第72話 リナの記憶
深淵の静寂が、鼓膜を押し潰すように重くのしかかっていた。リクの足元に広がる影は、まるで生き物のように蠢き、彼の心の奥底を覗き込んでいるようだった。
影の迷界――そこは影の王のみが踏み入れることを許された、時と空間の境界に存在する異界。己の過去、恐怖、弱さ、そして欲望と正面から対峙せねばならない場所だった。
リクは、自らの影と向き合っていた。かつて父を見捨てた自分。兄を裏切った記憶。家族を守れなかった無力さ。
「お前に王の資格などない」
自分の姿をした"影のリク"が、冷酷な声で断罪する。
その言葉は、まるで氷のようにリクの胸に突き刺さった。拒絶ではない。真実の重みだった。
「俺は……あのとき、見殺しにしたんだ……」
リクの脳裏に浮かんだのは、血塗られた夜。父が魔物に襲われ、呻き声を上げていたあの瞬間。まだ幼かったリクは、怯えてその場から逃げた。
「助けられたはずだった……俺が……俺が動いていれば」
床に膝をつくリクの頬を、涙が滑り落ちる。誰もいないこの世界で、嗚咽だけが虚空に響いた。
「兄さんも……信じてくれてたのに……」
次に浮かぶのは、兄の笑顔。幼いころ、何もできないリクをかばい、村の嫌がらせから守ってくれた兄。だが、リクはその兄を裏切った。敵の策略に乗せられ、情報を漏らし、兄の部隊は壊滅した。
「信じてくれてたのに……信じてくれてたのに!」
自分の掌を見つめ、何度も拳で地面を叩く。痛みはまるで感じなかった。ただ、自責の念だけが熱を持ち、全身を灼いた。
「リナ……」
最後に浮かんだのは、リナ――幼い頃、村人たちの陰湿な嫌がらせの中で命を落とした、リクの家族の一人だった。優しくて、笑顔を絶やさず、リクの存在を肯定してくれた数少ない人。
彼女は、理不尽な憎悪の矛先となり、村の集団暴行の果てに命を落とした。そのとき、幼いリクは何もできず、ただ物陰に隠れて震えていた。
「守れなかった……俺が……守るって……言ったのに……!」
影の世界が歪み、リクの足元から無数の腕が伸びて彼を引きずり込もうとする。過去の断片が、まるで呪いのように彼に襲いかかる。
リクの意識は混濁し、錯乱した叫びが漏れる。
「俺なんて……王なんて……なれっこない……!」
影のリクが一歩近づく。
「そうだ。それがお前の真実。罪に塗れた無価値な存在だ」
全てが否定され、全てが失われたように感じた。
リクは、地に伏した。泣いていた。声を殺して、震える身体を抱きしめていた。
「誰か……許してくれ……俺を……」
だが、返ってくる言葉はなかった。
この世界に、赦しは存在しない。
ただ、自らを赦す強さだけが――王を名乗る資格なのだ。
……この苦しみの果てに、光が差すことを、リクはまだ知らなかった。
影は、静かに彼の背後に立っていた。
だが、リクの心は遠い記憶の中へ沈んでいた。彼のすべてを奪い去った、あの連鎖する喪失の始まりへ――。
あれはリナの家が襲われた夜だった。村人たちは火を放ち、扉を打ち壊し、叫びと泣き声が闇に混ざった。リナの父は拷問の末に吊るされ、母は人々の嘲笑の中で殺された。
リナは、リクの手を引いて納屋へ逃げ込んだ。その腕は震えていた。「リク、大丈夫。怖くない、私が守る」そう言った声が、今でも耳に焼き付いている。
だが、扉が破られた。リナはリクを物陰に押し込み、外に飛び出した。
「お願い、リクだけは……!」
それが彼女の最後の言葉だった。
翌朝、村の裏手に転がっていたリナの遺体は、血と泥にまみれ、原型を留めていなかった。
リクはその身体を抱きしめ、声もなく泣いた。
だが、それは始まりにすぎなかった。
この後、父を、兄を、そして居場所そのものを喪うのだ。
リクの影が揺らめく。
影は知っている。
彼が、まだ何も克服してなどいないことを。




