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異世界恋愛短編集

婚約破棄宣言、即ツッコミ

作者: 百鬼清風

 煌びやかなシャンデリアが輝く王都の大舞踏会。

 招待客の視線が一点に集まる。


「――侯爵令嬢クラリス・フォン・エルメリア! この場をもって、我はお前との婚約を破棄する!」


 王太子アルノルトの高らかな宣言。

 その瞬間、会場の空気は凍りついた。


「……はい?」

 クラリスは扇を口元に添え、首を傾げた。

「殿下、それはつまり――今この場で、主催者自ら客に泥を塗ったと公言なさった、という理解でよろしいかしら?」


「なっ……!」


 ざわめきが広がる。

 クラリスの声は静かだったが、背筋を伸ばした姿勢が逆に鋭さを帯びている。


「婚約破棄の理由をお示しくださいませ。もし“私の非”を根拠に挙げるのでしたら、どうぞこの場にいる皆さまの前で、証拠と共に明示していただけます? ええ、公爵家のご令嬢や大使館の方々の耳に届く形で」


「ぐっ……」


 王太子が言葉に詰まる。

 彼の隣には、鮮やかなドレスを纏った伯爵令嬢ミレイユが寄り添っていた。

 典型的な「新しい恋人」として噂される女性だ。


「まさか“別の女性が好きになった”などとおっしゃいませんわよね? それはわたくしの瑕疵ではなく、殿下の趣味嗜好の変化というもの。国政に関わる重大事を、恋愛感情で覆すとあれば――これはすでに社交儀礼上の失態でございます」


「……っ!」


 周囲から忍び笑いが漏れた。

 クラリスはさらに追い討ちをかける。


「では、正式に承りました。――殿下との婚約解消。これで私は晴れて自由の身。

 ……ただ一つ、最後に申し上げておきますわ。わたくし、王立学院で“礼儀作法と外交史”を修めた者。殿下が今宵の一幕をどれほどの国際的失点にしたのか、明朝には各国の使節が手紙をしたためるでしょう」


