第90話 追撃の牙
黒月の谷に静寂が戻ったのも束の間だった。
リクたちはユウを囲みながら、しばしの安堵を噛みしめていた。ユウはまだ意識が朦朧としていたが、その頬には確かに人間としての温もりが戻っていた。
「……これで、ようやく終わったのか」カイルが息を吐いた瞬間だった。
――ドンッ!
大地が揺れ、谷の入り口付近から轟音が響く。次の瞬間、黒い装甲をまとった兵士たちが雪崩れ込んできた。
「王国影抑制部隊、第七分隊。対象はリク・ハルトとその協力者。無抵抗での投降を命ずる」
前列に立っていた兵士が、魔導音声を通じて淡々と告げた。
「やっぱり来やがったな……」クローネが唸る。
「時間稼ぎは失敗だったか……!」
リクは立ち上がり、仲間たちに目配せをする。
「ユウを守る。まずは撤退を最優先だ」
「だが包囲されてるぞ、北側の斜面まで来てる!」カイルが叫ぶ。
「……だったら、俺が囮になる」リクが影を纏いながら言い放った。
「ふざけるな、一人で行かせるわけには!」
「俺たちが“チーム”だって、お前が言ったんだろ」
その言葉に、カイルが口を噤む。そして、エリナが一歩前に出た。
「ユウの護送は私がする。リク、前線の指揮を頼む」
「了解だ。クローネ、転移陣の起動準備を。あの谷の東端に残ってた遺構、使えるだろ?」
クローネが頷き、魔導具を取り出して陣の構築を始める。
「発動まで五分かかる。その間、持たせろよ!」
リクの影が咆哮を上げるようにうねり、空間を裂いて兵士たちの陣形に干渉する。光ではなく“影の波”が地を這い、王国兵たちの魔導具を狂わせていく。
「影障害発生! 第三班、反時計回りに展開しろ!」
だが、王国の部隊は精鋭だった。すぐに編隊を切り替え、リクたちを三方から囲みにかかる。
「クローネ、まだか!?」
「あと三十秒!」
そのとき、空から降るようにして、一人の男が舞い降りた。
「……やっぱり君たちは“止めなきゃ”いけない存在なんだね」
金髪の影が、黒衣の風に揺れる。セインだった。
「お前……まだ生きてたのか」
「当然。僕は“計画の核”なんだから」
セインの掌に宿るのは、黒と赤の混じった奇怪な魔力。それはかつてユウが放っていたものに酷似していた。
「まさか……お前、“第零式の因子”を移植されたのか!?」
「その通り。君たちのおかげでサンプルが手に入った。……実に素晴らしい成果だったよ」
セインが手を掲げると、空気が引き裂かれ、複数の影獣が召喚される。その一体一体が、まるで“意志”を持ったかのように行動を始めた。
「これが、王国が求めた“進化”だ。君たちは、それを阻もうとしている」
リクは静かに剣を構えた。
「違う。俺たちは、影を“生かす道”を選んだ。お前はただ、影を殺して利用しているだけだ」
「感情で世界は変えられないよ、リク」
「だが、感情なしの世界に未来はない!」
リクの影が燃えるように爆ぜ、仲間たちの後ろに巨大な狼の影が浮かび上がる。
「転移陣、起動!」
クローネの叫びと同時に、一行はユウを中央にして光の柱に包まれた。
「逃がすかああああッ!!」
セインの叫びと同時に、黒雷のような影の槍が放たれる。だがそれは、リクが影壁で受け止めた。
「これは、希望のための退却だ!」
そして光が弾け、一行はその場から姿を消した。
影だけが、谷の残骸に、なおも静かに揺れていた。




