序章:静かな村
1. エルト村の日常
霧が立ち込める早朝のエルト村。村人たちは薄明かりの中でそれぞれの仕事に取りかかっていた。牛の鳴き声と鍛冶屋の金槌の音が響くこの村は、大陸の西端に位置する小さな集落だ。しかし、その地理的な重要性から、交易の拠点として機能していた。
「おい、早くその荷物を運べ! 商人たちが来る時間だぞ!」
村の中央広場で、荷車を押している男たちが怒鳴り声を上げた。遠くから見る限り、賑やかで活気があるように見える村。しかし、その裏側には、争いと不安が渦巻いていた。
エルト村は魔族領域との境界に位置しており、交易が盛んな一方で、魔物や魔族からの襲撃に常に脅かされていた。村を守る冒険者や戦士たちは日々その対応に追われているが、それだけで十分とは言えない。村の子供たちも、幼い頃から剣術や魔法の訓練を受け、自衛手段を身につけるのが通例だった。
しかし、リク・ハルトにとって、それは遠い世界の話だった。
「リク、これ持って鍛冶屋まで行け!」
村外れの小さな小屋から出てきたリクに、大声が飛んだ。鍛冶屋の親方が手にしたのは大きな鉄箱。中には修理用の工具や武器が詰まっている。
「……はい、わかりました。」
リクは答えると、その鉄箱を両手で抱えた。体力のない彼には重すぎる荷物だったが、拒否することはできない。
「もっと早く歩け! そんなんじゃ一日が終わっちまう!」
鍛冶屋の親方が苛立たしげに声を張り上げる。リクはふらつきながらも鉄箱を抱え、村の広場を横切った。
広場の片隅では、リクの幼馴染であるアレンとミリアが訓練をしていた。アレンは剣を構え、村の戦士と模擬戦を行っている。切れ味鋭い木剣の動きに、見物人たちが拍手を送った。
「すごいぞ、アレン! もう一人前の戦士だな。」
「ありがとう! まだまだ鍛えなきゃだけどね。」
一方、ミリアは広場の中央で光の魔法を放っていた。彼女が唱える呪文が成功するたびに、周囲から歓声が上がる。
「ミリア、さすがだね! ギルドに推薦されるのも時間の問題だよ。」
二人の才能は、村中の誰もが認めるものだった。それに比べてリクはどうだろう?
彼は誰からも期待されず、日々雑用をこなすだけの存在だった。
「リクも少しは鍛えたらどうだ? そんなことしてても、一生何も変わらないぞ。」
広場を横切るリクに、アレンが木剣を肩に担ぎながら言った。その言葉には悪意はなかったが、リクにはそれが一層心に刺さる。
「俺には……そんな才能ないから。」
リクは小さくつぶやくと、足早に広場を去った。
エルト村は表面上は平和に見えたが、魔物の脅威が常に迫っていた。最近では、村の近くの森で「影ウサギ」と呼ばれる小型の魔物が増えており、畑を荒らしているという噂が広まっていた。
冒険者ギルドの掲示板には、その討伐依頼が貼られている。
「また影ウサギか。あんなの、手慣れた冒険者ならすぐ片付く仕事だろう。」
ギルドの冒険者たちが掲示板を見ながら話している。リクはその横を通り過ぎたが、当然のように声をかけられることはなかった。
「俺にだって……何かできることがあれば……」
リクは拳を握りしめながら、自分の無力さを呪った。しかし、その一方で、彼の心には薄らとした希望が残っていた。それは、村外れの遺跡で見つけた古びた書物のことだった。
リクが遺跡を訪れるようになったのは、静寂を求めてのことだった。しかし、その夜はいつもと違う感覚が彼を包んでいた。月明かりが遺跡の石畳を薄く照らし、冷たい風が崩れた柱の間を通り抜ける。
「いつも通り、奥に行き過ぎないようにしないと……。」
リクは慎重に足を進めた。遺跡の中心部には強い魔力の流れがあると言われ、そこに巣食う魔物たちは村の冒険者でも手を出せないほど危険だと聞いていた。それでも、静けさに包まれた空間は、リクにとって唯一心を落ち着けられる場所だった。
薄暗い通路を抜けた先、崩れた壁の隙間からわずかに光が漏れているのが目に入った。
「何だろう……?」
リクはそっと壁に手をつき、隙間を覗き込んだ。そこには小さな部屋が広がっていた。部屋の中央には、古びた石台が置かれ、その上に一冊の書物が載っている。
「……本?」
