残したもの
乙坂つぐねは作家だった。
少なくとも、キャラの心情を表すのが苦手な新人作家である僕なんかよりもずっと、素晴らしい作家だった。
彼女は俗に言う、先の読めない展開を敷くストーリーテラーでもなければ、現実味を重視するリアリストでもない。彼女は主に、人間の心情を第一に考えるヒューマニストな作家だった。彼女が描く文には、読む者の心を打つ、人の優しさや葛藤、人間らしさが描かれており、冷静に見れば、突っ込みどころのある場面さえも、どうでもいいと思えるほどの力強さが文に込められていた。
僕が彼女の本に出会ったのは、高校を卒業した時期の頃だった。
大学受験に失敗し、未来のビジョンが見えなくなった時、不意に小説が読みたくなった。とりあえず本屋に寄り、特に理由もなく選んだ本が乙坂つぐねのデビュー作である「この日をいつか、思い出せ」だった。作家になるという夢を持つ少女が、様々な苦難に見舞われながらも、自分の夢に向かってゆくという話であり、その少女は夢を叶えたいと願っているものの、その夢を叶える勇気が持てない、情熱を持っていても、行動に移せない消極的な少女だった。だがそれでも、実際に何もしなくても、夢を諦めきれない自分に気づき、最終的には自分のやりたいことに積極的になる人間にまで成長して物語は幕を閉じる。
この手の作品は、いくらでもあるだろう。
だが僕は、この本を読み終えたとき思わず泣いてしまった。
恥ずかしい限りだが、主人公の姿が、僕自身の姿と重なっていたからだ。
この頃は、僕も作家の道に進むべきか悩んでいた時期だった。
とは言っても、実際に書いたことは限りなく少ない。書いたとしても、辛かった。一時期は、諦めることも考えた。夢を持っていても、どうしても一歩を踏み出せない、臆病な僕だった。
だけどこの物語の少女の、悩みや葛藤を乗り越え、自分の意思を貫く姿を見て、僕はとても、元気をくれた。勇気をくれた。走りだす覚悟を与えてくれた。
それぐらい自分にとって、大きな作品だった。
実際にこの作品は、評価がとても高く、乙坂つぐねの名を世に知らしめた作品でもある。
この作品で、特に好きな言葉がある。
「たとえたった一つだけの努力でも、絶対に価値があるよ」
僕は、誰かに誇れるような努力をしたことがない。
だけど、一つもしなかった訳じゃない。
そのたったそれだけの行動が、必ず実を結ぶ。
そんな風にに教えられた気がして。無駄じゃないよと、優しく包み込んでくれたような気がして。
乙坂つぐねという人間に、惚れ込んでいった。
それから約二年間、僕は作家としての道を歩み始めた。
親は最初は反対したが、僕の熱意が伝わったのか、とりあえず作家を目指すことは許してくれた。そして様々な試練を乗り越え、乙坂さんと同じ出版社でどうにかデビューすることになった。
だがデビューしたのはいいが、やはり売れない。
理由としては、キャラクターにあると思う。
僕の担当である編集者の人も、僕の作品を読んでくれた友人の言葉は揃って「キャラクターの気持ちが分かりにくい」というものだった。
自覚はしている。
僕は自分の気持ちを言葉にすることが、元々苦手だ。
そんな僕が、自分が作ったキャラクターの心情を表現するなんて、正直かなりの難問だった。
実際に書いてみて分かったことだが、小説を書くのは、相当な精神を消費する。
その上文才も申し訳程度しかなく、さらに締め切りまでに書かなければならない状況に、僕はかなり参ってしまった。
とても辛かった。
自分は元々、すぐに行動に移せる人間ではない。
嫌なことからは、すぐに逃げ出してしまうような人間だ。
そんな自分が小説なんて、いや、この社会に生きていけるような者として過ごせるなんて、虫のいい話だったのかもしれない。
もういっそのこと、辞めてしまおうか。
そんなことを思っていた時だった。
ある日、出版社の廊下を歩いていると、椅子に座っている女性を見かけた。
ふわふわとゆるく巻かれた髪。形が整っていて、だけど何処か少女の面影を感じさせる顔。
僕は彼女を知っていた。
ネットで彼女の顔は把握している。
乙坂つぐね。
僕がずっと話しかけたかった人だ。
「…」
同じ出版社のため、彼女の姿を見る機会はあった。というより、彼女に会うためにこの出版社のところで
小説を書くようにしたのだ。我ながらに馬鹿な話だ。そんなことで出版社を決めるなんて、もう少し考えてから決めるべきだっただろう。しかもこの二年間、まともに彼女に話しかけたことがない。話しかけたところで、冷たく返されて終わり、自分が思い描いていた彼女の理想像が壊れるかもしれない。それが怖くて、
ずっと話しかけずに二年の月日がたった。
ただ、今日は彼女の様子が少し違った。
何処か俯いていて、まるで重いものを背負っているかのように、身体が沈んでいた。
この姿でなければ、僕はまた黙って通り過ぎていたのかもしれない。
だけどこの時だけは、心が揺らいだ。
また逃げ出すのか?
