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Do not go gentle into that good night.
Rage, rage against the dying of the light.
"Do not go gentle into that good night" - Dylan Thomas
穏やかな夜に身を任せるな
怒れ、怒れ、消えゆく光に
"穏やかな夜に身を任せるな" - ディラン・トマス
尾骨を貫いて、脊椎がそのままベッドに突き刺さっている。その先端には海月の骨格を思わせる小さなアンカーが結び付けられ、どれだけ引っ張ってもびくともしない。だからわたしは、体を天井に向けて思いきり引き上げる。アンカーの色は黒だ。錆びないようにペンキで厚く塗られている。重量は一五〇キロ。
体を係留する想像のアンカーの重みを感じながら、左手をまっすぐ伸ばし、手を思いきり開く。五指の爪のそれぞれのカーブまで意識を行き渡らせる。葉脈が通ってて水が流れていくようなイメージ。腕で「b」を作るようにして、右手で左手の上腕を掴み、思いきり体を引っ張り上げる。ぱき、ぱき、と、肘が、肩が鳴る、今度は右手をまっすぐ伸ばし、「d」をつくる。肩甲骨を中心にして放射状に、綱引きのように力を入れていくと、背中がばきっと鳴った。それを合図にして全身の力を抜く。肩を回すと心なしか軽かった。
ナボコフがベッドの上に飛び乗ってきて、背中に頭突きした。そのまま栗色の体をわたしの腿に擦り付けつつ前までやってくると、なぉん、と鳴きながらあぐらの中に収まった。なーん、なーん、と二度鳴く。
「うし、うし。ちょっと待ちな」
ベッドから降りて裸足のままキッチンへ向かう。ナボコフもあとに続いて、したっ、と微かな音だけを立て、フローリングに着地する。わたしは三階建てのクリアストッカーの二階を開いて、ドライフードを取り出す。小皿に出して爪研ぎポールの横に置いてやると、ナボコフは鼻先を近づけて三度においを嗅いでから食らいついた。かり、かりり、と木琴に似た心地いい音を聞きながら、別の小皿に水を用意してやる。
〈おはよう、嶺。今朝のニュースが入っているが、どうする〉
スマホ経由でハンドラーを呼び出すと、開口一番にそう言った。といっても、彼に口はない。PC机の空きスペースに転がしたキューブ状のスマートスピーカーが、その代わりだ。
「いい。要らない。どうせあの戦争のニュースばっかだ」
〈そうか〉
それだけ相槌を打ち、ハンドラーは沈黙する。空調の音がゆるやかに弱まり、窓のブラインドが半分開いて弱い光が部屋に射しこむ。プリセットされたルーティンだ。この部屋にまつわるあらゆる機能はハンドラーが制御している。エントリーモデルにしては気の利くAIアシスタントだった。
わたしは顔を洗ってから、朝食を準備する。準備する、といっても、一食分のトレーをそのままレンジに入れるだけだけど。レンジを回すハンドラーに、わたしは訊く。
「天気は?」
短い電子音がして、壁掛け液晶に灯がともる。画面中央の〈2031.05.11 04:25〉という表示が左下に小さくワイプしていき、地図が表示される。ハンドラーの合成音声が言う。
〈海側からの低気圧が北東へ緩やかに抜けて、昼から夕方にかけて高気圧と入れ替わる。昨夜からの雲は徐々に外れて夕方には晴れる予定だ。高地においても同様。降水確率一〇パーセント。明日の明け方からは……〉
堅苦しいお天気解説がひとしきり終わったところで、わたしは訊く。
「つまり?」
〈過ごしやすい、いい一日になる〉
* * *
いい子にしてるんだよ、とナボコフを撫でると、ンンー、と分かってるんだか分かってないんだかという返事をして、わたしの手に頬を擦りつけてくる。それからこちらに背を向け、キャットタワーの軒下で体を丸める。そこがナボコフの定位置だった。留守の間、ナボコフの世話はハンドラーがする。一体型の自動給餌・給水機、スマートトイレ、空調に監視モニター。電波さえ入ればビデオ通話もできる。こうやって猫をAIに任せることを、非難する人もいる。中央の、意識の高い人たちだ。責任持って愛情注げよ、動物だからって軽く見てんじゃないのか、と彼らは言う。リモートワークの仕事部屋の隣で、乳幼児をAIシッターに任せながら。
