第1話「海の丘苑 ― 老作家の静かな午後」
潮の匂いが、開け放たれた窓の隙間からふわりと流れ込んでくる。
老人ホーム「海の丘苑」は、小高い丘の上に建っていた。海を見下ろす立地のせいか、昼下がりの光はいつも柔らかく、風はどこか塩気を帯びている。
白石宗一郎は、窓辺のテーブルに肘をつき、湯気の立たないお茶を口に含んだ。
味はしない。ただ、ぬるい液体が喉を通る感覚だけが残る。
それで十分だった。
「白石さん、体調いかがですか?」
声をかけたのは介護士の佐久間麻衣だった。
明るく、よく笑う職員だ。彼女の気遣いが嘘ではないことは分かる。
けれど、宗一郎は笑わない。笑えば、そこに“作り物”の温度が混じる気がしたからだ。
「ええ、まあ……生きてはいますよ」
短くそう答えると、麻衣は小さく眉を寄せて、それでも笑顔を崩さなかった。
宗一郎は、かつて“桐原蒼”の名で知られた作家だった。
彼の書いた恋愛小説『真理子』は、出版から四十年以上が経った今でも文庫売上の上位に名を連ねている。
一方で、それ以外の著作は世に出ては消え、再版されることもなかった。
世間は彼を“一作の奇跡”と呼び、本人もそれを否定しなかった。
施設の居室の本棚には、『真理子』だけが飾られている。
背表紙の淡いベージュ色は、すっかり日焼けしていた。
「先生、これ、また映画化の話が来てますよ」
麻衣が差し出した封筒には、出版社のロゴと「映像化再打診」の文字。
宗一郎は長い指で封を切り、中の文面に目を通す。
――企画進行中の映画版『真理子』につき、改めてご相談申し上げたく……。
「またか」
彼は呟いた。
映画化の依頼は、これまでに何度も届いていた。
だが、彼は一度として首を縦に振らなかった。
“真理子”は、現実に存在した。
四十数年前、旅先の海辺の町で出会った、笑顔の眩しい女性。
「あなたの小説に、私の名前を出していいわ。有名になりたいから」
あの夏の午後、彼女が海風の中で言った言葉を、宗一郎は今も鮮明に覚えている。
その後、彼女は忽然と姿を消した。
残されたのは、あの笑顔と、潮の香りだけ。
宗一郎は彼女をモデルに小説を書き、それが一夜にしてベストセラーとなった。
――だからこそ、映像化だけは許さなかった。
彼の中の“真理子”が、誰かに演じられるのが怖かった。
けれど、近ごろは違っていた。
このホームに入ってから、麻衣の他人行儀な笑顔や、職員の事務的な優しさに触れるたびに、
“本当の温もり”が遠くなっていく気がしていた。
夜の廊下で、職員たちが囁く声が聞こえる。
「昔、有名な小説家らしいよ」「一発屋でしょ」「お金はあるけど寂しい人なんだって」
どの言葉も、宗一郎には届いていた。
――そろそろ、終わりの確認をしてもいいかもしれない。
翌朝、宗一郎は受付で公衆電話を借りた。
震える指でダイヤルを押し、昔馴染みの出版社の代表番号を呼び出す。
「……白石宗一郎です。ああ、いや、“桐原蒼”の方が通りがいいかな」
受話器の向こうの沈黙のあと、担当者の驚いた声が弾んだ。
「例の映画化の件だが……承諾すると伝えてくれ」
短く、それだけを言い残し、宗一郎は電話を切った。
外の空は、どこまでも青かった。
あの日、真理子と見上げた海辺の空と、よく似ていた。