 笑顔のまま一礼。

 そして、扇を軽く畳んだ瞬間――


「◇」


 会場の空気が完全にクラリスへ傾いた。

 ざわつく貴族たち、赤面する王太子、狼狽するミレイユ。


 その様子を、柱の陰から静かに見つめる一人の男がいた。

 銀髪に冷ややかな瞳を持つ、辺境公爵レオンハルト。

 彼は杯を手にしながら小さく呟く。


「……あれが、あの噂の侯爵令嬢か。なかなか面白い」


 数刻後。

 舞踏会を後にしたクラリスは、馬車の中で扇を閉じて大きく息を吐いた。


「……ふう。少し言いすぎたかしら」


 けれど胸の奥には妙な爽快感があった。

 十数年にわたって「王太子妃」として期待され、従順であれと育てられてきた自分。

 それを裏切る形で婚約破棄された――ならば、せめて最後くらいは“私の言葉”で締めくくりたい。


 外の夜風が頬を撫でる。

 クラリスはふと窓から星空を見上げた。


「――これから、どうなるのかしら」


 翌朝、クラリスの屋敷には早くも王城からの使者が訪れた。

 淡々とした声で読み上げられたのは、簡潔な通達だった。


「――侯爵令嬢クラリス・フォン・エルメリア、王都での居住権を剥奪。二度と王城および王都の社交場へ足を踏み入れてはならない」


 文書を読み上げた騎士は、それ以上何も言わず立ち去っていった。


「……追放、ですか」


 クラリスは静かに息を吐く。

 予想していたとはいえ、現実を突きつけられると胸が少しだけ痛んだ。


 侍女のルイーザが泣きそうな顔で駆け寄る。

「お嬢様……! こんなのあんまりです」


「泣かないでルイーザ。むしろ好都合ですわ」

 クラリスは鏡台の前に立ち、自らの髪を結い直した。

「私は“王太子妃”という重しから解放された。――これからは、私の才を私のために使えるのですから」


 荷馬車に揺られて数日。

 王都から離れるほどに、道は荒れ、風景は荒涼としていった。


 辿り着いたのは、雪をいただく山々と灰色の石造りの砦。

 そこが、辺境公爵レオンハルトの領地だった。


「ここが……新しい場所」


 馬車を降りた瞬間、冷たい風が頬を刺した。

 王都の華やかな舞踏会とは正反対の、厳しい大地。

 しかしクラリスは、胸の奥に小さな期待が芽生えるのを感じた。


 砦の門が開き、鎧姿の兵士たちが整列した。

 その中央に立つ一人の男。銀髪に鋭い青の瞳、黒衣のマントを翻す姿。


「侯爵令嬢クラリス・フォン・エルメリア殿か」


「はい。……そしてもう“元”侯爵令嬢ですわね」


 皮肉を込めた返答に、公爵は一瞬だけ眉を上げた。


「私はレオンハルト・フォン・ヴァイスハルト。この辺境を預かる者だ。……歓迎しよう」


「歓迎、とはお優しい。けれど、噂では“氷の公爵”と呼ばれているとか」


「噂は噂だ」

 それだけを言うと、レオンハルトは背を向け砦の奥へと歩み去った。


 クラリスは苦笑しつつも、その背中を追う。

「……なるほど。不器用なお方、ということかしら」


 砦での生活は、王都の令嬢には想像もつかぬほど質素で厳しかった。

 朝食は黒パンと薄いスープ。

 部屋は冷気が入り込み、寝台は堅い木枠に藁を詰めたもの。


 しかしクラリスは弱音を吐かなかった。

 むしろ瞳を輝かせ、周囲を見渡していた。


「ルイーザ、見て。壁掛けの刺繍がほつれているわ。あれを補強すれば、冷気の入り込みを防げそう」


「でも、お嬢様のお手は……」


「いいえ。これこそ私の仕事。王都で教養として習った“刺繍”は、ここでは立派な実用ですわ」


 クラリスは旅の途中で持参した刺繍道具を広げ、冷気除けの布を丁寧に縫い直し始めた。

 細かな文様を織り込み、そこに彼女独自の付与術を重ねる。

 出来上がった布を壁に掛けると、室内の温度がわずかに和らいだ。


「……暖かい!」

 ルイーザが目を丸くする。


「簡単なことよ。でも、これで兵士たちも楽になるはず」


 その夜。

 クラリスは砦の広間で、公爵に呼び出された。