昨晩のうちに準備しておいたザックを車──スズキのハスラーロードマスター2027モデル、型落ちの中古だけど情報/統御系統は全取っ換え済み──に積み込み、ベルトで固定する。アイゼン、ピッケル、シュラフ、ツェルト、スマートシェル、ザイル、ヘルメット、etc.etc。必要なものは全部あるはず。車に積みっぱなしのストックとブーツも改めて目視で確認する。装備は全体で重さ二十キロを超える。十年前には、泊りで山に入るとなればこの一・五倍の荷を揚げていたというから、技術の進歩に感謝することしきり。とはいえ、同業の中でもここまで大きな荷物を持つ人間はまれだ。キャリアドローンを同伴させて、本当に最低限の荷しか背負わない、という者すらいる。その中でわたしが設定したラインがここだということだ。
そうだ、確かこんなニュースを見た。昨年のこと、七十八歳の中国人登山家がヒマラヤの七千メートル峰を単独登頂したと。高地対応の最新キャリアドローンは勿論のこと、下半身から背中までを覆うスポーツ用外骨格、常に最適な酸素濃度を維持するスマートボンベ、衛星経由で最高精度の行動予測を提案し続けるAIアシスタントGPSがそれを可能にした。別にケチをつけたいわけじゃない。登山は健常者の特権、なんていう筋肉思想に加担したいわけでもない。ただ──アスリートではなくテクノロジーがスポーツの記録を塗り替えていく、ということは、しばしば指摘される。何十年か前に、競技用の高性能水着がオリンピックを揺るがすほどの議論を巻き起こしたこともあるらしい。どこまでがスポーツか。どこまでテクノロジーに寄りかかるか。ましてわたしがしているのは仕事なのだ。楽できるだけすればいい。ごもっとも。だからわたしのこういうオールドスクールなスタイルは、言ってしまえば好みの問題だ。格好つけるなと言われても、これ以外に言い方が見つからない。つまり──わたしは、山を登ること自体が好きだ。仕事だとしても、楽しみたい。
運転席に座ってスマホをクレイドルに挿入すると、うっすらと青白く車内灯が点灯した。ハンドルを握り、掌紋認証を解除する。フロントガラスのホログラフィックHUDにナビが立ちあがる。ハンドラーがドライブインフォメーションを読み上げた。
〈充電率百パーセント。目的地は入山口B2。途上のサービスエリアとコンビニエンスストアを経由地に指定。それぞれ自動で選定しているが、変更する場合は改めて指示を。総移動距離一〇〇.四キロ。予想所要時間は九十五分〉
「ハンドルのロックを解除して。運転は自分でする」
路地から県道に出るとすぐに景色は開け、背の低い住宅街の向こうには青めく低山の稜線が連なっている。地方らしい風景だ。雲は低く立ち込めているが、厚さはそこまでなく、ところどころ朝焼けの橙色に染まっている。
最寄りのスマートICから高速に乗り、巡航速度に達して十分程したところで、わたしはハンドラーに話しかける。
「配信開けて」
〈運転中は、音声出力のみ可能だ。チャンネルは?〉
「ちがう。開けてって言ったの。枠を開けて」
〈運転中のライブ配信行為は違法だ〉
「ハンドル握ってた方が頭が回るんだよ」
〈私は違法行為に繋がる操作はできないように設定されている。提案──運転権限をこちらに移譲しろ〉
「わがままがよ。お行儀のいいことで。もうちょっとご主人様に敬意とか、ないわけ」
ご主人様、と強調して言ってやった。申し訳ありませんがそれは出来かねます、くらい言えないのか。
〈同じ言葉を繰り返させるな。AIの敬意とはユーザーの違法行為を幇助することではない。それから、口調についてはきみが設定した。会話はアーカイブに記録されている。指示に該当する発言内容は、以下だ。「よそよそしいのやめようよ、相棒。SF映画のバディAIだって大抵はちょっと毒舌で──」〉
わたしの口調まで真似てハンドラーが猛然と反論してくる。というか、ニュアンスから心を読むな。絶対に分かって煽ってきてるだろコイツ、と思いながら、わたしは遮る。
「あー、わかった、わかった。運転は譲る。早く枠を開いて。Xに告知ポスト。文面はテンプレート2。ハッシュタグは#おはV。サムネのスクショ画像を添付。あ、サムネは定期朝活の、色は緑の8。見出しはゲリラ雑談に変えて。十分後に配信開始」