せっかく彼女と出会うためにこの出版社に入ったのに、このまま見逃すのか?
怖かった。
だけどそんな自分を押し殺して僕は前に進んだ。
なんて声をかければいいか、迷った。
でもまずは、自分の感謝の思いを伝えようとして、口を開いた。
「あ…あの!」
乙坂さんはこちらを向いた。
改めて彼女の顔をみると、本当に美人だった。自分が憧れた作家がここまで美しい人なんて、一生の喜びだ…。なんて考えてる場合じゃない。とにかく話さないと…。
「ぼ、僕は、貴方のファンです!貴方の作品に支えられ小説家になりました!本当にすごいです!僕と同い年なのにこんなに勇気づけられる話を考えられるなんて、ほ、本当に素晴らしいです!ありがとうございます!き、急に話しかけられて迷惑かもしれませんが、この気持ちをどうしても伝えたかった。話をしたかった。と、とにかく本当にありがとうございます!貴方の作品、本当に大好きです!」
我ながらに酷いセリフだ。
ありがとうございますを二回も言うなんて、自分の語彙力の無さに幻滅する。
本当に小説家か?
しかもすごいだの、素晴らしいだの、こんな誰でも思いつく言葉しか並べられないなんて、本当に救いようがない。
彼女もきっと、呆れているに違いない。
…と思っていたが、彼女は最初は驚きはしたものの、次第に彼女の表情は柔らかくなり、そして微笑みを返した。
「ありがとう」
とても、透き通るような声だった。
「そう言ってくれて、嬉しい」
お世辞なのかもしれない。
それでも、僕のこの"好き"という気持ちが伝わったような気がした。何故か、そう思えた。
本当にこの気持ちを言って良かった。
そう思えるほど、彼女の抱擁力は凄まじいものだった。たった二文しかないセリフだけで、自分はこんなにも救われていた。こんな低俗な言葉しか言えない僕を責めるこなく受け止めてくれるなんて、彼女の度量のでかさに感謝した。
「でも、もうダメかもしれない」
…え。
彼女は、先ほどの笑顔に陰りを見せていた。
たしかに彼女は、さっきから元気がない様に見えた。
本当にどうしたのだろうか…?
「こんなこと、言っていいのかな…」
彼女は、そんな消えてしまいそうな声を絞り出した。
彼女は今悩んでいる。
少なくとも、もうダメだ、と言ってしまうほどに。
それでも彼女は、誰かに自分の悩みを打ち明けるのを拒んでしまうぐらい、自閉心が高い人間なのだろう。
そんな人間は、いずれは心が壊れてしまうかもしれない。
誰にも打ち明けないまま、一人で。
なら、誰かが彼女に悩みをさらけ出してもいいと、一人じゃないよと、言ってあげなければならないのではないか。
覚悟を決めろ。
今、この場にいるのは僕しかいない。
「…僕で良ければ、相談にのりますけど…」
彼女は、また僕を見た。
その顔は、驚きと希望に満ちていた。
「いいの?」
「…僕に何かできるかどうかは分かりませんが、言ってしまったほうが、楽になると思いますよ。だから、遠慮せずに、言ってください。」
僕は、少し嬉しかった。
彼女が僕にくれた恩を、ここで返すことができることに。
「ありがとう」
彼女は、本当に嬉しそうだった。
「実は私、この前小説を書き上げたの。それはもうすでに出版されたんだけどね」
「それって"あきらめるな、群青"ですか?」
彼女は、頷いた。
たしかにその本は、最近発売された乙坂つぐねの最新作だ。当然僕はその本を購入し、すでに読み終えた。内容としては、彼女らしい勇気がでる最高の作品だった。それと何か関係があるのだろうか。
「その作品、正直に言って全力を出せたとは言えなかった。ハッピーエンドで終わらせたけど、無理やり辻褄を合わせたところもあったし、何より、キャラクター達の魅力を伝えきれなかった部分が、たくさんあったの。それに、自分の思いを文に込められたともいえない」
そうなのだろうか。
たしかに「あきらめるな、群青」で、彼女の内面を見れたというわけではなかったような気がする。実際にレビューとかも見ても、その評価は賛否両論の結果になっており、今でも賛成派と否定派の争いがネットで繰り広げられている。
それでも、僕がこの作品を好きなれたのも、一重に乙坂つぐねのファンだったからに他ならない。多少の歪みがあっても、僕はこの作品を、というより乙坂つぐねという人間を嫌いになれるわけがなかった。
「私、最近の作品で自分の思いを吐き出せることができなくなっている様な気がするの。出来たとしても他の作品で書いたことだし、同じことを何度も書いてもマンネリになるだけだし…何より辛かった。文を書く度、心が擦り減ってゆく…。…私、怖いの。小説が嫌いなってしまう自分がいて、辞めてしまいたい自分がいて、なにも、出来なくなってしまうの…」