「刺繍で冷気を防いだと聞いた」


「ええ。ほんの工夫ですわ」


 レオンハルトは黙ってクラリスを見つめ、やがて短く言った。

「……役に立った」


 その言葉に、クラリスはふっと笑みをこぼした。

「感謝のお言葉、確かに受け取りました」


 氷のように無表情な公爵。

 だが、その奥にかすかな温かさが宿っているのを、クラリスは確かに感じ取った。


 数日後、クラリスは砦の中庭に出て領民たちと顔を合わせた。

 疲れた顔をした子どもに、自分の作った刺繍入りマントを羽織らせる。

 その笑顔に、クラリス自身も心を和ませた。


「……ここなら、私は“ただの駒”ではなくなれる。私自身の力で、生きていける」


 彼女は心の中で静かに誓った。


 辺境での暮らしが始まって数週間。

 クラリスは早速、砦と領民の生活に入り込み、驚きと工夫の日々を送っていた。


 朝、砦の中庭。

 兵士たちが黒パンを齧りながら苦笑いを交わしているのを見て、クラリスはそっと首を傾げる。


「……保存が効くのはいいけれど、さすがに固すぎるのではなくて?」


「仕方ないんです、お嬢様。これしか保存法がなくて……」と、若い兵が肩をすくめた。


 クラリスは目を細め、旅で学んだ知識を思い出す。

「塩漬け肉にハーブを加えると風味が持ちますわ。乾燥させた果実を混ぜれば、少しは滋養も増える。……そうだわ、ルイーザ!」


「はい!」


「王都から持ってきた香草の種が残っているはず。砦の裏庭に植えて育てましょう。きっと兵士たちの糧になるはず」


 彼女の声に、兵たちがざわめいた。

「……そんな発想、誰も考えなかった」

「さすがだ……!」


 昼、砦の一角。

 クラリスは刺繍道具を手に取り、兵士のマントを広げる。


「縫い目がほどけていますわね。ここに補強を――」


 針を走らせ、幾何学模様を織り込む。

 最後に淡い呪文を口にすると、縫い目がほのかに光った。


「これで寒さを少し和らげるはず。雪山での哨戒も楽になるでしょう」


 受け取った兵士が目を丸くした。

「……魔法付きの刺繍なんて、初めて見ました!」


「教養として習ったものですが、辺境では“実用”ですわね」

 クラリスは微笑み、他の兵士たちにも同じ補強を施し始めた。


 夕刻。

 砦に王都からの視察官が急遽訪れることになった。

 公爵から「急ぎで準備せよ」と命が下るが、兵士や侍女たちは慌ただしく右往左往するばかり。


「一時間後には到着? お茶会の用意をするにも人手が……」


 混乱する侍女たちに、クラリスが手を挙げた。

「わたくしに任せてくださいませ」


 即席で卓を整え、布を掛ける。

 干した果実を刻み、温めた湯に浮かべて即席フルーツティーを作る。

 塩漬け肉を香草で軽く煮立て、香りを整える。


「まあ……! 見栄えも悪くありません!」


 侍女たちが驚きの声を上げる。

「30分でこれだけの用意ができるなんて……」


 クラリスは肩をすくめた。

「“社交界は段取り”と教わりましたから。その知識は辺境でも役に立ちますわ」


 視察官たちが砦に到着した。

 クラリスの整えた簡素ながらも美しい席に通され、思わず感嘆の声を漏らす。


「辺境と聞いて侮っていたが……なかなかのもてなしだな」


 レオンハルトは視線を横にずらし、クラリスを見る。

 クラリスは微笑んで軽く一礼した。


 視察官は機嫌を良くし、滞在を穏やかに終える。

 公爵は小声で彼女に告げた。

「……見事な働きだ」


「光栄ですわ、閣下」


 夜。

 砦の塔の上で、クラリスは星空を見上げていた。

 隣に立つのは、氷の公爵レオンハルト。


「お前のような者が、どうして王都で顧みられなかった」


「ふふ……“便利すぎる”令嬢は、王太子妃には不要だったのかもしれません」


 クラリスは冗談めかして言ったが、声には少しだけ寂しさが滲んだ。

 その横顔に、レオンハルトは一瞬だけ目を細めた。


「……辺境では、お前の力が必要だ」


