天井のシミ
天井のシミ
<1>
天井を見上げたところ、茶色いシミがあった。家の劣化がもうそんなに進んでいたのかと僕は驚いた。確かに、幼少の頃から僕のウチは、他のウチよりも少しボロいなぁ、と感じていた。築五十年くらいだろうか。正確な年数は分からない。けれどももう相当なガタが来ていることは間違えない。
天井をジッと見つめる。なんだかあのシミは、女性の顔のように思える。シミの濃い部分と薄い部分のコントラストが顔の輪郭を際立たせ、中央の二つの点がまるで眼球のようである。さらにシミは、上下に長い形をしていて、その緩やかな丸みを帯びたふくらみが、ほとんど女性の身体と思える。
こう思うのは、僕の年齢のせいである可能性も否めない。同学年の友人たちは、高校に上がってすぐに恋人を作った奴もいるし、恥ずかしげもなく性的な話題を大声で叫ぶ奴らもいる。そう考えると、あのシミがまるで女性の身体の特徴を尽く捉えている気がするのは、僕の心の問題で、とりわけ、あれが実際に女性の身体そっくりだという訳ではないのかもしれない。けれども不思議だ。昨日まではあんなシミは無かった。もしかしたらこの家が実は事故物件で、いよいよ心霊が活動を開始したのかも知れない。そう思えなくもない。むしろそう考えるのが極めて妥当であるような気さえする。
そういえば心霊というのは、なぜ古い家に出やすい気がするのだろう。真新しいマンションに出るという怪談話もなくはないが、近代美術館のど真ん中に現れる幽霊の話は聞かないし、古くて暗い団地のような集合住宅に現れる幽霊は一層恐ろしい。
僕の家のボロさといったらお墨付きだ。現代では核家族化が進み、経済状態の苦しい中でも無理をしてマイホームを買う人たちが後を絶たない中、僕の父親ったら古典的な複合家族でも目指しているのか、家に祖父母が居るのは当たり前ではないことを知ったのはつい最近だ。言われれば当然じゃないか、例えば僕は、将来のお嫁さんを実家に住まわせたいとは思えないのだ。
今日は高校が休みだし、中間テストも終わったばかりだから部屋でのんびりしよう。僕はベッドに横になって、二度寝をしようと試みた。しかし眠れない。天井のシミがどうしても気になるからだった。あのシミは美しい。まるで上等な絵画のようだ。本当にあれは偶然の産物なのか、とてもそんな風には見えない。女神のような美しさ……それは、僕の心を捉えて離さない。探求すべき芸術の分野である。
<2>
月曜日、これから一週間が始まろうとしている。この憂鬱さは広く万人に当てはまり、きっと普遍的な苦しみのはずだ。でも、けれども今の僕にとっては違った。僕の心は今、情熱的な感情でいっぱいだった。僕には思いを寄せる女性がいる。それは紛れもなく天井のシミだった。彼女は、言葉さえ発しないものの、毎晩、僕の目を見つめてくれるのだ。その眼差しから察するに、きっと僕に気があるに違いない。だって眠っている僕を一晩中見つめているのだから。僕はその思いに応えなくてはならない。
高校から帰ったら、彼女が出迎えてくれる。それがたまらなく癒しであり、救いでもあった。しかもあの人は美人の中の美人であり、世界中どこを探したってあのように顔立ちの整った女性はいない。どんな芸能人もハリウッド女優も、天井のシミの女性の美しさに比べると、たちまち霞んでしまう。それ程までに凄い女性が、僕の部屋に住んでいるのだ。
授業はまったく頭に入ってこないし、人の話も生返事。だけれども僕はかなり幸せで、それは月曜日が憂鬱でなくなるくらい素敵な感情。帰りを待つ人がいることは普遍的に幸福なのだ。
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ある日の午後、僕は部屋に入って天井のシミに「ただいま」と挨拶をする。それから「今日も奇麗だよ」と声をかけてやる。それは毎日の日課だったし、心の通ったやりとりだと信じて疑わなかった。
しかし、そういったやりとりを毎回繰り返しているうちに、ある一つの疑念が僕の心に浮かんで全然消えなくなってしまった。それは僕が、こんなにも彼女を愛しているというのに、彼女のほうからは全く何も返事をしないから、実は彼女は僕を愛していないのではないかという疑念だ。この疑念は強く残った。
その疑念が確信に変わったのは、木曜日だった。
僕が高校から帰って、天井のシミに「愛しているよ」と伝えた後にふと重大な事案に気が付いた。
「ねぇ、そういえば、僕は君を撫でてあげたことも、抱きしめてあげたことも無かったね。ごめんね、愛していないわけじゃないんだ」
僕は彼女に近づこうと試みた。近くで抱きしめて、愛を語ろうと思った。僕は勉強机を踏み台にして天井に近づき、彼女に手を伸ばした。美しい顔立ちだ。そして美しい身体つきをしている。その全てを包み込んであげようとしたところ、僕は足を滑らせて地面に転落したのだ。
突き放されたと直感した。彼女は僕に触れてほしくないのだ。あれだけ思わせぶりな態度をしておいて、あれだけ僕を見つめておいて、いざとなったらこれだ。重力とか物理法則とかを味方につけて、僕を拒絶してきたんだ!