乙坂さんの声が、掠れてゆく。
彼女の気持ちが、僕には分かる。
小説家なら、誰もがぶつかる壁だろう。
僕も何度もやめてしまおうとおもったか分からない。文を書くことがこんなにも苦痛だったなんて、自分の非才さに何度も折れそうになった。
「私、もう辞めた方がいいのかな?」
彼女は上を見上げた。目に溜まった涙を零さずにしているかの様に。
「このまま小説が嫌いになるぐらいなら…。もういっそのこと、逃げ出したほうがいいのかな?」
だけど溢れてゆく涙を、止めることはできなかった。
「…」
彼女は今、助けを求めている。
小説家として、自分はどうすべきなのか悩みながら。
今回だけじゃない。もしかすると、今までだってずっと思い通りの作品を書けない自分に何度も打ちのめされたのかもしれない。僕が良かれと思って読んでいた作品達にも、実はそういう葛藤があったのかもしれない。
だけど僕は知っている。
彼女が生み出してきた作品が、どれだけの人達に影響を与えてきたのかを。
今、言わなければならない。
僕自身がどれだけ、乙坂つぐねの作品に支えられてきたのかを。
彼女が物語に意味を求めるなら。
僕がその意味を与えなければならない。
「…二年前のことです」
口を開いた。少しだけ、緊張があった。
「あの頃は作家になるか、それとも別の道に行くべきか悩んでた時期だったんです。そういう悩みがあったからなのか、大学受験に失敗して、将来のことが曖昧になって、自暴自棄になっていたんです」
そう。あの頃は本当に酷かった。
将来に向けて行動することをせず、自堕落な生活を繰り返す日々だった。
「だけど、そんな時に貴方の本に出会ったんです。"この日をいつか、思い出せ"という作品で、主人公の悩みながらも前に進んでゆく姿に本当に惚れてしまったんです。特に主人公がラストに言った言葉の、たとえたった一つだけの努力でも、絶対に価値があるよ、というセリフが好きで、彼女の成長が感じられる言葉で……とにかく感動しました!この言葉に、僕は何度も助けられました!本当に、本当にありがとうございます!」
不器用ながらも、自分の思いを口にして分かった。
自分は、本当に彼女の作品に支えられてきたんだなと。
「だから、もう辞めるだなんて言わないでください。僕はまだ、貴方の作品を見ていたい。これからも、僕は貴方から学びたいことが沢山あるんです。これで終わりだなんて…僕はやだ。それに…」
同じ小説家だから分かることがある。
僕らの、本当の思いを。
「貴方だって本当は、もっと小説を書きたいんじゃないですか?」
「…!」
彼女ははっとしたようにこちらを見た。
やはりそうだ。
たとえどれだけ辛くても。
どれだけ逃げ出したくなっても。
書かずにはいられない。
何かを残さなければ、生きていけない。
僕もそうだ。
結局今こうして辞められずにいるのは、物語を描くのがたまらなく好きだからだ。
「僕は、そんなやりたい事を手放してほしくない。書きたいことが見つからなければ、見つかるまで探せばいい。僕も手伝いますし、編集の人もいます。だから、こんなところで諦めてほしくない。だって、僕は…」
そう言って彼女の顔を見る。
彼女の表情は、期待に満ちていた。
「僕は、貴方のことを、愛しているから…」
……て。
な、何を言っているんだ僕は!
これじゃまるで告白じゃないか!
「……ふふっ」
彼女は笑ってしまった。
あぁ、恥ずかしすぎる!
穴があったら入りたい……!
「いや……!あのっ、僕は……」
「…ありがとう」
三度目のありがとう。
心からの、感謝のように感じた。
「そんな言葉を、私は待っていたのかもしれない」
彼女は、また笑った。
まるで彼女にまとっていたしがらみから、解放されたように。
とくんと、胸が高鳴る。
そうか。
僕は、この笑顔と出会うために生まれてきたのかもしれない。
今も忘れない。
あの時感じた、胸を締め付けるような、温かい痛みを。
この日を境に僕らは交流を深めた。
同じ年だったこともあってか、僕らが仲がより良い方向に進むのは、時間がかからなかった。
彼女と過ごした日々は、とても楽しかった。
時々映画に誘ってみたり、好きな小説について話したり、……特に理由もなく、一緒にいたりした。
本当に素晴らしい日々だった。
ここでは語り尽くせないほどに。
こんな日々がいつまでも続くと思っていた。
いつまでも。
でも。
そんなことは、なかった。
乙坂つぐねは死んだ。
未完の物語を、この世に残したまま。