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 〈2031.05.12 03:40〉

 完全な闇の中に、文字列だけが浮かび上がる。スマホの画面をフリックすると、目覚ましの電子音が止まり、睡眠管理アプリのリザルト画面が表示された。〈充分な睡眠がとれています! この調子!〉。そりゃどうも。

 寝袋(シュラフ)のジッパーを半分下ろし、腕だけ出して枕元のヘッデンを掴む。放射状の灯りに木造小屋の質素な内装が浮かび上がり、徐々に現実感が"降りてくる"。ブレーカーを上げるみたいに、五感のスイッチがひとつずつ入っていく。

「寒っ」

 左手に巻いたGショックの温度計によると、気温はマイナス七度。この山小屋の標高は二,二一五メートルだから、五月半ばとしては例年並みの寒さ、ということになる。だからって、寒さに慣れることはない。いつも新鮮に寒い。そうだ、早くお湯沸かそう。いつだって朝はそれから始まる。

 沢で汲んだ湧き水を煮沸しながら、昨日の進捗と今日の計画を確認する。昨日は配信を閉じたあと、しばらく走って林道に入り、まだ冬期閉鎖中のゲートを作業者用のパスで通過して入山した。駐車場から登山道に入ると、道の状態をチェックしつつ沢沿いを遡行。取水可能な水場の状況確認。必要だと思われる箇所にビニールテープの目印の取り付け。沢沿いを外れて尾根に取りつき、しばらく行ったところのトラバースで、崩落を確認。スマホの専用アプリで、デジタルタグを発行する。今回のわたしの主な仕事はこれだ。あとから入山する登山道の修繕チームの仕事のための、斥候。山が積雪期から残雪期に移行し、登山道が現れ始めてから、一般向けに開山するまで──その短い間に登山道の状況を確認し、修繕作業の目途をたてる。

 昨日はそうして簡単な作業をこなしつつ道の状況を見、十四時にこの小屋に到着した。電波はなく、そもそもバッテリーに余裕があるわけでもない。暇潰しもそこそこに、食事をして就寝。それが十九時半。

 お湯が沸く。

 インスタントのヌードル、パエリアに注いで、残ったぶんはコーヒーにする。マグ半分ほどの量しかなく、エスプレッソ状態になり、脳にガツンと来る。グラノーラバーとエナジーゼリーを口に入れつつ、GPSアプリの地図を見る。稜線の端に位置するこの小屋から、幾つかのピークを経由して下降地点に至る。等高線がみっしりと詰まり、岩崖を表す(くさび)形の記号が並び、厳しい道程だと教えている。辛くて苦しい一日になるのだろう。だというのに、わたしの口角は勝手に上がってきてしまうのだった。


 * * *


 朝食を済ませて荷をまとめ、外に出る。まだあたりは暗かった。風はないけれど空気はすこぶる冷たく、肺に入り込んだそれは重さを感じさせるほどだ。

 空を見上げて息を呑む。袋を逆さまにしてぶち撒けたような星空の背景、吸い込まれるような黒地は、よく言うような(とばり)とは違っていて、明確な奥行きと濃淡があった。藍と漆黒の間の繊細なグラデーションの中に、差し込むように赤や白があった。そこに煙るような薄靄のヴェールの色彩がアクセントを加えている。大胆な筆致の抽象画のようだった。

 闇に目が慣れるうち、高く視界を横切る山並みの輪郭が浮かび上がってくる。峻険な岩峰を連ねる稜線上に、残雪が月明りを集めて白く輝いていた。

 あとひと月あまりすれば、下の林道ゲートが開き、山は登山者たちを迎え入れるのだろう。でもいまはわたしだけのものだった。

 ザックのショルダーベルトに留めたポーチから、衛星ビーコンを取り出す。掌に収まるサイズの端末で、救難信号を発するのが主な用途だ。本来は緊急用に使うものだけれど、()()()のように付属している機能がある。ラジオだ。スマホのラジオアプリのような疑似的なものでなく、ラジオ用電波の受信に特化したクラシックなもの。プリセットも自動探知もあるが、スイッチを操作して手動で周波数を合わせてみる。山を下りれば、ほとんど何の障壁も感じることなく、なめらかに自動的に繋がりあえるものばかりで周囲は充たされている。そんな世界を束の間離れて、こうして偶然を期待してひとつずつ数値を動かす行為は、そのスイッチのカチリというアナログなクリック感も相まって、奇妙な郷愁の感覚を抱かせる。

 数値を増減させるうち、ノイズの中から、少しずつピントが合うように細切れの旋律──音楽が浮かび上がってきた。


 ……け…べば……ど………なけ………


  荒くささくれた音に耳をそばだてた。ピントを更に絞っていく。


 ……暗で…かりも…い……崩れ…道……


 すぐに分かる。この声は、VOCALOID(ボカロ)だ。いまボカロと呼ばれているもののほとんどは、Synthesizer V──高度なAIを用いた合成音声ソフトウェアで、生身の人間の歌とまったく区別がつかないほどのものになっている。でも、いま聴こえているものは違う。電子音が人間の声を模したような、機械的な色の残る合成音声。〇〇年代に用いられていた初期型のボカロだ。決して明瞭とはいえない、粗く削れたラジオの音質によく馴染むその歌声。そしてこの曲。四半世紀前に生まれたというのが信じられないほど、いつまでも古びない歌だった。いや、古びないという言い方には語弊があって、むしろある時代の手触りを強く刻印して固着させたものが、逆説的に残る、ということなのかもしれなかった。

 わたしはビーコンをカラビナでショルダーベルトに提げて、音量を少し上げる。空は仄かに明るみ、稜線上にハイマツの緑や砂岩の白がざわめくように色を差し始めた。わたしは立ちあがる。ザックのチェストベルトとウエストベルトを締め直し、今日の一歩目を踏み出す。ラジオから歌う声に自分の声を合わせて、メロディを追う。

 ブラックロックシューター、動いてこの足、世界を超えて──。



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