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第89話 影の深層、名を呼ぶ声

世界が光を失った瞬間、リクの意識は宙に投げ出されたような感覚に包まれた。


地に足はつかず、空も存在しない。ただ、無数の影が波のように揺らめき、どこからともなく低く、重い嗚咽が響いている。


「ここは……」


声が空間に吸い込まれていく。リクは足元を確かめようとするが、そこに“地”という概念はなかった。


そして、彼の前に、一人の少年が現れた。


髪は白く、眼差しは虚ろ。年齢は十歳ほどだが、その目は老人のように疲れていた。


「きみが……“第零式”か?」


少年は答えず、ただ自分の手を見つめていた。その手は途中から影になり、ゆらゆらと形を変えていた。


「名前……ないの。昔はあった。忘れたの、ずっと前に」


「どうして?」


「苦しかったから。痛かったから。名前を持っていると、壊れる時にもっと痛くなる」


リクは、言葉を失った。だが、その言葉の裏にある“孤独”だけは、痛いほど伝わってきた。


「君は……一人じゃない。もう、そんな場所にいるべきじゃない」


「でも、僕は人を殺した。ここで、何人も。兵士も、研究者も。名前を呼ばれたくない。思い出したくない」


リクは一歩、影の深淵へと足を進めた。


「それでも、俺は呼ぶ。君の名前が思い出せなくても、ここにいる“君”を俺は知りたい」


少年が顔を上げた。


「……なぜ、そこまで?」


「俺も……かつて“無価値”だと呼ばれた。影を持つだけで、災いだと。だからわかる。名前があることが、どれほど救いになるか」


リクは静かに手を伸ばす。


「一緒に思い出そう。君の名前を」


少年の影が脈動した。空間に波紋のような振動が広がり、無数の記憶の断片が舞い上がる。


軍服の男に囲まれた研究施設。笑う科学者。泣き叫ぶ子供たち。


「“君”は……兵器にされたんじゃない。“君”自身が選んだわけじゃない!」


「……でも、僕は……壊した」


「違う! 壊されたんだ。君は……何も知らされず、ただ影を宿されて、制御できなかっただけだ!」


少年の顔が、わずかに歪んだ。


その時、リクの胸に一つの映像が走った。


──白いカーネーションの花束。


──少年の母親が、息子のために編んだ布人形。


──そして、小さく囁く声。


『ユウ。おまえは、優しい子だよ』


リクの瞳が見開かれる。


「……“ユウ”。それが、君の名前だろう?」


少年の体がびくりと震えた。


影がざわめき、深淵にこだましていた嗚咽が静まり始める。


「……ユウ……ユウ……そうだ……僕の名前は……」


リクの手が、彼の肩に触れた。


「君は、名前を取り戻した。“影”じゃない。“ユウ”なんだ」


少年の姿が光に包まれ、空間がゆっくりと崩れていく。


「ありがとう、リク。……ありがとう、ぼくを……おぼえてくれて」


──次の瞬間、リクは目を覚ました。


谷の中央。


仲間たちの声、崩れかけた施設、そして彼の目の前には、一人の少年が倒れていた。


彼の影は静まり、表情には穏やかな微笑みが浮かんでいた。


「……ユウ」


その名を呼ぶと、少年は微かに目を開いた。


「僕……まだ、生きて……いいのかな」


リクは迷わず頷いた。


「君は生きて、未来を選ぶ。影と共に」


そしてその影は、静かに形を変え、ユウの背に寄り添った。


第零式──もはや“兵器”ではなかった。


ひとりの少年が、自分の名を取り戻した瞬間だった。



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