 短く、けれど確かな言葉。

 クラリスの胸に、小さな温かさが広がった。


「ありがとうございます、閣下。――では明日は干し草小屋を掃除し、食糧庫の湿気を抜く方法を考えましょうか」


「……止まることを知らぬな」

 呆れ混じりの声を聞きながら、クラリスはそっと笑みを浮かべた。


 辺境の砦に落ち着いたクラリスは、日ごとに兵士や領民の信頼を得ていった。

 保存食の工夫、刺繍による防寒具、即席お茶会の段取り。

 その一つ一つが「追放された令嬢」という汚名を少しずつ洗い流していく。


 だが――王都は黙っていなかった。


 ある日、公爵の執務室に急報が届いた。

 伝令が血相を変えて走り込む。

「閣下! 王都より査察団が派遣されるとの報せです! 領地経営に不備ありとの嫌疑で……!」


「……やはり来たか」

 レオンハルトは眉をひそめた。


 傍らにいたクラリスは静かに問いかける。

「嫌疑、とは?」


「この地の税収が不足している、と王都が難癖をつけてきた。……実際には、冬の備蓄を優先しているだけだがな」


「つまり、“数字”しか見ていない役人たちの嫌がらせ、ということですわね」


 クラリスの声に、レオンハルトがわずかに目を細める。

「……その通りだ」


 数日後。

 砦の大広間に、王都から派遣された査察官が現れた。

 脂ぎった顔に派手な羽飾りをつけた中年男。

 後ろに取り巻きを連れ、鼻で笑いながら辺りを見渡す。


「これが辺境の砦か。粗末なものだな。……税収も乏しいと聞く。公爵殿、領地経営の才がないのではないか?」


 兵士たちが憤慨するが、レオンハルトは黙って受け流す。

 その代わりに、クラリスが一歩前へ進み出た。


「査察官殿、辺境の実情をご覧になったうえで、どうぞご判断くださいませ」


「ほう、王都を追放された令嬢と聞いていたが……口を出す気か?」


「ええ。身分を失った身ですもの、失うものはございませんわ」

 クラリスはにっこりと笑った。


 その日の晩餐は、クラリスが主導して準備した。

 塩漬け肉と干し野菜を香草で煮込んだ温かなスープ。

 黒パンに果実のペーストを塗り、彩りを添える。

 決して豪華ではないが、栄養と保存性を両立させた献立。


「これは……意外に美味い」

 査察官が目を丸くする。


「辺境の民は過酷な気候に耐えるため、こうして保存食を工夫しております。数字の帳簿には現れませんが、領民の健康と生活を守ることこそ真の“経営”ですわ」


「む……」


 クラリスの説明に、取り巻きの役人たちがざわめく。


 さらにクラリスは、砦に飾られた刺繍の布を指し示した。

「この壁掛けをご覧ください。これは余った布を再利用し、刺繍と付与術で冷気を遮断しているのです」


「確かに……先ほどから寒さをあまり感じぬ」


「辺境の暮らしは数字では測れません。生活を守る工夫と知恵、それが領民を生かすのです」


 毅然と語るクラリスに、査察官は言葉を失った。


 晩餐の後。

 査察官が不機嫌そうに退場したあと、兵士たちが口々に囁く。

「お嬢様、見事でした!」

「まさか査察官を言い負かすとは……!」


 クラリスは肩を竦める。

「いえ、事実を述べただけですわ。……ただ、礼儀作法を守ってお伝えしただけ」


 そこへレオンハルトが近づいた。

 氷のような顔を崩さぬまま、低く告げる。


「……助かった」


「まあ、また感謝の言葉をいただけるなんて。今日はよく眠れそうですわ」


 冗談めかして笑うクラリスに、周囲の兵士たちは小さく吹き出した。

 ――そのやり取り自体が、砦を温める灯火のように感じられた。


 夜更け。

 クラリスは執務室の窓辺で月を眺めていた。

 背後からレオンハルトの声が届く。


「……お前の言葉で、兵も民も救われた。私は数字ばかりに気を取られていたのかもしれん」


「閣下は不器用なだけですわ。誰よりも領民を守ろうとされている。その思いは皆、感じています」


