第75話 影より深き淵 希望の頁
時間の感覚が曖昧になっていた。
影の迷界で、リクは膝を抱えて座り込んでいた。声も出さず、動きもせず。ただ、意識だけが微かに現実をつないでいる。
どれほどの時間が経ったのか、自分がどこにいるのか、それすらもうどうでもよかった。
リナの絶叫。父の背中。兄の最期の眼差し。
すべてが何度も脳内で再生され、そのたびに胸が裂けるような痛みに襲われた。
「……誰も……いない」
ぽつりと呟いた声は、あまりにも細く、すぐに虚空に溶けた。
影の世界は静かだった。嘲笑も、慰めも、怒りもない。ただ、暗くて冷たい沈黙だけが永遠のように漂っていた。
「なんで……俺だけが……」
自分の手を見つめる。震えている。こんな手では、誰一人守れなかった。
何もできなかった。何も変えられなかった。何も、何も――
「うっ……うぅ……」
感情が決壊する。嗚咽が止まらない。涙が尽きることなく流れ落ち、地面に吸い込まれていく。
自分がどれだけ無力か、どれだけ無価値か。リクはそれを嫌というほど味わった。
誰も信じてくれなかった。
信じてくれた者たちは、皆、自分のせいで死んだ。
「ごめん……リナ……父さん……兄さん……」
何度も、何度も謝った。
それでも、誰も応えてはくれない。
闇の中に沈んだリクは、立ち上がる力も、怒る力も、泣き叫ぶ力さえも失っていた。
ただ、そこに座り続けるだけの存在。
彼が、まだ影の王となる前――
世界の底で、一人きりの少年が、静かに壊れていく。
影の迷界の底で、リクは動かず、沈み込んでいた。
父を失い、兄を失い、リナを失い、自分自身さえ信じられなくなったこの深淵の中で――ふと、ある記憶が胸をよぎった。
それは、すべてが始まる遥か前。まだ心の底に希望がかすかに灯っていた頃のことだった。
――エルト村の外れにある遺跡。その静寂な石の廃墟の中で、リクは一冊の書物を見つけた。
魔物使いの記録。
ぼろぼろで、誰の目にもただの古紙の束にしか見えないその書物は、しかしリクにとっては唯一無二の宝だった。あのとき、影ウサギに襲われながらも、彼は命懸けでそれを抱えて遺跡を脱出した。
なぜなら、そこには初めて「自分にもできることがある」と思わせてくれる何かがあったからだ。
――ページをめくるたびに、魔物たちが語りかけてきたような気がした。
『恐れるな。お前の声は、ここに届いている』
『孤独ではない。共に在ろう』
現実では誰にも必要とされなかったリクが、その書物の中では、確かに“求められていた”。
影の迷界の中で、そのときのことを思い出す。
リクは震える指先で幻のページをなぞる。心の奥底に焼き付いて離れなかった、あの魔法陣、あの言葉、あのあたたかい手触り。
「……あの本が……俺を、生かした」
村でも家でも、自分は誰にも理解されなかった。
だけど、あの本だけは違った。
『お前は、選べる』
そんな言葉が、どこかのページに書かれていた気がした。
選ぶ? 何を?
その問いに、今なら答えられる気がした。
「どう生きるかを。何のために、生きるかを」
リクは立ち上がった。
涙は、すでに枯れていた。
代わりに、胸の奥に熱が宿っていた。
あの本が、過去の自分に語りかけてくれたように。
今度は、今の自分が未来の自分へ語りかける番だ。
『もう一度、立ち上がれ』
『失ったものは戻らない。でも、お前はそれでも歩める』
影がリクの足元で静かにうねる。その輪郭が、かつての恐怖の象徴ではなく、意思をもった“友”のように感じられた。
「ありがとう……俺は……もう、逃げない」
それは小さな決意だった。けれど確かに、絶望の闇に差し込む最初の一筋の光だった。
リクは影の中に向かって歩き出す。
かつての自分を背負い、未来の自分へと手を伸ばして。
そして彼は、もう一度思い出す。
あの書物の、最初のページに刻まれていた一文を。
『魔物を従える力とは、心を交わす力である』
それは、彼が今一番欲している力だった。
だからこそ、リクは決めた。
「魔物使いとして生きる……俺の手で、この影を――運命を、選び取る」
そして、影が頷くように静かに揺れた。




