第88話 眠るもの、目覚めるもの
黒月の谷。
そこは、影と魔力の死角が幾重にも重なり合う、呪われた地だった。太陽の光すら届きにくい渓谷の底は、常に薄暗く、まるで夜と昼の境界そのものが歪んでいるかのようだった。
リクたちは谷底に踏み入った瞬間から、空気の重さが変わったことに気づいた。
「……まるで、水の中を歩いてるみたいだ」
カイルが呼吸を浅くしながら呟いた。
魔素の密度が常軌を逸していた。木々は灰色に染まり、土は脈打つように赤黒く濡れている。エリナは結界を張りながら前進し、クローネが後方から全体の魔力の流れを読み取っていた。
「感知できる。強い“感情”の残滓がある。怒りと、悲しみと、拒絶……」
リクは頷いた。「“第零式”の名を冠する存在は、おそらく“感情”ごと影と融合させられた。だからこそ制御不能だったんだ」
そのとき、谷の奥から風が吹いた。
風の中に混じる声──いや、“声のような気配”が、彼らの心を撫でるように通り過ぎた。
『……だれか、いますか……』
「……聞こえたか?」エリナが硬直する。
「聞こえた。……だが、これは“念”だ。生者の声じゃない」
リクが影を展開し、前方の霧を祓う。
そこには、崩れかけた石柱と、かつて研究施設だったと思われる石造りの基礎構造があった。
「ここだ。父の研究が行われた場所……そして、すべてが終わった場所」
彼らが足を踏み入れたその瞬間、地面が震えた。
影が、音もなく立ち上がった。
それは人の姿をしていた。だが顔はなく、肌は影そのもの。輪郭が曖昧なまま、ただ存在し、ただそこに“立っていた”。
「……これは」
「たぶん、“第零式”そのもの」リクが声を絞る。「いや、“かつて第零式と呼ばれた者の残滓”……」
存在はリクをじっと見つめ、音もなく一歩踏み出した。
その瞬間、空気が爆ぜ、影が周囲に解き放たれる。
「防げ!」
リクの叫びと同時に、エリナの結界とリクの影防壁が同時に展開される。
爆発的な魔力の放出が起こり、木々が吹き飛び、地面が抉れた。
クローネが怒声をあげる。「やばい! あれ……まだ生きてる!」
「……意識がある……?」
リクは理解した。これは“記憶”や“感情”の塊ではない。
まだ、この存在は“生きている”。
リクは影を前へと伸ばし、存在に呼びかける。
「君は……名前があるか?」
沈黙の中、影の存在が、ゆっくりと首をかしげる。
『……名前……わからない……いたい……いたくて……わすれた……』
言葉ではない、しかし確かに伝わる“声”。
その影はまるで、存在を問われるたびに苦しみを増していくように、全身を震わせていた。
「これは……影因子が自我を保てないまま暴走してる……けど……」
リクは影をそっと伸ばし、距離を詰める。
「……君は、まだ“壊れていない”。意志がある。なら、俺の声を聞いてくれ」
リクの手が届くかというその瞬間──
影が突如として形を変え、巨大な腕と牙を持つ獣のように変貌した。
「来るぞッ!!」
全員が即座に戦闘態勢に入る。
リクの影狼が駆け出し、クローネが後方支援の魔法陣を展開。カイルは正面から斬撃を浴びせ、エリナが再び光の結界で仲間を包む。
だがその中、リクだけが後退せず、前へと進み続けていた。
「……お前を、“殺さない”」
それは誓いだった。
影が暴れる度に地面が揺れ、森が崩れる中、リクの声がひたすらに響く。
「お前は、ひとりじゃない。俺は……お前と向き合いたい」
その言葉に、獣のような影が、一瞬だけ動きを止めた。
リクの影が、そっと伸び、彼と“第零式”の影が交錯した。
その瞬間、世界が、光を失った。




