第64話 記憶の仮面
夜の帳がヴェラーノの街を静かに覆う頃、リクはひとり旧資料館の屋上に立っていた。街灯の灯りが遠くぼやけ、どこか別世界にいるような感覚を覚える。
「黙魔……本当に、ただの“見る者”だったのか?」
封蝋文書に記された警告。それはただの伝承に思えたが、近頃の暴動や人々の奇妙な言動は、確実に何かが“仕掛けられている”ことを示していた。自分の影が別のタイミングで揺れたように見えることすら、今では疑念の材料だ。
そのとき、リクの耳に、かすかに誰かの話し声が届いた。低く、柔らかく、しかし異様に馴染み深い声。リクは反射的に短剣に手をかけ、声の方向へ身を投じる。
声が導いた先は、資料館の地下階。かつて避難壕として使われていた場所だ。苔むした階段を下りるたびに、空気が冷え、呼吸すら重く感じる。やがて開けた空間にたどり着いたとき、リクの視線は一点に吸い寄せられた。
そこには、かつての自分とそっくりな青年が、座っていた。
「……よう、久しぶりだな。リク。」
「……誰だ。」
「何を言ってる。俺は、お前だよ。」
青年は笑った。その表情も声も、過去のリクそのものだった。違いがあるとすれば、その目に宿る感情のなさ。
「お前が見たいもの、聞きたいもの、全て知ってるさ。黙魔が“記録”したものだからな。」
リクは眉をひそめた。
「つまり、お前は黙魔の……模倣体か?」
「模倣でもあり、反射でもある。お前が流した涙、お前が口にした怒り、それを記録した黙魔が、今こうして“形”を持って立ち上がっている。……目的は一つ。お前を、理解することだ。」
「理解……だと?」
「この地における観察は終わり、次は選別の段階に入る。人間か、魔族か、それとも——」
突然、影が揺れた。背後に気配。リクはすぐに身をかわし、現れた“偽リク”の影から抜け出た長い腕を、短剣で切り払う。
「おいおい、少し落ち着けよ、俺。」
その皮肉交じりの声にリクは無言で睨みつける。
「お前は“俺”じゃない。ただの観察の残滓だ。」
「でも、お前の中にある“疑念”は俺が代弁している。なぜ、自分だけが“魔物使い”として異質なのか。なぜ、故郷では拒絶され、ここでは重用されているのか。そして——なぜ、お前は“誰かの期待”に応えようとしているのか。」
一瞬、リクの心が揺れた。
「……その問いに、俺はいつか答えを出す。だが、それを決めるのはお前じゃない。俺自身だ。」
影が爆ぜるように弾け、模倣体は空気に還った。
リクは深く息を吐き、階段を戻りながらつぶやいた。
「記録に“心”はない。だが……俺には、ある。」
その夜、リクは一枚の新しい文書を書き始めた。内容は、都市防衛と情報操作に関する提言。そして、未知の“模倣型存在”に対抗する術についてだった。
やがて彼は気づくだろう。黙魔の出現は、ただの災厄ではない。それは、自分自身の記憶と存在を揺るがす、新たな問いへの扉だったのだと。