それは許せない。たまらなく苦しい。
天井のシミの分際で、生意気なんだよ。
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許されない行為であるとは知っていた。しかし僕の心は収まらない。だからホームセンターで買ってきた。白いペンキを。これで一面を塗りつぶしてしまおう。一切の形跡すら残さない。完全犯罪だ。
心臓の鼓動は高鳴っていた。慈悲の気持ちは全くない。天井のシミの分際で、僕を裏切ったからだ。そもそも、どうして彼女は動かないんだ? 僕の部屋に居座るだけ居座って、毎晩僕を見ていたくせに。いざ僕が近づくと冷たく突き放してくる。それなら、僕の部屋から出ていけばいいのに。
実行は速やかであるべきだ。僕は机の上に立ち、天井のシミをしっかりと見つめる。相変わらず美しい。出会った当初が懐かしい。美しい天井のシミは、美しいまま終わりを遂げるべきである。永遠にその美しさが損なわれることがないように、僕がこの手で終止符を打つ。必ずそうしなければならないのだ。
ペンキは、天井のシミの女性に塗りたくった。形状が完全に消失し見えなくなるまで繰り返した。良心の呵責はなかった。ただ、清々しい気分だった。実は僕はサイコパスなのかもしれない。これだけ残酷な行動をとりながら、一切心を乱すことのない反社会性。その自分自身の暴力性と残虐性に我ながら、惚れ惚れとする程だ。
完膚なきまでの白。天井は、一切が白。美しいほど白。女の面影はない。
やってしまった。女を完全に消し去ってしまった。未だかつて、ここまで奇麗で完璧な完全犯罪を成し遂げた者が、過去に一人でもいただろうか。否、絶対にいないはずだ。
僕は今晩から、女の瞳に見つめられることなく、眠りにつくことができる。
おやすみ、僕の愛しい天井のシミ。
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その夜は豪雨だった。年に幾度も無い激しい台風だ。僕の心地の良い眠りは、天井から聞こえるラップ音によって阻害された。かなり大きい「バン」という音、何しろ古い家だ。雨漏りだけが重大な懸念事項だった。高校を卒業したら、家を出よう。狭くてもいいから、もっと新しく丈夫な住まいを借りよう。
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目を覚ました時、僕は気がおかしくなったのかと思えるくらいには激しく動揺した。頭を掻きむしり、自分でも何を叫んでいるか分からないが、とにかく暴言を吐いた。まさに悪夢だと思った。心臓は今にも爆発しそうだ。
雨漏りのせいで、乾ききっていないペンキが落ちてしまったんだ。いや、それだけならまだいい。問題なのは……嗚呼、ぬかった。ペンキが剥がれるということは……つまり、その奥に隠された天井のシミすら露わになってしまうということだ。
僕を見つめる、鋭い眼光。美術作品のように美しい裸体。懐かしい感覚、憎しみと恋愛感情が入り混じっている。
僕は激しく雄叫びを張り上げる。
「天井のシミだぁ! 天井のシミが現れたんだぁ!」
半狂乱だった。僕よりも彼女のほうが一枚上手だった。今はただ彼女からの報復だけが怖い。たまらなく怖い。天井のシミは永遠に僕の部屋に住み続ける。
以前よりも確実に抹消しなくてはいけない。あれは女神だ。たかがペンキ程度でどうこうできる存在ではない。抹消には確実さが肝心だ。完全にぬかった。雨漏りのことを度外視していた。そうだ、今度は確実に仕留めてやろう、美しいまま終われるんだ。僕に感謝してほしいよ、本当にね。
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走って階段を下りて、台所から牛刀包丁を持ってきた。これならきっと……大丈夫、僕ならやれるはずだ。牛刀包丁なんて、とりわけ危険極まりない刃物を使用すれば、あの天井のシミなんて一溜りもないはずだ。
実行する折に触れて、僕の胸の内側に強烈な恋愛感情が沸き起こった。初めて出会った時のような鮮烈な感情。僕の手によって……今度は、今度こそは、仕留める。
永遠に美しいままでいてくれ!
僕を見つめるその瞳は美しい、服を着ていないその姿は、神秘的で幻想的。
天井に何度も牛刀包丁を突き立てた。固い感触、思わぬ感覚に手がしびれる。突き刺さったのは先端の二センチ弱程度だろう、こんなものではだめだ。もっと深く、深く、抉り取らないと気が済まない。
血が噴き出すと思って身構えたが、案外、一滴の血液も流れないものだ。これはこれで、返り血について考える手番が無くなり、良い事である。
必死で突き立てる。手の皮が剥けたかもしれない。けど止めない。確実に仕留める。
渾身の一撃、一呼吸おいて「バン」というラップ音。何かが壊れる音がした。
<8>
長年の経年劣化、雨漏り、そして牛刀包丁による衝撃。これだけの条件がそろったなら、起こりえる出来事に想像はついたはずだ。
落ちてきた天井の下敷きになって初めて、自分がいかに浅はかであったかを痛感した。またもやぬかったのだ。たった今、僕を押しつぶしているのは、紛れもない、彼女だ。
天井の重さにより肺が圧迫されて呼吸がままならない。僕はそのうちに命を落とすだろう。やはりどこまでも、彼女のほうが一枚上手だ。でも……けれども僕は幸せだ。天井のシミと出会って初めて、肌と肌を重ねることができたのだから。
僕はありありと彼女の実在を感じ取っている。牛刀包丁を突き立てられてなお、彼女は僕を抱きしめてくれたのだ。白ペンキを塗りたくられてなお、彼女はこんな僕を許してくれたのだ。その事実がたまらなく嬉しい。嗚呼、僕は彼女の重さによって命を落とす。
天井のシミの下敷きになって、僕は、本当に幸せだ。
やっと一緒になれたね、僕の、僕だけの愛しい天井のシミ。
<完>