 静かに告げるクラリス。

 レオンハルトは視線を逸らし、短くうなずいた。


 月明かりが二人の横顔を照らす。

 そこに、確かな信頼の芽が生まれ始めていた。


 冬の寒気がいっそう厳しくなった頃。

 辺境の砦には吹雪が押し寄せ、数日間は外に出ることすらままならなかった。


 その間、クラリスは兵士や侍女たちと共に砦の中で工夫を凝らして過ごした。

 保存食を温め直し、香草を加えて少しでも栄養を増やす。

 刺繍入りの防寒マントを分け合い、子どもたちを安心させる。


「……お嬢様が来てくださって、本当に助かります」

 侍女のルイーザが目を潤ませる。


「ふふ、大げさですわ。私はただ、できることをしているだけ」


 クラリスは笑いながらも、心の奥に温かな実感を抱いていた。

 王都では“お飾りの婚約者”としか扱われなかった自分が、今ここで誰かの役に立っている――そのことが嬉しかった。


 ある夜。

 吹雪の音が止んだ隙に、クラリスは砦の書庫へ足を運んだ。

 そこで彼女が目にしたのは、机に山積みになった羊皮紙に向かうレオンハルトの姿だった。


 銀髪を乱し、灯火の下で無言で筆を走らせている。

 ページには細かく領民の生活状況や納税の記録が記されていた。


「……閣下、こんな時間までお仕事を?」


 驚いて声を掛けると、レオンハルトは一瞬だけ手を止めた。

「お前こそ、なぜここに」


「眠れなくて。……それより、この記録は?」


「領民の生活をまとめた報告書だ。王都に数字ばかり突かれても、実情を無視されぬように」


「まあ……一人でこれほど」


 クラリスは羊皮紙を手に取り、丁寧な字に目を見張る。

「閣下、不器用と噂されていましたけれど……これは、領民を思っての労苦ですのね」


「……噂など、好きに言わせておけばよい」

 レオンハルトはぶっきらぼうに返したが、ペンを握る指はわずかに震えていた。


 日を改めて、クラリスは領民たちから公爵の話を聞いた。

「閣下は昔から夜遅くまで砦の巡回をされてね」

「吹雪の日でも、必ず子どもの家を回って暖炉の火を見てくださるんだ」


 クラリスは思わず目を細めた。

「……本当に、不器用で優しいお方なのですね」


 王都で“冷徹”“氷の公爵”と恐れられていた男の別の顔。

 それを知るたびに、胸がじんわりと温かくなる。


 その日の夕暮れ。

 砦の中庭で、クラリスは兵士たちに刺繍を教えていた。

 不器用な兵士が針に糸を通せず悪戦苦闘していると――背後から低い声が響く。


「……何をしている」


「閣下!」

 兵士たちが慌てて立ち上がる。


「針仕事ですわ。哨戒の合間でもできるように、皆に覚えていただこうと」


「兵士に女の真似事をさせる気か?」


「いえ、布の補強は戦場でも役立ちます。小さな綻びを自ら繕える兵士は、それだけで生存率が上がるのですわ」


「……なるほど」


 レオンハルトは兵士から針を受け取り、試すように布を縫い始めた。

 指先はぎこちないが、集中する横顔は真剣そのものだった。


「閣下まで……!」

 兵士たちがざわつく。


「……悪くはない」

 短く呟いて布を置くと、レオンハルトはそのまま立ち去った。


 クラリスは思わず口元を押さえた。

 ――氷の公爵が、針仕事を。

 その光景は、彼が決して無関心な人間ではない証だった。


 夜。

 クラリスは砦の塔で星を見上げていた。

 そこにレオンハルトが現れる。


「……昼間は、笑ったな」


「ええ、とても珍しいものを拝見しましたから」


 クラリスが微笑むと、レオンハルトはわずかに顔を背けた。

「……私は不器用だ。領民にどう接すればよいか、未だによく分からん」


「それでも、皆は閣下を慕っております。行動は言葉以上に雄弁ですわ」


 沈黙の後、レオンハルトは低く言った。

「……お前が来てから、砦が少し明るくなった」


 その言葉に、クラリスの胸が高鳴る。

 しかし彼女は笑顔を崩さず、扇を開いて答えた。

