第76話 契約の兆し
影の迷界が、微かに揺れた。
空間そのものが震え、リクの足元に広がる影が波打つ。どこかから、音ではない何か――呼びかけのようなものが、リクの胸を打った。
「……呼んでいるのか……俺を?」
影は、意思を持った存在だった。リクはそれを知っている。だが、今、確かに感じた。影の中にある、もっと深い何かが――彼に応えようとしているのを。
リクは目を閉じた。
過去の喪失も、痛みも、後悔もすべてを背負いながら、心の奥底で問いかける。
「俺の声が、届くなら……」
その瞬間、影が収束し、彼の前にひとつの“かたち”を生んだ。
それは、人のようで、人ではなかった。獣のようで、精霊のようでもある、曖昧な存在。闇の粒子が集まり、鼓動を宿すように脈打ち、赤い瞳がリクをじっと見つめていた。
それは……リクが最初に契約した影ウサギ・ゴルムの面影を宿していた。
「ゴルム……なのか?」
答えはなかった。
だが、その存在は静かに、しかし確かにリクへと歩み寄った。
リクの胸の内から、言葉が溢れ出す。
「お前を、もう一度……呼びたい。共に在ってくれ……俺が、俺であるために」
影の存在が、リクの前で膝をついた。
すると空間に刻まれるように、あの古書に記されていた契約陣が足元に広がっていく。
リクは震える手で影に触れた。恐怖ではない。ただ、敬意と覚悟の感情が彼の指先に込められていた。
「……俺はリク・ハルト。無価値と蔑まれた、ただの人間だ。でも――」
「――今、魔物使いとして、君と生きたい」
魔力が響き、空間が共鳴する。影の存在が、リクの言葉に応じるように静かに頷いた。
その瞬間、契約陣が光を放ち、影とリクの身体を包み込んだ。
リクの内側で、何かが確かに繋がる。
過去の自分。弱さ。恐れ。すべてを知ったうえで、それでも手を伸ばす勇気。
――それが、契約の本質だった。
闇が収まり、目を開けたリクの隣には、新たな姿を得た影の獣がいた。以前よりも逞しく、凛とした気配をまとったその存在は、リクの呼吸に合わせるように身を沈めた。
「……よろしくな、相棒」
影の迷界の中で、リクはようやく、自分の足で立った。
その足元には、影が寄り添っていた。




