第203話 君の名は
夜明け前。
森は、眠っていなかった。
精霊の光が薄れぬまま漂い、木々の葉は風もないのにざわめいている。
リオンは小屋の中で、腕に抱いた赤ん坊を見下ろしていた。
小さな胸が、規則正しく上下している。
「……男の子、か」
誰に言うでもなく、呟く。
狼族の女性が静かに頷いた。
「強い気配だ。だが荒々しくない。森に、よく馴染んでいる」
ドワーフの女性も腕を組み、低く笑う。
「妙だな。生まれたばかりだってのに、
魔力が“落ち着いて”やがる」
リオンは少し困ったように息を吐き、赤ん坊の額に指を触れた。
「……名前、決めないとな」
その瞬間。
ふわり
精霊の光が集まった。
まるで、「早く言え」と急かすように。
「……安直だが」
リオンは、静かに告げた。
「ゼオンだ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、精霊が爆発した。
光が弾け、舞い、跳ね回り、小屋の外から歓声のようなざわめきが広がる。
『ゼオン!』
『ゼオンだ!』
『精霊王の名を継ぐ者!』
『森の子! 我らの王!』
言葉にならない声が、頭の奥に直接流れ込んでくる。
「……おい、ちょっと待て」
リオンが言うより早く、小屋の外が騒がしくなった。
外に出ると。
そこには、人がいた。
狼族。
ドワーフ。
エルフ。
猫族。
犬族。
さらにはどこから聞きつけたのか、人間の商人や旅人の姿まである。
皆、森の入り口で足を止め、決して中には踏み込まない。
ただ、祈るように跪いている。
「……参拝者、だな」
ガルヴァンがいたら、確実に頭を抱える光景だった。
リオンは額を押さえた。
「精霊……やりすぎだ」
すると、耳元でくすくすと笑う気配。
『違うよ』
『集まっただけ』
『王が生まれたから』
『祝うのは、当然でしょ?』
「当然じゃない」
だが、その言葉は空しく、精霊たちは花火のように光を散らし続ける。
ゼオンが、腕の中で小さく身じろぎした。
その瞬間。
森のざわめきが、ぴたりと止まる。
赤ん坊が、うっすらと目を開いた。
金とも緑ともつかない瞳。
精霊の光を映し、ゆっくりと瞬く。
そして。
小さな手が、リオンの胸元を掴んだ。
『……あ』
誰かが、息を呑む音。
精霊たちは一斉に深く、深く頭を下げた。
リオンは、背筋に冷たいものを感じながらも、ゼオンを抱き直した。
「……勘弁してくれ」
「こいつはまだ、ただの赤ん坊だ」
精霊たちは、楽しそうに揺れる。
『今はね』
『でも――』
『未来は、違う』
森の外で、参拝者たちが静かに祈り続けていた。
その中心にいることを、リオンは否応なく理解する。
(……ああ)
(面倒なことになったな)
それでも。
腕の中の温もりは、確かだった。
リオンは小さく息を吐き、息子の名をもう一度、心の中で呼ぶ。
ゼオン。
世界がどう騒ごうと。
今はただ、生まれてきた命を抱く父親でいたい。