「それは光栄ですわ。私も、ここで自分の居場所を見つけたいと思っています」


 冷たい風が吹き抜ける塔の上。

 けれど二人の間には、確かな温もりが芽生え始めていた。


 春の兆しが見え始めた頃。

 辺境の砦に、王都から再び使者がやって来るという報せが入った。

 今度は査察ではなく「監査官」と名乗る高官が派遣されるらしい。


「監査官……つまり、王太子派の目付け役ですわね」

 クラリスの冷静な言葉に、レオンハルトは短くうなずく。


「奴らは辺境を見下し、失点を探してくるだろう。……油断はならん」


「ならば、こちらから“見せる場”を整えて迎え撃ちましょう」


 クラリスの提案に、公爵は目を細めた。

 その瞳にはわずかに期待の色が宿っていた。


 監査官が砦を訪れたのは三日後のことだった。

 豪奢な毛皮をまとい、従者を従えたその姿は、寒風の中でひときわ異様に映る。


「これが辺境の公爵領か。思ったより……粗末だな」


 吐き捨てるような言葉。

 兵士たちが拳を握るが、クラリスが扇を開き、にっこりと笑った。


「お疲れでしょう、監査官殿。どうぞ温かな席をご用意しております」


 案内されたのは砦の広間。

 長い卓には、クラリスが工夫を凝らした料理が並んでいた。


 干し肉と野菜を煮込んだシチュー。

 香草で風味を付けた保存パン。

 果実を発酵させた甘酸っぱい飲料。


 決して贅沢ではないが、色彩豊かで滋養に富んだ献立だった。


「これは……辺境にしては悪くない」

 監査官がスプーンを口に運び、思わず唸る。


 食事が進む中、クラリスは立ち上がり、壁に飾られた刺繍布を指さした。


「こちらは兵士たちと共に作り上げた防寒布です。布の再利用と刺繍の付与術で冷気を遮断し、燃料の消費を三割減らすことに成功しました」


 監査官が目を見開く。

「三割、だと……?」


「はい。領民の生活を守る工夫は、数字に換算しても十分な成果を示せます」


 クラリスは落ち着いた声で続けた。

「王都では舞踏会や装飾に資金を費やしますが、辺境では一枚の布、一匙の塩が人の命を救うのです」


 静まり返る広間。

 やがて兵士や侍女たちが誇らしげに頷き始めた。


 その場でクラリスはさらに提案を示した。

「砦の保存庫に湿気を防ぐ新しい工夫を施しました。炭と石灰を用いて空気を乾燥させる方法です。もしご覧になりますか?」


 案内された監査官は驚きを隠せなかった。

「……実際に効果が出ている……」


「辺境の“数字不足”は怠慢ではありません。工夫と知恵で民を守るための選択です」


 毅然と語るクラリス。

 その背に、レオンハルトの低い声が重なった。


「彼女の言葉が真実だ。……この地は誰よりも堅実に守られている」


 その晩、砦の広間では盛大な宴が開かれた。

 兵士や領民が音楽を奏で、歌い、笑い合う。

 クラリスはその中心で、子どもたちに刺繍を教えたり、女性たちと保存食の作り方を語ったりしていた。


「お嬢様が来てから、砦が明るくなった」

「まるで本物の公爵夫人みたいだ」


 そんな声が自然と上がる。


 やがて広間の奥、レオンハルトが立ち上がった。

 静まり返る場。


「――この地に来てまだ日も浅いが、クラリス嬢はすでに我らの一員だ。……彼女なくして、この領地は語れぬ」


 兵士たちが歓声を上げる。

 クラリスは驚きに目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みで頭を下げた。


 夜更け、宴が終わった後。

 静まり返った廊下で、クラリスとレオンハルトが並んで歩いていた。


「……今日の宣言、驚きましたわ」


「事実を述べただけだ」


「でも、閣下が人前で私を認めてくださったのは初めて。……嬉しかったです」


 クラリスの言葉に、レオンハルトはわずかに口元を引き結んだ。

「……私もだ」


 二人の間に流れる沈黙は、もう冷たいものではなかった。