それがただの書物でないことは、リクにもすぐにわかった。書物の周囲には微かな魔力の残滓が漂い、石台には古い魔法陣の痕跡が刻まれていた。
「これは……危険なものかもしれない……でも。」
彼は迷った。もしこれが貴重なものなら村の誰かに渡すべきだと考えたが、自分の目の前に現れたこの機会を見過ごすことはできなかった。
「ここに来たのは……俺だ。誰も見つけてないなら、まずは自分で確かめるしかない。」
慎重に部屋に入ったリクは、石台の前で膝をついた。書物は厚い革で装丁されており、表面には古代文字が刻まれていた。指で触れると、ひんやりとした感触が伝わる。
「これ、本当に古いものだ……。」
リクはそっと書物を開いた。中のページには見たこともない文字が並んでいる。その多くは摩耗して消えかけていたが、いくつかの部分ははっきりと残っていた。
「『魔物契約』……?」
リクは声に出してその単語を読んだ。そこには、魔物を従えるための術式や、契約の条件についての断片的な記述が記されていた。ページをめくるたび、リクの心は高鳴った。
「これが本物なら……俺でも、戦う力を手に入れられるかもしれない……!」
リクが書物に見入っていたその瞬間、背後で鋭い物音が響いた。振り返ると、遺跡の薄暗い通路の奥に赤い瞳が光っているのが見えた。
「……まずい!」
影ウサギだった。暗闇の中でもその輪郭ははっきりしている。低い唸り声とともに、その牙が光を反射しているのがわかる。リクの手が震えた。目の前の書物を置いて逃げるべきか、持ち帰るべきか――一瞬の迷いが彼を硬直させた。
「いや……これを失うわけにはいかない!」
そう決意すると、リクは書物を抱え込むようにして立ち上がった。影ウサギは警戒するようにその場でうろつきながらも、次第にリクとの距離を詰めてくる。
「どうする……どうすればいい!」
リクは心の中で叫んだが、時間は待ってはくれない。遺跡の壁に手をつきながら後退する彼に、影ウサギはついに飛びかかってきた。その瞬間、リクは咄嗟に足元に転がっていた石を拾い上げ、全力で投げつけた。
「くるなっ!」
石は影ウサギの頭部に直撃し、わずかながら怯ませることに成功した。その隙をついてリクは全速力で通路を駆け抜けた。後ろからは鋭い足音が追いかけてくる。
「なんて速さだ……! でも負けるわけにはいかない!」
息が切れそうになる中、リクは崩れた壁の隙間から外の月明かりを見つけた。その光景は、出口が近いことを知らせていた。
「あと少し……!」
彼は全力で走り続けた。影ウサギの足音が徐々に遠ざかっていくのを聞きながら、ついに遺跡の外へと飛び出した。冷たい夜風が汗ばんだ体を包み込む。
「……助かった……。」
地面に膝をつき、荒い息をつきながらリクは古書を抱きしめた。その革の装丁は手汗で湿っていたが、確かに自分の手にある。それがわずかな安堵をもたらした。
「これを……失わなくてよかった。」
しかし、彼は気づいた。影ウサギの赤い瞳が、まだ遠くから彼をじっと見つめているのを。完全に諦めたわけではない――そう直感したリクは、その場を離れる足に一層の力を込めた。
遺跡から離れ、村へ向かう道中、リクは古書の表紙を見つめた。中をめくると、書かれている文字の大部分は難解で理解できなかったが、特定のページだけが不思議と頭に入ってきた。それは、影ウサギのような「亡霊的な種族」に関する記述だった。
「この種族は特定の術式によってその霊的な存在を支配することが可能だ……?」
リクはぼんやりとその内容を読み取った。なぜこの部分だけが理解できるのか、自分でも説明できなかったが、今はそれを考える余裕はなかった。
「これなら……なんとかなるかもしれない。」
彼は本を閉じ、少しずつ息を整えながら歩みを進めた。
翌朝、リクは決意を新たに再び遺跡を訪れることを決めた。影ウサギがまだ自分を狙っているのならば、この書物に記された術式を試すしかない。たとえそれが自分の未熟な力でできるかどうか不安であっても、今はそれ以外に道はなかった。
「この古書……俺にも扱えるだろうか。」
リクはつぶやきながら、ゆっくりと遺跡への道を進んでいった。




