神奈川代表の田村紗江とすれ違う。

「お疲れ! めっちゃ良かったじゃん!」


「えっ……ほんとに?」


「うん。なんかさ、泣きそうになった。玲さんとは違うタイプだけど、

 “届く歌”って感じ。あたしも、負けてられないなって思った。」


紗江の明るさに救われ、詩は小さく笑った。

「ありがとう……紗江ちゃん。」



---


昼過ぎ。

スタジオには、星野玲のリハーサルが始まっていた。


玲がステージに立つと、空気が一瞬で張り詰めた。

まるで女王が玉座に座るかのような存在感。

伴奏が流れ出すと同時に、会場が息を飲む。


♪――光を抱いて 闇を切り裂くように

 私の声が 道を照らす――♪


その歌声は、完璧だった。

ブレも、迷いも、一切ない。

音楽そのものが彼女を中心に回っているようだった。


風間隼は腕を組みながら見つめる。

「完成された光、か……。だが、完璧すぎる光は時に人を照らしすぎる。」


隣のディレクターが笑った。

「いや、視聴者はこういう“絶対的エース”を求めてるんですよ。」


風間は静かに首を振る。

「光の隣には、影が必要だ。

 ――だから、佐久間詩の存在が意味を持つんです。」


その言葉を聞いたディレクターは、一瞬だけ黙り込んだ。

それは、プロの直感が真実を突いていることを理解した沈黙だった。



---


リハーサル後。

廊下ですれ違った玲と詩。

玲は汗を拭いながら、少し笑った。


「聴いてたわよ、詩ちゃんの歌。やっぱり……届くのね。」


「玲さんの歌、すごかった。まるで全部が“音”に支配されてるみたいで。」


「ふふ、支配してるつもりはないけど――

 でも、あなたの歌は“自由”だった。

 だから、私は少しだけ羨ましかったかも。」


玲はそう言うと、目を細めた。

「でもね、自由には責任が伴うの。

 あなたが“届く歌”を歌うなら、それを“続ける覚悟”が必要よ。」


詩は静かに頷いた。

その瞳に、はっきりとした意志が宿る。

「……はい。覚悟、します。」


玲は満足げに微笑み、背を向けた。

「次のステージ、本番で会いましょう。」


詩はその背中を見送りながら、胸の奥で誓う。


――絶対に、負けない。

 でも、争うためじゃない。

 自分の歌を、ちゃんと“生きさせる”ために。



---


夕方。

風間隼はスタジオの屋上に立ち、沈む夕日を見ていた。

ポケットの中には、詩のリハーサル映像が入ったUSB。


「この子が“時代の声”になるかもしれない。」


彼の呟きは、ビルの隙間に吸い込まれていった。

それはまだ誰も知らない未来への予感だった。


そして――夜。

全国大会の初日を迎える、運命の朝が静かに近づいていた。



---


(第10話・了 → 第11話「全国大会開幕 ――光のステージへ」へ続く)



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