 窓の外に瞬く星が、未来への兆しのように輝いていた。


 宴の余韻が残る翌日。

 クラリスは砦の中庭で兵士たちに保存食の仕込みを教えていた。

 果実を干して蜜に浸す簡易保存法。彼女の工夫は領地のあちこちで広がり、今や領民たちの口に笑顔を運んでいた。


 そこへ、遠方から馬蹄の音が響く。

 門兵が慌てて駆け込み、声を上げた。


「王都より――王太子殿下が直々に来訪されました!」


 空気が凍る。

 兵士も侍女も顔を見合わせ、動揺が走った。


「……殿下が、こちらへ?」

 クラリスは扇を閉じ、静かに息を整えた。


 やがて砦の広間。

 絢爛な衣装に身を包んだ王太子アルノルトが堂々と姿を現す。

 その後ろにはミレイユが控え、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


「クラリス」

 王太子は真剣な顔で口を開いた。

「私は……間違っていた。お前を追放したことを悔いている。戻ってこい。再び婚約者として、私の隣に立て」


 広間がざわめく。

 思いもよらぬ言葉に、兵士たちも息を呑んだ。


 だがクラリスは眉一つ動かさず、扇を軽く開いた。

「殿下、今さらのその言葉……ご冗談でしょうか」


「違う! 本気だ。辺境での活躍を聞いた。お前の知恵と力が、今の私には必要だ」


 彼の声は必死だった。

 だがクラリスの胸には冷たい風が吹き抜けていた。


「……殿下が必要とするのは、“王太子妃として便利な私”でありましょう? けれど、私はもう駒ではございません」


「クラリス!」


「私は――ここで、私自身の力で生きています」


 毅然とした言葉に、兵士や侍女が一斉に胸を張った。

 彼らの瞳には誇りが宿っていた。


 そのとき、広間の奥から重い声が響いた。


「話は終わったか」


 レオンハルトが歩み出る。

 氷のような眼差しが王太子を射抜いた。


「クラリスは我が領地の者だ。……彼女を再び王都の駒にしようとするなら、この私が許さぬ」


「なっ……公爵、お前!」


 王太子は顔を赤らめ、拳を震わせた。

 しかしクラリスが一歩前に出て、扇を畳んだ。


「殿下。どうかお帰りくださいませ。……私はもう、二度と王都へは戻りません」


 その静かな拒絶が、すべてを終わらせた。

 王太子は憤然と踵を返し、ミレイユと共に去っていった。


 広間に静寂が戻った。

 クラリスは深く息を吐き、肩の力を抜いた。


 そのとき。

 レオンハルトが彼女の前に立ち、低く呟いた。


「……私は、不器用で言葉が足りぬ。だが――」


 クラリスの瞳を真っ直ぐに見つめる。

 彼の氷の瞳には、初めて迷いのない炎が宿っていた。


「お前を失いたくない。……私の隣にいてくれ」


 クラリスの胸が大きく跳ねた。

 だが彼女は扇をぎゅっと握りしめ、震える声で返す。


「……閣下、それは……愛の告白と受け取ってよろしいのですか?」


 沈黙。

 そして、レオンハルトが不器用にうなずいた。


「……ああ。愛している」


 広間の隅で、兵士たちが小さくざわめく。

 侍女たちが息を呑み、頬を赤らめた。

 クラリスは顔を伏せ、耳まで熱くなるのを感じた。


「……閣下。私は……」


 言葉が詰まる。

 だが次の瞬間、ふっと笑みを浮かべた。


「私もまた、閣下と共に生きたいと思っております」


 その言葉に、レオンハルトは目を細めた。

 氷の仮面の奥から、確かな安堵が滲み出る。


「……ありがとう」


 夜。

 砦の塔の上で二人きり。

 冷たい風が吹く中、クラリスはそっとレオンハルトに問いかけた。


「閣下。あの場で私を庇ってくださった時……本当に、心からの言葉でしたか?」


「嘘を言うつもりはない」


「では、これからもずっと……?」


「……ああ。私は不器用だが、決して裏切らぬ」


 クラリスの目に涙が滲む。

 その瞳を見つめながら、レオンハルトはぎこちなく手を伸ばした。


 触れたのは、彼女の肩。

 ほんのわずかな接触――けれど、互いの心を確かに結ぶ温もりだった。


 王太子を退けてから数日。

 砦には穏やかな春風が吹き、辺境の人々は笑顔を取り戻していた。

 そして今――砦の広間には華やかな装飾が施され、領民や兵士たちが集まっている。


「今日は閣下とクラリス様の婚約儀式だそうだ!」

「辺境に春が来たみたいだな!」


 祝福の声が飛び交い、温かな空気が広間を満たしていた。


 クラリスは白地に銀糸の刺繍を施したドレスを纏っていた。

 その刺繍は自らの手によるもの。

 付与術を織り込み、布地は淡く輝いている。


「……自分で縫った花嫁衣裳なんて、少し不思議ですわね」

 鏡の前で呟くと、侍女ルイーザが涙ぐみながら頷いた。


「お嬢様はもう、“駒”なんかじゃありません。……閣下の隣に立つ、本物の伴侶です」


「ありがとう、ルイーザ」


 クラリスは胸に手を当て、大きく深呼吸をした。

 王都を追放され、居場所を失ったあの日。

 けれど今、彼女はここで“自分の力”で未来を築こうとしている。


 広間に進み出たレオンハルトは、いつもの黒衣ではなく深い青の礼装に身を包んでいた。

 氷のように冷たかったその姿が、今は確かな温かさを帯びている。


「クラリス」

 低い声が広間に響く。

「私は不器用で、言葉も飾れぬ。だが――お前と共に歩みたい。これから先もずっと」


 クラリスは微笑み、扇を畳んで答えた。

「私もまた、閣下の隣で生きたいと願っています。……ただの駒ではなく、一人の女性として」


 人々の前で互いに言葉を交わす二人。

 兵士たちが歓声を上げ、領民たちが涙ぐむ。


 儀式の後、砦の中庭で盛大な宴が開かれた。

 クラリスは保存食を応用した料理を披露し、子どもたちと刺繍を楽しんだ。

 領民が歌い踊る輪の中で、彼女の笑顔は一層輝いていた。


「辺境の砦が、まるで王都の宮廷のようだ……」

 誰かが感嘆の声を漏らす。


 レオンハルトはその様子を静かに見つめ、ふと歩み寄った。

「……クラリス。人々がお前を“光”と呼ぶのも分かる」


「光だなんて。私はただ、刺繍と保存食を作っていただけですわ」


「それでも皆の心を照らしたのはお前だ」

 レオンハルトは真剣な眼差しで言った。

「……そして、私の心も」


 クラリスの頬が熱を帯びる。

 彼女は思わず顔を背けたが、その唇には幸福の笑みが浮かんでいた。


 宴が終わった後。

 月明かりの下、砦の塔で二人きり。


「クラリス」

 レオンハルトが不器用に差し出したのは、一枚の羊皮紙だった。


「……契約書?」


「違う。これは……“誓約”だ」


 そこには彼の拙い字で、ただ一文。


――『私は生涯、クラリスを愛し守る』


 クラリスは驚き、やがて笑いをこぼした。

「閣下らしい、不器用な誓約ですわ」


「……これしか書けん」


「ええ。だからこそ、嬉しいのです」


 クラリスはその紙を大切に胸に抱きしめ、静かに頷いた。

「私もまた、生涯あなたを支えます」


 二人の影が重なり、月光の下で寄り添った。

 辺境の冷たい風も、今はただ温かな未来への祝福に思えた。


 こうして――

 追放された令嬢と氷の公爵の物語は、ざまぁを経て、溺愛の誓約で幕を閉じる。

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― 新着の感想 ―
スッキリしません。「即ツッコミ」した結果、翌朝追放で何も変えられてないですし ざまぁと言っても王太子とミレイユが何らかのダメージを負ってるようにも見えません。
開幕の言葉の剣が最高!そのまま“生活を回す力”で世界をひっくり返していくのが快感でした。刺繍と保存、段取りと交渉──全部が繋がっていく構図が美しい。最後の誓約、不器用さがイイ!満足の締めでした。
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